第四話 臨界点突破
箱根の山あいに佇む高級旅館『花月亭』。
その離れにある客室露天風呂から、白い湯気が夜空へと立ち昇っている。
硫黄の微かな香りと、ヒノキの香りが混じり合う贅沢な空間。
湯船に身を沈めているのは、由美と桐島だった。
「……はぁ、極楽だな」
桐島が夜空を見上げながら、満足げに息を吐く。
月明かりに照らされた彼の顔は、アルコールと情事の余韻で赤く上気していた。
「本当ね。カズくん、ありがとう。こんな素敵な場所に連れてきてくれて」
由美は彼の胸に背中を預け、うっとりとした声を出す。
湯船の中で絡み合う二人の足。
そこには、互いの家族に対する罪悪感など、微塵も存在しなかった。
あるのは、自分たちが世界の中心にいるという万能感と、背徳的な快楽だけだ。
「由美、このまま帰りたくないな」
桐島が由美の濡れた髪を指で梳きながら囁く。
「私も……。家に帰りたくない。あのカビ臭い生活に戻るなんて、考えただけで鬱になっちゃう」
「カビ臭い生活、か。上手いこと言うな。俺の家も似たようなもんだよ。妻とはもう何年も会話らしい会話がない。家に帰っても、冷めた飯と冷めた視線があるだけだ」
桐島は自嘲気味に笑い、由美の肩を抱き寄せた。
「俺たち、もっと早く出会っていればよかったな」
「うん……でも、今からでも遅くないよね?」
由美が振り返り、潤んだ瞳で桐島を見つめる。
その視線は、計算された角度で男の庇護欲を刺激する。
「ああ、もちろんさ。今回の旅行で確信したよ。俺に必要なのは、玲子みたいな仕事人間の堅物じゃない。由美、お前みたいな癒やしを与えてくれる女性だ」
「カズくん……嬉しい」
二人は湯気の中で唇を重ねた。
その熱い口づけは、現実逃避のための麻酔薬だ。
由美の脳裏には、隆司の無表情な顔や、子供たちのことが一瞬よぎったが、すぐに甘い思考で塗り潰した。
隆司は私がいない間、子供たちの世話をしてくれている。
「お母さんの看病」という大義名分があるのだから、何も疑ってはいないはずだ。
私は久しぶりの休日を楽しんでいるだけ。
毎日家事と育児に追われている自分へのご褒美だ。
そう自分に言い聞かせ、彼女は桐島の首に腕を回した。
「ねえ、いつか一緒になろうね」
「ああ。時期を見て、俺の方も話を切り出すよ。財産分与とか面倒なことはあるけど、弁護士に任せればなんとかなるだろ」
「私の夫も、私がいないと何もできない人だから、最初は反対するかもしれないけど……でも、愛のない結婚生活を続けるより、お互いのためだと思うの」
「愛のない結婚生活」。
その言葉が、夜の闇に溶けていく。
彼らは知らなかった。
この瞬間、彼らが「愛の巣」だと信じているこの場所の外側で、冷徹な現実が牙を剥いて待ち構えていることを。
そして、彼らが語る「未来」など、もはやどこにも存在しないことを。
***
同時刻、都内某所。
俺、相良隆司は、実家の客間でノートパソコンを開いていた。
画面には、いくつかのウィンドウが並んでいる。
弁護士からのメール、興信所の共有フォルダ、そしてGPSの追跡画面。
隣の部屋では、子供たちが祖父母とトランプをして遊んでいる声が聞こえる。
その明るい笑い声が、俺の殺伐とした心にわずかな温もりを与えてくれた。
『準備完了しました。明日の朝一番で、内容証明郵便が発送されます』
玲子からのメッセージだ。
俺は短く返信する。
『了解しました。こちらの荷出しも完了しました。あとは、彼らの帰りを待つだけです』
今日の日中、俺は由美が不在の自宅で、大掛かりな「整理」を行った。
業者を呼び、俺と子供たちの私物をすべて運び出したのだ。
衣類、学用品、おもちゃ、アルバム。
さらには、俺が独身時代から使っていた家具や家電に至るまで。
リビングに残されたのは、ダイニングテーブルと椅子、そしてソファだけ。
生活感のあった空間は、まるでモデルルームの抜け殻のように寒々しい景色へと変貌した。
