第五話 分離精製
ネクサスエッジ・ソリューションズ本社、第二会議室。
窓のない密室には、重苦しい空気が澱んでいた。
長方形のテーブルを挟んで、桐島和也は人事部長と法務担当の役員と向かい合っていた。
空調の音がやけに大きく聞こえる。
桐島の額からは、脂汗が止めどなく流れ落ちていた。
彼はハンカチで何度も顔を拭うが、その手は小刻みに震えている。
「桐島部長。事実関係の確認は済みました」
法務担当の男が、氷のような声で告げた。
テーブルの上には、数枚の書類と領収書のコピーが並べられている。
それは、桐島が「顧客との接待」として申請し、会社の経費で処理していた飲食代や宿泊費の明細だ。
日付は、全て由美との密会日と一致している。
「こ、これは誤解です。確かに日付は重なっていますが、昼間はクライアントと会って……」
「往生際が悪いですよ」
人事部長が遮った。
「君の奥様から、詳細なタレコミがありました。君が自宅で保管していた裏帳簿のコピー、それに君の個人的なクレジットカードの明細。これらを突き合わせれば、君が会社の金を私的な不倫旅行に流用していたことは明白です」
「玲子が……」
桐島は絶句した。
まさか、長年連れ添った妻が、自分のキャリアを終わらせるための決定打を会社に送りつけてくるとは。
彼女は、ただ黙って耐えているだけの「都合の良い妻」ではなかったのか。
「業務上横領、ならびに就業規則違反。特に今回は、取引先の信用を損なう悪質な行為と判断しました」
法務担当が淡々と処分を読み上げる。
「本日付で、懲戒解雇処分とします。退職金は支給されません。また、不正流用した経費、総額百八十万円については、二週間以内に全額返済を求めます。応じない場合は、刑事告訴も辞さない構えです」
「ちょ、ちょっと待ってください! 懲戒解雇!? それだけは勘弁してください! 諭旨解雇にしてくれませんか!? 再就職に響きます!」
桐島は椅子から立ち上がり、テーブルに手をついて懇願した。
四十歳での懲戒解雇。
それは、この業界での死刑宣告に等しい。
経歴に「横領による解雇」という傷がつけば、まともな企業が雇ってくれるはずがない。
「君が会社の信用を傷つけた事実を重く受け止めてください。……警備員、彼を出口まで」
人事部長は冷ややかに視線を逸らした。
入室してきた警備員に両脇を抱えられ、桐島は引きずられるように部屋を出された。
「待ってくれ! 俺は部長だぞ! こんな仕打ちはないだろ! 玲子! あいつのせいだ! くそっ!」
廊下に響く怒号は、誰の同情も引くことはなかった。
社員たちは遠巻きに彼を見つめ、ひそひそと嘲笑している。
「あれが営業の桐島?」「不倫で横領だって」「奥さんに刺されたらしいよ」「ダッサ」
かつてのエース社員は、一瞬にして嘲笑の的へと転落した。
ダンボール箱一つ抱えて会社の通用口から放り出された時、桐島は初めて、自分が失ったものの大きさに震えた。
***
一方、東京家庭裁判所の一室。
無機質なパーティションで区切られた調停室で、由美はハンカチを目元に押し当てていた。
向かいには二人の調停委員。
そして、その隣には、表情を一切崩さない夫、隆司が座っている。
「……ですから、子供たちには母親が必要なんです。あの子たちは、私がいないと何もできないんです。ご飯だって、洗濯だって、全部私がやってきたんですから!」
由美は涙ながらに訴えた。
作戦だった。
インターネットで調べた「親権獲得のためのテクニック」。
母親であること、育児実績があること、そして夫の仕事が忙しく育児に参加できないことを強調する。
そうすれば、多少の不貞行為があっても、親権は母親に有利に働くはずだ。
そう信じていた。
「相良さん、奥様はこのように仰っていますが」
男性の調停委員が隆司に話を振る。
隆司は静かに手元のファイルを広げた。
「妻の主張には、事実誤認が多々あります」
隆司の声は、研究発表を行う時のように冷静で、抑揚がなかった。
「まず、『私がいないと何もできない』という点ですが、彼女が不倫に現を抜かしていたここ数ヶ月、家事の七割は放棄されていました。掃除は週に一度、食事はスーパーの惣菜か外食。子供たちの弁当も、冷凍食品を詰めるだけか、コンビニで買わせる日々でした。これがその証拠となる、毎日の食事の写真と、家計簿の記録です」
隆司はタブレットを操作し、モニターにデータを映し出した。
散らかったリビング、茶色一色の夕食、そして不倫相手とのデート代に消えた家計の使途不明金。
