第六話 新たな配合(フォーミュラ)
あれから、三年という月日が流れた。
化学反応には「不可逆変化」という言葉がある。
一度変化してしまった物質は、二度と元の状態には戻らない。
人間関係もまた同じだ。
俺、相良隆司の人生は、あの劇的な「分離」を経て、全く新しい組成へと生まれ変わっていた。
「あなた、ネクタイ曲がってるわよ」
玄関先で、柔らかい声が俺を呼び止める。
振り返ると、そこには新しい妻、紗枝子(さえこ)が立っていた。
彼女は俺と同じ製薬会社の研究職で、以前から俺のプロジェクトを支えてくれていた部下だった。
あの騒動の後、仕事に没頭する俺を公私ともに支え続け、子供たちとも時間をかけて信頼関係を築いてくれた。
派手さはないが、聡明で、何より誠実な女性だ。
由美のような、男を惑わす甘い香水の匂いはしない。
代わりに、陽だまりのような穏やかな安心感が、彼女からは漂っている。
「ああ、ありがとう。やっぱりこの結び方は苦手だな」
「もう、不器用なんだから。じっとしてて」
紗枝子は苦笑しながら、俺のネクタイを慣れた手つきで直していく。
その距離感に、俺は心地よい温もりを感じていた。
かつての結婚生活で感じていた、常に何かを試されているような緊張感は、ここにはない。
あるのは、互いを尊重し、背中を預けられるパートナーとしての信頼だけだ。
「パパー! 早くしないと予約の時間過ぎちゃうよ!」
「お父さん、僕もう準備できてるよ」
リビングから、美優と蓮の声が飛んでくる。
美優はもう高校二年生。
蓮は中学二年生になった。
二人とも背が伸び、すっかり大人びた表情を見せるようになった。
あの時の傷――母親に捨てられたというトラウマは、紗枝子の献身的な愛情と、時間という薬によって、ゆっくりと、しかし確実に癒やされつつある。
「はい、これでよし。……行ってらっしゃい、あなた。今日は蓮くんの誕生日だから、張り切らないとね」
「ああ。行ってきます」
俺は紗枝子と子供たちを連れて、家を出た。
以前住んでいたマンションは売却し、今は少し郊外に建てた一軒家に住んでいる。
庭には紗枝子が植えたハーブが茂り、週末には家族でバーベキューを楽しむこともある。
完璧な配合(フォーミュラ)。
今の俺の人生は、不純物が一切ない、理想的な結晶構造を保っていた。
車を走らせ、都心へ向かう。
今日は蓮の十四歳の誕生日祝いで、彼のリクエストにより、少し高級なフレンチレストランを予約していた。
皮肉なことに、そこはかつて由美が「行きたい」とねだっていた店と同じ系列だった。
だが、今の俺にとって、それはただの「店」でしかない。
過去の記憶がフラッシュバックして胸が痛むこともない。
完全に、消化済みのデータだ。
***
同時刻。
都内の雑居ビルが立ち並ぶ薄暗い裏通り。
その一角にある定食屋の裏口で、一人の女がポリバケツに生ゴミを放り込んでいた。
相良由美。
かつての美貌は、見る影もなく崩れ落ちていた。
髪は白髪が目立ち始め、美容院に行く金もないため、後ろで無造作に束ねているだけ。
肌は乾燥して荒れ、目尻には深いシワが刻まれている。
何より、その手。
かつてはネイルサロンで手入れされ、家事をサボっていたため白魚のように美しかった指先は、今はアカギレだらけで赤黒く腫れ上がっていた。
スーパーのパートと、夜の皿洗いの掛け持ち。
強い洗剤と冷たい水が、彼女の皮膚を、そしてプライドを容赦なく削り取っていた。
「おい、相良! ゴミ捨て終わったらとっとと皿洗え! ランチタイム始まってんだぞ!」
「は、はい……すいません……」
店長からの怒号に、由美は小さくなって答えた。
時給千百円。
ここでの稼ぎの半分以上は、毎月の慰謝料の支払いに消えていく。
隆司への三百万円、玲子への三百万円。
弁護士を通して公正証書を作成されたため、支払いが滞ればすぐに給料が差し押さえられる。
逃げ場はない。
「くそっ……なんで私がこんな目に……」
由美は冷たい水に手を浸しながら、呪詛のように呟いた。
あの日、家を追い出され、安アパートに転がり込んでからの三年間は、地獄だった。
最初は「すぐに新しい男が見つかる」と思っていた。
自分にはまだ女としての価値があると思っていた。
だが、現実は残酷だった。
四十を過ぎ、バツイチで、多額の借金(慰謝料)を抱えた、生活感丸出しの女。
寄ってくるのは、金目当ての詐欺師か、体目当ての既婚者だけ。
まともな男は、由美の「負のオーラ」を敏感に察知し、近づこうともしなかった。
「……痛い」
洗剤が傷口に染みる。
ふと、窓ガラスに映った自分の顔を見た。
そこにいたのは、自分でも目を背けたくなるような、疲れ切った老婆だった。
これが、私?