そして、そのダイニングテーブルの上に、俺は「プレゼント」を置いた。
緑色の離婚届。
俺の欄にはすでに署名と捺印が済んでいる。
その横には、分厚い茶封筒。
中身は、興信所が撮影した証拠写真の数々と、慰謝料請求書、そして弁護士からの通知書だ。
写真の中には、今朝、彼らが旅館の入り口で腕を組んで笑っているものも含まれている。
リアルタイムで転送されたデータを、コンビニでプリントアウトしたものだ。
これを見れば、彼女は言い逃れができないどころか、自分が常時監視されていたという恐怖に震え上がるだろう。
「……パパ?」
ふすまが開き、美優が顔を出した。
「どうした? もう寝る時間か?」
「ううん、お水飲みに来ただけ。……パパ、まだ起きてるの?」
「ああ、少し仕事の整理があってね」
嘘ではない。
これは、俺の人生における最大にして最期の「清算業務」だ。
美優は部屋に入ってくると、俺の隣に座った。
画面は見ないようにしているようだ。
「明日、ママ帰ってくるんでしょ?」
「ああ。夕方くらいかな」
「……どうなるの?」
不安そうな声。
俺はパソコンを閉じ、娘の肩を抱いた。
「ママは、びっくりするだろうな。家が空っぽで、誰もいないんだから」
「ざまぁみろ、だね」
美優がポツリと言った。
その言葉の強さに、俺は少し驚いた。
だが、その瞳は揺れていた。
憎しみと、哀しみと、それでも断ち切れない情愛がない交ぜになった複雑な色。
「美優。無理に嫌わなくていいんだぞ」
「……嫌いじゃないよ、まだ。でも、許せないの。パパを馬鹿にして、私たちを騙したこと」
「そうか。……パパも同じだ。だから、ケジメをつける」
俺たちの間に流れる沈黙は、重いが、決して不快ではなかった。
共有された痛みが、親子の絆をより強固なものにしている。
俺は美優の頭を撫でた。
「さあ、明日に備えて寝よう。明日は忙しくなるぞ」
「うん。おやすみ、パパ」
美優が部屋を出ていくのを見送り、俺は再びパソコンを開いた。
画面の中で、GPSの赤い点がゆっくりと動いている。
彼らは今、幸せの絶頂にいる。
その高低差があればあるほど、落下した時の衝撃は大きくなる。
位置エネルギーが運動エネルギーに変換され、対象物を粉砕する。
物理の法則と同じだ。
感情もまた、落差によって破壊力を増す。
「楽しんでくれ、由美。それが最後の晩餐だ」
俺は静かに呟き、エンターキーを叩いた。
それは、明日の朝九時に、桐島の会社のコンプライアンス窓口へ送信される告発メールの予約ボタンだった。
添付ファイルには、玲子が収集した不正経費の証拠データが満載されている。
これで、彼は社会的な地位も同時に失うことになる。
逃げ場はない。
全方位からの包囲網は、すでに完成していた。
***
翌日、日曜日。
午後四時。
行楽帰りの車で渋滞する高速道路。
桐島のセダンの助手席で、由美はけだるげに窓の外を眺めていた。
「あーあ、帰りたくないなぁ」
「またすぐに連れてきてやるよ。次はどこがいい? 伊豆か、それとも軽井沢か」
「本当に? 約束よ?」
由美は甘えた声を出したが、ふとスマホの画面を見て眉をひそめた。
「変ね……」
「どうした?」
「昨日から、隆司からも子供たちからも、一度も連絡がないの。いつもなら『夕飯どうする』とか『蓮が宿題やらない』とか、うるさいくらいMINEが来るのに」
「へえ、珍しいな。まあ、羽を伸ばさせてくれてるんじゃないか? 感謝しないとな」
桐島は軽く笑ったが、由美の胸には小さな棘のような不安が刺さった。
既読すらつかない。
こちらのメッセージは送信されているのに、反応がない。
まさか、何かあったのだろうか。
事故? 病気?
それとも……。
その時、桐島のスマホが車のスピーカーフォンを通じて鳴り響いた。
着信画面には『ネクサスエッジ・人事部長』の文字。
日曜日の夕方に、人事部長から?
