第二話 潜伏期間

都内の某所にある貸会議室の個室。

遮音性の高い壁に囲まれた無機質な空間で、俺はテーブルの上に置かれた一冊の報告書を見つめていた。

表紙には何も書かれていない。

ただ、その厚みだけが、そこに込められた情報の重さを物語っていた。

向かいに座っているのは、先日契約した興信所の調査員、須田だ。

地味なスーツに身を包み、特徴のない顔立ちをした彼は、まるで空気のように気配を消している。

プロフェッショナルだ。


「……これが、一週間分の調査結果です」


須田の声は低く、感情が削ぎ落とされていた。

俺は頷き、震えそうになる指先に力を込めて、報告書のページをめくった。

一ページ目。

ターゲットのプロフィール。

『桐島 和也(きりしま かずや)』。

年齢は四十歳。

勤務先は中堅IT企業「ネクサスエッジ・ソリューションズ」。

役職は営業部長。

住所は世田谷区の高級マンション。

家族構成は妻のみ、子供なし。

顔写真は、会社のホームページから抜粋されたものだろう。

自信に満ちた笑顔、整えられた髪、仕立ての良いスーツ。

いかにも「仕事ができる男」という風貌だ。

だが、俺の目はその奥にある軽薄さと、隠しきれない傲慢さを見抜いていた。


「対象者は非常に警戒心が薄いですね。尾行は容易でした」


須田の言葉通り、ページをめくるたびに、二人の不貞の証拠が次々と現れた。

平日の夜、退社後に待ち合わせをして食事をする様子。

人目も憚らず、路上で手を繋ぐ姿。

そして、新宿にあるブティックホテルの入り口へ二人で消えていく瞬間と、三時間後に乱れた服装で出てくる瞬間。

タイムスタンプは、俺が会社で残業をしていた時間と完全に一致していた。


俺は冷静に、まるで実験データの異常値をチェックするかのように写真を見つめた。

胃の奥が焼けつくような感覚がある。

だが、それを上回るほどの冷徹な理性が、脳内で叫んでいた。

『仮説は実証された』と。

妻の浮気は疑いようのない事実(ファクト)となった。


「それと、こちらをご確認ください」


須田がタブレット端末を差し出した。

表示されていたのは、Twotterの画面だ。

アカウント名は『@Yumi_SecretGarden』。

鍵付きのアカウントだが、須田の手によって中身が丸裸にされていた。

アイコンは花の写真だが、ヘッダー画像には、首から下だけの自撮りが使われている。

あの、俺が見つけた深紅のランジェリーを着けた姿だ。


『今日も旦那は残業。ATMとしては優秀だけど、男としては終わってる(笑)』

『カズくんとのデート楽しかったな。あんなにドキドキしたの、何年ぶりだろう』

『やっぱり女は愛されてなんぼだよね。枯れていく人生なんてお断り』

『今度の旅行、楽しみすぎて仕事手につかない! 早くカズくんの腕の中で眠りたい』


吐き気がした。

物理的な嘔吐感が喉元までせり上がってくる。

俺の働いた金で生活し、俺の帰りを待つふりをしながら、裏では世界に向けて俺を嘲笑し、間男との情事を自慢していたのか。

「ATM」。

その三文字が、俺の中で何かのスイッチを完全に切り替えた。

俺が家族のために捧げてきた十五年間は、彼女にとってただの「集金システム」でしかなかったということだ。


「……ありがとうございます。十分です」


俺は顔を上げ、須田に告げた。

声は驚くほど落ち着いていた。

怒りは通り越していた。

あるのは、汚染物質を完全に除去しなければならないという使命感だけだ。


「ご依頼通り、相手男性の奥様の連絡先も判明しています。ご主人の浮気癖には薄々感づいているようですが、決定的な証拠がないため動けずにいるとの情報もあります」

「そうですか。では、この資料のコピーをもう一部作成してください。私が使います」

「承知しました。……相良さん、大丈夫ですか?」


須田が珍しく気遣うような視線を向けてきた。

俺は鏡のような無表情で答える。


「ええ、問題ありません。むしろ、すっきりしましたよ。病巣の場所が特定できたんですから。あとは切除するだけです」


事務所を出て、雑踏の中を歩く。

街ゆく人々が幸せそうに見える。

手をつなぐカップル、笑い合う家族連れ。

かつては俺も、あの輪の中にいたはずだった。

だが今は、自分が透明な壁で隔てられた別の世界の住人のように感じる。

スマホを取り出し、スケジュールアプリを開く。

来週の金曜日から日曜日。

由美が言っていた「実家の母の看病」の日程だ。

Twotterの書き込みと照らし合わせれば、これが桐島との「不倫旅行」であることは明白だった。


俺は深く息を吸い込み、肺の中の空気をすべて入れ替えるように吐き出した。

潜伏期間は終わりだ。

ウイルスは十分に増殖し、宿主を蝕み始めている。

これからは、俺がコントロールする番だ。


帰宅すると、家の中には甘い匂いが漂っていた。

由美が鼻歌を歌いながら、キッチンでクッキーを焼いている。

子供たちは塾に行っていて不在だ。

俺の帰宅に気づくと、由美は満面の笑みで振り返った。


「おかえり、隆司! 今日早かったのね」

