第三話 反応促進(ブースト)
その会合は、由美が「実家の母の看病」という名目で不倫旅行に出発する三日前に行われた。
場所は丸の内にあるホテルのラウンジ。
高い天井と、間接照明に照らされた重厚な調度品が、これから行われる会話の内容とは裏腹に、静謐な空気を醸し出していた。
俺は指定された席で、冷めたアールグレイの香りを嗅ぎながら、一人の女性の到着を待っていた。
桐島玲子。
俺の妻を寝取った男、桐島和也の妻だ。
調査員の須田を通じてコンタクトを取り、今日、初めて顔を合わせることになった。
「……お待たせいたしました。相良さん、でしょうか」
声をかけられ、俺は顔を上げた。
そこに立っていたのは、予想していたような「疲れ果てた主婦」ではなかった。
濃紺のパンツスーツを隙なく着こなし、背筋をピンと伸ばした知的な女性だった。
年齢は俺と同じくらいだろうか。
目元の化粧は控えめだが、その瞳には強い意志の光が宿っている。
ファイナンシャルプランナーという肩書きに相応しい、理知的で自立した女性のオーラを纏っていた。
「はじめまして。相良隆司です。お忙しい中、ありがとうございます」
「いいえ。私にとっても重要なことですので」
玲子は俺の向かいに座り、オーダーを取りに来たウェイターにブラックコーヒーを注文した。
彼女が落ち着くのを待って、俺は単刀直入に切り出した。
感情論で時間を無駄にするつもりはない。
俺たちがここにいるのは、傷を舐め合うためではなく、共通の敵を排除するための戦略会議を開くためだ。
「電話でもお話ししましたが、これが私が集めた証拠です」
俺は鞄から厚手の封筒を取り出し、テーブルの上に滑らせた。
玲子は眉一つ動かさず、それを受け取る。
中身を確認する手つきは、まるで契約書に目を通すビジネスマンのように迅速かつ正確だった。
写真が一枚、また一枚とめくられる。
夫が他の女と抱き合い、ホテルへ入っていく決定的な瞬間。
普通なら取り乱してもおかしくない場面だ。
だが、彼女の表情筋はピクリとも動かない。
ただ、ページをめくる指先だけが、紙が擦り切れるほど強く押し付けられていた。
「……なるほど。ここまで鮮明に撮られているとは。脇が甘いにも程がありますね、あの人は」
「驚かれませんか?」
「夫の女癖の悪さは今に始まったことではありませんから。ただ、ここまで『本気』になっているのは初めてかもしれません。相手の女性……奥様ですよね? とてもお綺麗な方だから、のめり込むのも無理はないのかもしれません」
玲子の声には、諦めと、そして冷え切った軽蔑が混じっていた。
彼女は封筒を閉じ、静かにテーブルに戻した。
そして、まっすぐに俺の目を見据えた。
「相良さん。あなたが私にこれを渡した目的は? ただ事実を知らせて、私に離婚を促すためですか?」
「いいえ。それだけでは不十分です」
俺は身を乗り出し、声を一段低くした。
「彼らは、自分たちが『真実の愛』を見つけたと勘違いしています。家庭という責任を放棄し、不貞行為を正当化し、私たちを欺き続けている。もし今、私たちが感情的に騒ぎ立てれば、彼らは被害者ぶって逃げ道を探すでしょう。あるいは、ほとぼりが冷めるのを待って、また関係を続けるかもしれない」
「……おっしゃる通りです。夫は口が達者ですから、泣いて謝って、その場をやり過ごそうとするでしょうね」
「だからこそ、逃げ場を完全に塞ぐ必要があります。社会的にも、経済的にも、そして精神的にも。彼らが二度と立ち上がれないほどのダメージを、最も効果的なタイミングで与える。そのためには、あなたの協力が不可欠なんです」
俺はタブレットを取り出し、作成しておいた「復讐計画書(プラン)」を表示させた。