車内の空気が一瞬で張り詰める。
「……はい、桐島です」
桐島は努めて平静を装って応答した。
『桐島くんか。休日にすまないな』
スピーカーから聞こえる声は、氷のように冷たかった。
『明日の朝一番で、本社の人事部へ出頭したまえ。詳しい話はそこで聞く』
「は? 出頭って、どういう……何かトラブルでも?」
『とぼけるな。君の経費不正利用に関する内部告発があった。証拠も揃っている。それと、社内規定違反の不貞行為についてもだ。……とにかく、明日は覚悟してくることだ』
プツン、と通話が切れた。
車内に、重苦しい沈黙が流れる。
桐島の顔から、血の気が引いていた。
「な、なんだよ今の……内部告発? 不貞行為?」
ハンドルを握る手が震えている。
由美もまた、顔面蒼白になっていた。
「カズくん、どういうこと? バレたの? 会社に?」
「知らねえよ! 誰が……まさか玲子が?」
桐島は舌打ちをし、乱暴にクラクションを鳴らした。
先ほどまでの甘い雰囲気は消し飛び、車内はパニックと焦燥感に支配された。
「クソッ、ふざけんなよ……!」
桐島は悪態をつきながら、由美の家の近くの交差点で車を停めた。
「由美、悪いがここで降りてくれ。俺は今すぐ帰って玲子を問い詰めなきゃならない」
「えっ? ここで? まだ家まで距離あるのに……」
「そんなこと言ってる場合か! 俺の人生がかかってんだぞ! 早く降りろ!」
怒鳴られ、由美は弾かれたように車を降りた。
トランクから荷物を放り出され、桐島の車はタイヤを軋ませて走り去っていった。
取り残された由美は、キャリーケースを引いて呆然と立ち尽くした。
これが、さっきまで「愛してる」と囁いてくれた男の態度なのか。
夕暮れの冷たい風が、由美の頬を打ちつけた。
不安が、恐怖へと変わり始めていた。
由美はタクシーを拾い、自宅マンションへと向かった。
心臓が早鐘を打っている。
会社にバレたということは、隆司にもバレている可能性が高い。
いや、もしかしたら隆司が会社に通報したのかもしれません。
言い訳を考えなければ。
ただの友達と旅行に行っていたことにしよう。
写真は撮られていないはず。
大丈夫、隆司は鈍感だから、泣いて謝れば信じてくれるはず。
マンションのエレベーターに乗り、自宅のある階へ。
廊下を歩く足音が、やけに響く。
玄関の前に立ち、震える手で鍵を取り出す。
鍵穴に差し込む。
回る。
よかった、鍵は変えられていない。
少しだけ安堵し、ドアを開ける。
「た、ただいまー……」
恐る恐る声をかける。
返事はない。
子供たちの騒ぐ声も、テレビの音も、隆司がパソコンを叩く音もしない。
静寂。
まるで誰も住んでいない廃墟のような、冷たく乾いた静寂がそこにあった。
由美は靴を脱ぎ、リビングへと足を踏み入れた。
そして、息を呑んだ。
「……え?」
ない。
テレビがない。
子供たちのゲーム機がない。
棚に飾ってあった家族写真がない。
カーテンレールには、レースのカーテンだけが寂しく揺れている。
隆司の書斎のドアが開いているが、中は空っぽだ。
子供部屋も覗いた。
ベッドも机も、綺麗さっぱり消え失せていた。
「な、なによこれ……泥棒?」
いや、違う。
泥棒がこんなに綺麗に荷物を運び出すわけがない。
これは、引っ越しだ。
それも、計画的で、徹底的な。
由美はリビングの中央に戻り、ダイニングテーブルに近づいた。
そこだけが、以前と変わらずに残されていた。
そして、その上に置かれた異質な物体に目が釘付けになった。
一枚の緑色の紙。
『離婚届』。
その三文字が、視界いっぱいに広がり、脳を殴りつけた。
「嘘……」
膝から力が抜け、その場に崩れ落ちそうになる。
震える手で、その横にある茶封筒を手に取った。
中から、数枚の写真が滑り落ちる。
床に散らばったそれを見て、由美は悲鳴を上げそうになった。
イタリアンレストランで桐島と手を繋ぐ私。
ホテル街へ消えていく私。
そして、昨日の旅館の入り口で、桐島とキスをしている私。
「い、いつの間に……」
全身の血が逆流するような感覚。
監視されていた。
ずっと。
私が「カズくんとの愛」に酔いしれている間、隆司はずっと冷ややかな目で私を観察し、証拠を集め、この瞬間を待っていたのだ。
Twotterの書き込みのスクリーンショットもある。
『ATM』『枯れていく人生』。
私が裏アカウントで吐き出した毒が、そのまま自分に返ってきている。
封筒の中には、弁護士からの手紙が入っていた。
『受任通知兼慰謝料請求書』。
無機質な活字が、事実を淡々と告げている。
不貞行為による精神的苦痛。
慰謝料三百万円の請求。
親権の主張。
そして、今後の一切の連絡は弁護士を通すこと。
直接の接触は禁止する。
「嫌……嫌よ、こんなの!」
由美はスマホを取り出し、隆司に電話をかけた。
『おかけになった電話番号は、着信拒否設定にされています』
無慈悲なアナウンス。
LINEを開く。
『退出しました』
家族グループから、隆司も、美優も、蓮も、全員が退出している。
個別のメッセージを送ろうとしても、既読はつかない。
ブロックされている。
「美優! 蓮! どこにいるの!?」
叫んでも、返ってくるのは虚しい反響音だけ。
由美はテーブルに突っ伏して泣き崩れた。
さっきまでの幸福感は、幻のように消え去った。
残ったのは、空っぽの部屋と、突きつけられた絶縁状、そして莫大な慰謝料請求。
「どうして……どうしてこんなことに……」
私はただ、少し幸せになりたかっただけなのに。
女としての喜びを取り戻したかっただけなのに。
なんでこんなに酷いことができるの?