客観的なデータは、由美の「良き母」という演技を粉々に粉砕した。
「そ、それは……たまたま忙しかっただけで……」
「さらに」
隆司は由美の言い訳を許さない。
「子供たちの精神状態についても言及させてください。今回の件で、子供たちは母親に対して強い不信感と嫌悪感を抱いています。こちらをご覧ください」
隆司が差し出したのは、二通の手紙だった。
美優と蓮が書いた陳述書だ。
調停委員がそれを読み上げる。
『ママは嘘つきです。おばあちゃんの看病に行くと言って、男の人と旅行に行きました。パパが一生懸命働いているのに、裏切りました。私は、そんなママと一緒に暮らしたくありません。パパと暮らしたいです。今のママは汚いです』
美優の角張った文字が、由美の心臓を突き刺す。
『ママがいない間、パパがご飯を作ってくれました。パパといる方が安心します。ママはいつもスマホばかり見ていて、僕の話を聞いてくれませんでした。パパがいいです』
蓮の拙い文字が、由美の母親としてのプライドにトドメを刺した。
「嘘……あの子たちが、こんなこと書くわけない……隆司、あなたが書かせたんでしょ!?」
由美はテーブルを叩いて立ち上がった。
「あの子たちは私のことが大好きなのよ! 母親を嫌いになる子供なんていないわ!」
「座ってください、奥さん」
女性の調停委員が冷ややかに諭した。
「これはお子さん自身の意思で書かれたものです。調査官との面談でも、同様の発言をされています。中学生と小学校高学年です。自分たちの置かれた状況を判断するには十分な年齢ですよ」
「そ、そんな……」
由美は力なく椅子に座り込んだ。
子供たちを味方につければ勝てると思っていた。
だが、子供たちはとっくに、母親の嘘と欺瞞を見抜いていたのだ。
「結論を申し上げます」
隆司が静かに、しかし断固とした口調で告げた。
「離婚は不可避です。親権は私が持ちます。養育費は求めませんが、不貞行為に対する慰謝料三百万円を請求します。また、財産分与に関しては、マンションの売却益から慰謝料分を相殺し、残額を折半とします」
「三百万円……!? そんなお金、あるわけないじゃない!」
「君の実家に相談するなり、相手の男性に請求するなりしてください。これは、君が壊した家庭の値段です。安いくらいだ」
隆司の目は、汚物を見るような冷たさを湛えていた。
かつて愛を囁いてくれた夫の面影は、そこには微塵もなかった。
そこにあるのは、不純物を排除し、純粋な結晶を取り出そうとする科学者の目だった。
***
調停が終わり、裁判所の外に出ると、空はどんよりと曇っていた。
由美はふらふらと歩きながら、スマホを取り出した。
頼れるのは、もう彼しかいない。
桐島和也。
彼なら、きっと私を助けてくれる。
私たちは愛し合っているのだから。
何度かコールした後、電話が繋がった。
「もしもし!? カズくん!? 私よ、由美よ!」
『……ああ、お前か』
桐島の声は、酷く酒焼けしていた。
後ろでガヤガヤと騒がしい音がする。
居酒屋だろうか。
「聞いて! 隆司ったら酷いの! 離婚だ、慰謝料だって! 子供たちまで奪おうとして……私、もうどうしたらいいか……」
由美は涙声で訴えた。
彼からの「大丈夫だよ、俺が守るから」という言葉を期待して。
しかし、返ってきたのは、耳を疑うような罵声だった。
『うるせえな! こっちはそれどころじゃねえんだよ!』
「え……?」
『お前のせいで会社クビになったんだぞ! 退職金も出ねえ、借金背負わされて、家も追い出された! 玲子の奴、俺の口座凍結しやがって……全部お前のせいだ! お前と会わなきゃよかった!』
「な、何を言ってるの……? 愛してるって、言ったじゃない。一緒になろうって……」
『愛だ? 笑わせるな。ちょっと遊んだだけだろうが! 本気になるわけねえだろ、子持ちのオバサンになんて!』
ブツッ。
通話が切れた。
ツーツーという電子音が、由美の耳に虚しく響く。
「……遊び?」
スマホを握りしめたまま、由美は路上に立ち尽くした。
行き交う人々が、奇異な目で彼女を見て通り過ぎていく。
私が人生を賭けた恋は、彼にとってはただの「遊び」だった。
家庭を捨て、子供たちを傷つけ、夫を裏切ってまで手に入れたかったものは、最初から存在しない幻だったのだ。
「あ、あああ……」
喉の奥から、言葉にならない嗚咽が漏れた。
失ったものの大きさが、津波のように押し寄せてくる。
優しい夫。
可愛い子供たち。