それは、彼らが不倫旅行に出かける日程に合わせ、双方の弁護士が同時に動き、慰謝料請求、離婚調停、そして会社への通報を一斉に行うというものだ。
特に重要なのは、桐島の会社へのアプローチだ。
単なる不倫の告発では、個人のプライバシーとして処理される可能性がある。
だが、会社の経費を私的に流用して不倫旅行の費用に充てている証拠があれば話は別だ。
「桐島さんが会社の交際費や出張費を不正利用している可能性はありませんか?」
俺の問いに、玲子は微かに口角を上げた。
それは、獲物を追い詰める狩人のような、冷酷で美しい笑みだった。
「ありますよ。というか、確信しています。夫は自宅の書斎に、裏帳簿のようなものを隠していますから。それに、私の職業柄、夫の給与明細やカードの利用履歴から、不自然な金の流れを追うのはお手の物です。……実は、もうコピーを取ってあるんです」
玲子は自分の鞄から、クリアファイルを取り出した。
そこには、桐島名義のクレジットカードの明細書と、手書きのメモのコピーが挟まれていた。
日付と金額、そして使用用途。
『接待費』として計上されている日付が、俺の調査報告書にある密会日と不気味なほど一致している。
「素晴らしい」
思わず称賛の言葉が漏れた。
彼女もまた、俺と同じ種族だったのだ。
感情に流されず、事実を積み上げ、虎視眈々と反撃の機会を窺っていた同志。
「相良さん。私は、夫を許すつもりはありません。これまで散々我慢してきましたが、今回のことで完全に愛想が尽きました。彼には、自分がどれほど愚かなことをしたか、身をもって知ってもらいたい」
「意見が合致しましたね。私も、妻を許すつもりはありません。……いや、正確には、もう妻とは思っていません。あれは、私の人生における『異物』です」
俺たちは握手を交わした。
その手はひんやりと冷たかったが、確かな力が込められていた。
「同盟」の成立だ。
決行日は三日後。
彼らが高級旅館で、背徳感と多幸感に酔いしれているその瞬間。
現実という名の鉄槌を下す。
***
そして現在。
由美が不倫旅行へと出発した日曜日の午前十時。
俺は自宅のリビングで、二人の子供たちと向き合っていた。
中二の娘、美優(みゆう)。
小五の息子、蓮(れん)。
二人はまだ、母親が「おばあちゃんの看病」に行っていると信じている。
これから俺が話すことは、彼らの世界を根底から揺るがすことになるだろう。
だが、避けては通れない道だ。
もし由美が帰ってきた時、いきなり修羅場になれば、子供たちはもっと傷つく。
それに、由美が子供たちを言いくるめ、味方につけようとする可能性もある。
先手を打つ必要がある。
ただし、慎重に。
劇薬を投与する医師のように、細心の注意を払って。
「二人とも、ちょっと大事な話があるんだ。テレビを消して、こっちに座ってくれるか」
俺のいつもと違う真剣なトーンに、二人は顔を見合わせ、大人しくソファに座った。
蓮は少し不安そうな顔をしている。
美優は、何かを予感しているような、硬い表情だ。
この子は勘が鋭い。
母親の最近の変化に、薄々気づいていたのかもしれない。
俺は深呼吸をして、言葉を選んだ。
「ママのことなんだけどね」
「……おばあちゃん、具合悪いの?」
蓮が心配そうに尋ねる。
俺は首を横に振った。
「いや、おばあちゃんは元気だ。腰も痛くない」
「えっ? でもママ、そう言って……」
「ママは、嘘をついて出かけたんだ」
室内の空気が凍りついた。
時計の秒針の音だけが、やけに大きく響く。
「嘘って……どういうこと?」
美優の声が震えている。
俺は彼女の目を見て、逃げずに答えた。
「ママには、パパ以外に好きな人ができたんだ。今、その人と一緒に旅行に行っている」