大学時代、ミスコンに選ばれた私が?
隆司に「君は僕の女神だ」と言わせた私が?
「違う……これは私じゃない……」
由美は首を振った。
桐島。
あの男の顔が脳裏に浮かぶ。
彼さえいなければ。
彼が甘い言葉で誘惑しなければ。
私は今頃、タワーマンションで優雅に紅茶を飲み、子供たちの成長を見守っていたはずなのに。
噂で聞いた。
桐島はその後、再就職もままならず、怪しげな情報商材の営業や、日雇いの現場作業を転々としているらしい。
先日、街中で彼を見かけた。
ヨレヨレのスーツを着て、駅前でポケットティッシュを配っていた。
目が合った瞬間、彼は逃げるように顔を背けた。
その姿は、あまりにも惨めで、憎しみすら湧いてこなかった。
ただ、「ああ、私もあっち側の人間なんだ」という絶望的な確認作業が行われただけだった。
「おい相良! 手が止まってんぞ!」
「す、すいません!」
由美は再び、油まみれの皿と格闘し始めた。
終わりのない懲役刑。
それが彼女の残りの人生だった。
***
数時間後。
由美は仕事を終え、ふらふらと駅へ向かっていた。
今日は日曜日。
街は家族連れやカップルで賑わっている。
楽しそうな笑い声が、由美の鼓膜を不快に震わせる。
幸せそうな人々を見るのが辛い。
自分が失ったものを、まざまざと見せつけられるからだ。
「……あ」
駅ビルに入ろうとした時、自動ドアの向こうから歩いてくる集団に目が止まった。
心臓が、ドクンと大きく跳ねた。
見間違うはずがない。
背が高く、知的な顔立ちの男。
相良隆司。
そして、その隣には、清楚な雰囲気の女性。
さらに、背の伸びた少年と、美しく成長した少女。
美優と、蓮だ。
四人は楽しそうに談笑していた。
隆司は、由美が最後に見た時のような冷徹な顔ではなく、穏やかで満ち足りた笑顔を浮かべている。
子供たちも、新しい母親らしき女性に懐き、蓮はその女性の腕に手を回している。
「……うそ」
由美の足が止まった。
呼吸が止まった。
時が止まった。
あまりにも完璧な「家族」の姿。
かつて自分が中心にいたはずの、しかし今は完全に自分が排除された状態で完成している幸福な絵画。
逃げなければ。
見つかってはいけない。
今の自分の、この薄汚れた姿を見られたくない。
そう思うのに、足が動かない。
視線が吸い寄せられる。
その時、隆司がふと顔を上げた。
視線が、真っ直ぐに由美の方を向いた。
「あ……」
目が合った。
由美は思わず、身を固くした。
罵られるかもしれない。
嘲笑されるかもしれない。
あるいは、少しは懐かしんでくれるかもしれない。
「元気だったか」と、声をかけてくれるかもしれない。
そんな、あまりにも身勝手な期待が、一瞬だけ脳裏をよぎった。
だが。
隆司の反応は、そのどれでもなかった。
彼は由美を見た。
確かに、網膜にその姿を映した。
しかし、その瞳には何の感情も浮かばなかった。
怒りも、軽蔑も、哀れみさえも。
まるで、道端の石ころや、壁のポスターを見るかのような、完全なる「無関心」。
彼は一瞬だけ視線を止め、すぐに何事もなかったかのように隣の女性に向き直った。
「紗枝子、あそこのカフェで少し休憩しようか。蓮も喉渇いただろ?」
「そうね。美味しそうなケーキがあるわよ」
「やったー! ケーキ!」
四人は由美の横を通り過ぎていく。
その距離、わずか数メートル。
由美は隆司の匂いを、子供たちの匂いを感じた。
だが、彼らは誰一人として、由美に気づかなかった。
いや、隆司だけは気づいていたはずだ。
それでも、彼は由美を「認識」しなかった。
彼の世界において、相良由美という存在は、もう完全に消去(デリート)されたデータなのだ。
「……まって」
由美の口から、蚊の鳴くような声が漏れた。
手を伸ばそうとした。
だが、その手は汚れていた。
油汚れと手荒れでボロボロの手。
対して、彼らの背中はあまりにも眩しく、清廉だった。