隆司、あなたは鬼よ。
被害者意識で涙を流す由美の耳に、インターホンが鳴り響いた。
隆司かもしれない。
帰ってきてくれたのかもしれない。
由美は一縷の望みをかけて、モニターを見た。
そこに映っていたのは、隆司ではなかった。
作業服を着た見知らぬ男たち。
『鍵の救急車』というロゴが見える。
「あ、すいません。家主の相良様からのご依頼で、鍵の交換に参りました。奥様、退去のお時間はいつ頃になりますでしょうか?」
「……は?」
退去?
私が? この家から?
「あ、聞いておられませんか? 本日付けでこちらのマンションは売却手続きに入ると伺っておりますが」
由美は言葉を失った。
家さえも、失うのか。
帰る場所など、もうどこにもないのだ。
由美はその場に座り込み、絶望の深淵を覗き込んだ。
これは夢だ。
悪い夢だ。
目が覚めれば、また優しい隆司と可愛い子供たちがいて、平和な日常が戻ってくるはずだ。
だが、テーブルの上の離婚届は、残酷なまでに鮮やかな緑色を放っていた。
それは、彼女が越えてしまった一線の色であり、二度と戻れない平穏な日々の墓標だった。
***
一方、桐島の自宅マンション。
玄関のドアを開けた桐島は、チェーンロックがかかっていることに気づき、舌打ちをした。
「玲子! 開けろ! 俺だ!」
ドンドンとドアを叩く。
しばらくして、ドアの隙間から玲子の冷めきった目が覗いた。
「あら、お帰りなさい。楽しかった? 温泉旅行」
「なっ……知っていたのか?」
「ええ、全部ね。相良さんからすべて伺いました」
玲子の声は、かつてないほど低く、そして鋭かった。
「会社から連絡があったでしょ? 明日の査問委員会、楽しみね。あなたが横領した接待費の明細、私が全部揃えて提出しておいたから」
「お前……! 自分の夫を売ったのか!?」
「売った? 冗談じゃないわ。私は不良債権を処分しただけよ」
玲子は隙間から一通の封筒を突き出した。
「これ、私の弁護士から。離婚届と慰謝料請求書。あと、このマンションの名義は私と私の両親だから、あなたは今すぐ出て行って」
「ふざけるな! ここは俺の家だ!」
「ローンの支払いは殆ど私の父が出したでしょう? 忘れたの? それに、不貞を働いた有責配偶者に、住居に留まる権利なんてないわ」
「玲子、待ってくれ! 話し合おう! 魔が差したんだ、今回だけなんだ!」
桐島はプライドをかなぐり捨てて懇願した。
社会的地位も、家庭も、住む場所も失うわけにはいかない。
だが、玲子は冷酷に言い放った。
「今回だけ? 笑わせないで。あなたの過去の女遊び、全部知ってるわよ。……さようなら、汚らわしい人」
バタン!
重い金属音と共にドアが閉まり、鍵がかかる音がした。
「玲子! 開けろ! 玲子ぉぉぉ!」
桐島の絶叫が、高級マンションの廊下に虚しく響き渡る。
彼は知った。
自分が築き上げてきたと思っていたものが、実は砂上の楼閣に過ぎなかったことを。
そして、その土台を自らの手で崩してしまったことを。
夜の帳が下りる頃、東京の二箇所で、二つの「幸福」が完全に崩壊した。
臨界点を突破した復讐劇は、まだ終わらない。
次は、彼らが地獄の底で、己の罪の重さを噛み締める番だ。
俺は実家のベッドの中で、スマホの通知を見つめながら、静かに目を閉じた。
第一段階、完了。
心地よい疲労感と共に、俺は深い眠りへと落ちていった。
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