「浮気」という言葉は、あえて使わなかった。
できるだけ事実を客観的に、しかし子供たちの尊厳を守る言葉で伝えたかった。
だが、内容は残酷だ。
蓮はポカンとして、意味が理解できていない様子だ。
美優は、唇を噛み締め、膝の上で拳を握りしめている。
「……やっぱり」
美優が絞り出すように呟いた。
「やっぱり、そうなんだ」
「気づいていたのか?」
「……最近、ママおかしいもん。スマホばっかり見てニヤニヤしてるし、新しい服いっぱい買ってるし。ご飯も手抜きだし。パパが帰ってくると急にいいお母さんぶるし……キモかった」
「キモかった」。
その言葉に、俺は胸が痛んだ。
娘は、母親の裏切りを肌で感じ取り、嫌悪感を抱いていたのだ。
俺が思っていた以上に、彼女は大人になりかけていた。
「パパのこと、嫌いになったのかな」
蓮が涙目になって呟く。
「僕たちのことも、嫌いになったのかな」
俺はソファから降り、二人の前に跪いて、その小さな手を握りしめた。
「そんなことはない。ママは、ちょっと道に迷ってしまったんだ。でもね、パパはママのことを許すことができない。だから、パパとママは、これから別々に暮らすことになると思う」
離婚の宣言。
蓮の目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
「やだ! 別れるのやだ! みんな一緒がいい!」
子供にとって、両親の離婚は世界の崩壊に等しい。
俺は蓮を抱き寄せ、背中をさすった。
「ごめんな。パパの力が足りなくて、ごめんな。でも、パパは絶対に蓮と美優を守るから。それだけは約束する」
泣きじゃくる蓮の横で、美優は泣かなかった。
ただ、真っ赤になった目で俺を見つめ、静かに言った。
「パパは悪くないよ」
「美優……」
「悪いのはママだよ。だって、嘘ついて他の男の人と遊びに行ってるんでしょ? 私たちのこと放っといて。そんなの、最低だよ」
その声には、明確な怒りが込められていた。
思春期の潔癖さが、母親の不潔な行為を許せなかったのだろう。
同時に、俺への同情と、自分も傷ついていることを隠そうとする強がりが見えた。
俺は美優の肩にも手を置いた。
「ありがとう、美優。でも、無理しなくていいんだぞ」
「……無理してない。ただ、ムカつくの。パパが毎日遅くまで仕事してるのに。私、パパの味方だから」
その言葉に、俺は救われた気がした。
研究者としてデータを積み上げるだけでは得られない、温かい感情が胸に広がる。
俺は間違っていなかった。
この子たちのためにも、俺は強くあらねばならない。
「ありがとう。二人とも、聞いてくれてありがとう。……これから少し大変になるかもしれないけど、パパについてきてくれるか?」
蓮はしゃくり上げながらも、コクコクと頷いた。
美優も、しっかりと頷いた。
「うん。パパと一緒がいい。今のママと一緒なんて、絶対に嫌だ」
合意形成(コンセンサス)は取れた。
これで、憂いはなくなった。
俺は立ち上がり、涙を拭いてやった。
「よし。じゃあ、今日は美味しいものを食べに行こうって約束だったな。準備しようか」
「……うん」
二人が部屋に準備に行っている間、俺はスマホを取り出し、玲子にメッセージを送った。
『子供たちへの説明、完了しました。こちらの準備は整いました』
即座に既読がつく。
『お疲れ様でした。こちらも弁護士との最終確認が終わりました。……始めましょうか』
短いやり取り。
それが、反撃開始の合図だった。
俺は次に、依頼していた弁護士の番号をタップした。
「相良です。……ええ、予定通りにお願いします。内容証明の発送と、先方の会社への通報。それと、自宅の鍵の交換業者の手配も」