「隆司……美優……蓮……」
名前を呼んでも、雑踏にかき消される。
彼らは一度も振り返ることなく、光の中へと消えていった。
新しい家族。
新しい未来。
そこに、由美が入る隙間は一ミリたりとも存在しなかった。
由美はその場にへたり込んだ。
駅ビルの冷たいタイルの感触が、膝を通して伝わってくる。
涙は出なかった。
ただ、胸の真ん中に風穴が開いたような、寒々しい空虚感だけがあった。
「私が……捨てたんだ……」
今さらながら、理解した。
あの時、自分が手放したものが何だったのか。
それは単なる「生活」ではなく、「人生そのもの」だったのだ。
安っぽいスリルと引き換えに、積み上げてきた全ての時間をドブに捨てた。
そして、その代償は、一生かけても償いきれないほどの孤独だった。
周囲の人々が、うずくまる由美を奇異な目で見て避けていく。
「なにあの人」「酔っ払い?」「関わらない方がいいよ」
ヒソヒソ話が聞こえる。
由美は、自分が世界の異物になったことを悟った。
***
その夜。
隆司は自宅の書斎で、ウイスキーのグラスを傾けていた。
窓の外には、静かな住宅街の夜景が広がっている。
一階からは、紗枝子と子供たちがテレビを見て笑う声が聞こえてくる。
昼間、駅ビルで由美を見かけたことを思い出す。
彼女は老けていた。
やつれていた。
かつての輝きは失われ、生活苦が滲み出た、ただの中年女性になっていた。
だが、それを見ても、俺の心は驚くほど凪いでいた。
「ざまぁみろ」という優越感さえ、今はもう薄い。
ただ、「ああ、そういう人がいたな」という、過去の事実確認だけ。
実験で失敗したサンプルを廃棄処分した後、そのゴミ箱の中身をいちいち気にしないのと同じだ。
彼女は俺の人生におけるエラーであり、今はもう修正されたバグに過ぎない。
「あなた? まだお仕事?」
ドアが開き、紗枝子が顔を出した。
手には温かいハーブティーのカップを持っている。
「いや、もう終わりだ。……ありがとう」
紗枝子は俺の隣に来て、窓の外を見た。
「今日は楽しかったわね。蓮くん、すごく喜んでた」
「ああ。紗枝子のおかげだよ。君がプレゼントを選んでくれたから」
「ふふ、私はただ、あの子が好きそうなものをリサーチしただけよ」
紗枝子は俺の肩に頭を乗せた。
その温もりが、俺の心を満たしていく。
これが、本物だ。
俺が守るべきもの。
俺と共に歩んでくれるもの。
「ねえ、隆司さん」
「ん?」
「私、今すごく幸せよ」
その言葉に、俺はグラスを置き、彼女を抱き寄せた。
「奇遇だな。俺もだよ」
俺たちは静かにキスをした。
その味は、甘く、深く、そして永遠に続く予感に満ちていた。
机の上には、一冊の古いアルバムが置いてある。
以前の家族写真が入っていたものだ。
だが、その中身はもう入れ替えられている。
由美が写っていた写真は全て処分され、代わりに紗枝子と子供たち、そして俺の、新しい笑顔の写真で埋め尽くされている。
最後のページには、今日撮ったばかりのプリクラが貼られていた。
四人で変顔をして、お腹を抱えて笑っている写真。
俺はアルバムを閉じ、本棚に戻した。
もう、過去を振り返る必要はない。
実験は成功した。
新たな配合(フォーミュラ)は安定し、幸福という名の化合物を生成し続けている。
この反応は、俺たちが命ある限り、続いていくだろう。
気づいた時にはもう遅い——。
かつての妻と間男が、その真理を泥水の中で噛み締めている頃、俺は新しい光の中で、二度と手放さない幸せを強く握りしめていた。
これが、俺の復讐の完成形であり、そして新しい人生の始まりだった。
妻の浮気が発覚したので、間男の奥さんと結託して徹底的に追い込みました。今さら泣いても許しません、君はもう僕の人生の「異物」ですので。 @flameflame
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