暖かな家。
安定した生活。
それら全てを、私は自らの手でドブに捨てたのだ。
安っぽいスリルと引き換えに。
数日後。
由美は、都内の外れにある築四十年の木造アパートにいた。
六畳一間、風呂なし、トイレ共同。
家賃三万五千円。
パートの給料と、わずかな貯金で借りられるのはここが限界だった。
壁は薄く、隣の住人の咳払いが聞こえてくる。
カビ臭い畳の匂いが、鼻をつく。
「……寒い」
暖房器具を買う金もなく、由美は薄い毛布にくるまって震えていた。
隆司からの慰謝料請求、桐島の妻・玲子からの慰謝料請求。
合わせて六百万円。
とても払える額ではない。
弁護士に相談したが、「自己破産するか、分割で払い続けるしかない」と冷たく言われた。
実家の母に泣きついたが、「親子の縁を切る」と門前払いされた。
母は、由美が「看病」をダシにして不倫旅行に行っていたことを隆司から聞き、激怒していたのだ。
孤独。
完全なる孤立無援。
由美はMINEを開いた。
かつてのママ友グループ、パート先の仲間、そして家族のグループ。
その全てから、彼女は弾き出されていた。
唯一残っているのは、桐島とのやり取りだけ。
『愛してる』『ずっと一緒だ』。
その甘い言葉の羅列が、今では呪いの言葉のように彼女を苦しめる。
「なんで……私が何をしたっていうのよ……」
由美はスマホを壁に投げつけた。
画面にヒビが入る。
「ちょっと幸せになりたかっただけじゃない! 誰にも迷惑かけてないじゃない! なんでみんな私を責めるの!?」
彼女はまだ、理解していなかった。
自分の行いがどれほど残酷で、どれほど多くの人の心を殺したのかを。
被害者意識という殻に閉じこもり、自分の不幸を嘆くだけ。
それが、彼女に残された唯一の防衛本能だった。
***
その頃、隆司は都心の高層ホテルのラウンジにいた。
向かいには、桐島玲子が座っている。
テーブルの上には、二つのグラス。
祝杯をあげるわけではないが、一つのプロジェクトが完了したことへの区切りとして。
「お疲れ様でした、相良さん」
玲子が静かにグラスを持ち上げる。
その表情は、以前会った時よりも晴れやかに見えた。
「こちらこそ。おかげで、スムーズに事が運びました」
「元夫……桐島は、今はネットカフェを転々としているようです。日雇いのバイトで食いつないでいるとか。慰謝料の支払いも滞りそうですが、給料の差し押さえ手続きは済ませてあります」
「徹底していますね」
「ええ。彼には一生、借金を背負って生きてもらいます。それが私の『愛』の形ですから」
玲子は美しく、そして残酷に微笑んだ。
「由美……元妻の方は、和解を求めて手紙を送ってきましたよ」
隆司はカバンから封筒を取り出した。
封は切っていない。
「『私が悪かった、もう一度やり直したい』と、弁護士を通じて伝えてきました。アパートの生活が耐えられないそうです」
「それで、どうされたんですか?」
「読みもせずにシュレッダーにかけました。私にとって彼女はもう、実験で生じた有害廃棄物でしかありません。適切な処理を済ませた以上、振り返る必要はない」
隆司は冷徹に言い放った。
心の中に、痛みはもうなかった。
あるのは、不純物を取り除き、純度百パーセントの平穏を取り戻したという達成感だけだ。
「子供たちは?」
「元気ですよ。最初は泣いていましたが、今は新しい生活に順応しています。彼らは強い。私たちが思っている以上に」
「そうですか。……よかった」
玲子は目を細め、夜景を見つめた。
二人の共犯関係は、ここで終わる。
これからは、それぞれの人生を歩んでいくことになる。
傷ついた過去を背負いながらも、前を向いて。
「では、私はこれで」
隆司は席を立った。
会計を済ませ、ホテルのロビーを出る。
夜風が心地よい。
東京の空気が、これほど澄んでいると感じたのは何年ぶりだろうか。
スマホを取り出し、待ち受け画面を見る。
そこには、由美の姿はない。
笑顔の美優と蓮、二人だけの写真だ。
「帰ろう」
子供たちが待つ家へ。
誰の嘘もない、清潔で、静かな家へ。
隆司は力強い足取りで歩き出した。
その背中は、かつてのような疲れたサラリーマンのものではなかった。
人生の主導権を取り戻した、一人の男の背中だった。
分離精製、完了。
不純物は除去された。
あとは、新たな配合(フォーミュラ)で、未来を再構築するだけだ。
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