電話を切ると、俺はリビングを見渡した。
由美が選んだカーテン、由美が買ったクッション、壁にかけられた家族写真。
その全てが、色あせた過去の遺物に見えた。
特に家族写真は、滑稽なブラックジョークのようだ。
俺は写真を壁から外し、裏返しにしてテーブルに置いた。
もう、この家には由美の居場所はない。
彼女が帰ってきた時、ここは彼女にとっての「我が家」ではなく、「敵陣」となっているだろう。
「パパ、準備できたよ」
美優が蓮の手を引いて戻ってきた。
二人とも、少し目が赤い。
だが、その表情には、俺と同じ決意が滲んでいた。
「よし、行こうか」
俺たちは家を出た。
鍵をかける瞬間、俺の中で何かが完全に断ち切られた音がした。
これは、終わりではない。
新しい生活を始めるための、最初の一歩だ。
そして、由美と桐島にとっては、終わりの始まりとなる一歩だ。
車に乗り込み、エンジンをかける。
ナビの目的地には、二人が望んだ焼肉店ではなく、俺の実家を入力した。
「今日は、おじいちゃんとこに泊まろう。焼肉は、そのあとだ」
「うん!」
子供たちも、今はここを離れたいのだろう。
母親の匂いが染みついた家から、一時的に避難する。
それは精神衛生上、必要な措置だった。
車を走らせながら、俺は助手席のタブレットで、GPSの位置情報を確認した。
赤い点が、箱根の山道を登っている。
由美たちは今頃、旅館に到着し、チェックインを済ませている頃だろう。
窓の外には絶景が広がり、これから始まる甘い時間に胸を躍らせているはずだ。
その幸せの絶頂こそが、落下のための踏み台だ。
俺は頭の中で、化学反応式を思い描いた。
A(不倫)+B(暴露)→C(破滅)。
この反応は不可逆だ。
一度始まったら、二度と元の物質には戻らない。
触媒となるのは、俺と玲子の意志。
そして、反応速度を加速させるのは、彼ら自身の愚かさだ。
「……ブースト、オン」
小さく呟き、俺はアクセルを踏み込んだ。
加速するGが、体をシートに押し付ける。
これまでは慎重に、静かに進めてきた準備期間。
だが、ここからは違う。
一気に、容赦なく、畳み掛ける。
彼らが息をする暇も、言い訳を考える暇も与えない。
すべての退路を断ち、事実という名の刃で切り刻む。
俺の脳内では、すでに勝利のシミュレーションが完了していた。
彼らがどのような顔で驚き、泣き叫び、許しを乞うか。
その全てのパターンに対し、俺は完璧な反論(カウンター)を用意している。
情けはかけない。
慈悲もない。
あるのは、純粋な因果応報のみ。
「パパ、なんか怖い顔してる」
バックミラー越しに、蓮が不安そうに言った。
俺はハッとして、表情を緩めた。
「ごめんごめん。運転に集中しすぎちゃったな」
「笑ってよ、パパ。パパが笑ってないと、僕も悲しくなる」
「……そうだな。わかった、笑うよ」
俺は努めて明るく笑ってみせた。
だが、その笑顔の奥底にある冷たい炎は、決して消えることはない。
由美。
桐島。
君たちが味わった快楽の代償は、高くつくぞ。
骨の髄までしゃぶり尽くされる覚悟をしておけ。
車は高速道路に入り、さらに速度を上げた。
流れる景色の中で、俺の心は研ぎ澄まされ、かつてないほどクリアになっていた。
不純物を排除し、純度を高めた復讐心。
それはもはや感情ではなく、遂行されるべきプログラムだった。
さあ、ショータイムだ。
君たちの愛の巣が、処刑台に変わる瞬間を、特等席で見届けさせてもらおう。
俺はハンドルを握る手に力を込め、前を見据えた。
その視線の先には、確実な勝利と、その先にある平穏な未来が見えていた。
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