「ああ、今日は実験が順調だったからな」


嘘をつく。

俺もまた、演技(パフォーマンス)を開始する。

スーツの上着を脱ぎながら、キッチンカウンター越しに由美の様子を観察した。

機嫌が良い。

良すぎる。

Twotterで「旅行が楽しみ」と呟いていた直後だ。

俺への罪悪感など微塵もないのだろう。


「そういえば、来週の実家の件だけど、予定通りで大丈夫か?」


俺は冷蔵庫から缶ビールを取り出しながら、何気なく尋ねた。

プシュッ、という炭酸の抜ける音が、静かな空間に響く。

由美の手が、一瞬だけ止まる。

だが、すぐにクッキーの生地を型抜きする作業に戻った。


「ええ、大丈夫よ。お母さん、腰の痛みがひどくて動けないみたいだから、私が家事とか手伝ってあげないと」

「そうか。お義父さんも亡くなってから一人だし、心細いだろうな」

「そうなのよ。だから、二泊三日になるけど、家のことお願いできる? 蓮と美優のご飯は作り置きしていくから」

「ああ、問題ない。たまには羽を伸ばしてくるといい。親孝行だしな」


「親孝行」。

その言葉を口にした瞬間、俺の心の中でどす黒い感情が渦巻いた。

よくもまあ、そんな神聖な理由を不倫のダシに使えるものだ。

実家の母親は、確かに腰痛持ちだが、寝たきりではないことは先月電話で話した時に確認済みだ。

由美は、自分の快楽のために、実の母親さえも利用している。


「ありがとう、隆司。あなたって本当に優しいわね」


由美がこちらに歩み寄り、腕に抱きついてくる。

甘ったるい香水の匂い。

以前なら安らぎを感じたその体温が、今は生理的な嫌悪感しか生まない。

俺はビールの冷たい感触に意識を集中させ、反射的に彼女を突き飛ばしたくなる衝動を抑え込んだ。


「……由美」

「なぁに?」

「楽しんでくるといい」


俺は彼女の目を見て言った。

瞳の奥底にあるはずの、妻としての良心を俺は探した。

だが、そこには何もなかった。

あるのは、自分の嘘が通じたことへの安堵と、来たるべき快楽への期待だけだ。

彼女は俺の言葉の裏にある皮肉になど気づきもしない。


「うん! いっぱい親孝行してくるね!」


無邪気な笑顔。

それが彼女の最後の平穏な表情になることを、俺だけが知っていた。


数日が過ぎ、旅行の前日となった。

夜、寝室で由美が荷造りをしている。

俺はベッドで本を読んでいるふりをしながら、その様子を横目で観察していた。

キャリーケースの中身。

実家に帰るにしては、随分と気合の入ったラインナップだ。

新しいワンピース。

高そうな化粧品のセット。

そして、底の方に隠すように入れられた、あの『Lace & Silk』の紙袋。


「荷物、結構多いな。本当に電車で大丈夫か? 駅まで送ろうか?」


俺が声をかけると、由美はビクリと肩を震わせた。

分かりやすい反応だ。

駅まで送られれば、待ち合わせの時間や場所がバレる可能性がある。

あるいは、切符を買うところを見られるのを恐れているのか。


「う、ううん! いいの! 電車のほうが時間が読めるし、駅前でちょっと買い物もしたいから!」

「そうか。重そうだけど、気をつけてな」

「大丈夫よ、これくらい。鍛えてるから」


由美は慌ててキャリーケースの蓋を閉めた。

その仕草の端々に、隠し事をしている人間の焦りが滲み出ている。

俺は心の中で冷笑した。

彼女は自分が主導権を握っていると思っている。

夫を上手く騙し、恋人との逢瀬を楽しむ悲劇のヒロイン気取りだ。

だが実際は、俺の手のひら(シャーレ)の上で踊らされている哀れな検体に過ぎない。


翌朝。

雲ひとつない快晴だ。

不倫日和、とでも言うべきか。

由美は朝早くから起きて、念入りに化粧をしていた。

香水の匂いが廊下まで漂ってくる。

子供たちはまだ寝ている時間だ。


「じゃあ、行ってくるわね。子供たちのこと、よろしく」


玄関先で、由美は華やかなベージュのコートを翻した。

その顔は、これから病気の母親の看病に行く人間のそれではない。

デートに向かう恋する乙女の顔だ。


「ああ。お義母さんによろしくな」

「ええ。……じゃあね」


ドアが閉まる。

鍵のかかる音が、カチャリと響いた。

その瞬間、家の中に満ちていた重苦しい空気が霧散した。

俺はすぐにリビングの窓へ行き、カーテンの隙間から外を見下ろした。

マンションのエントランスから出てきた由美が、小走りで通りへ向かっていく。

その先には、黒いセダンが停まっていた。

報告書にあった、桐島の愛車だ。

運転席から男が降りてきて、由美の荷物をトランクに入れる。

二人は人目も憚らず、軽くキスを交わした。

そして車に乗り込み、走り去っていく。


その光景を、俺はスマホのカメラで連写した。

最後の証拠だ。

これで、言い逃れは完全に不可能になった。


「……さようなら、由美」


俺は小さく呟いた。

それは、かつて愛した妻への、本当の意味での決別の言葉だった。

車が見えなくなると、俺はスマホを操作し、須田に短いメッセージを送った。


『対象が移動を開始しました。プランBに移行します』

『了解しました。GPSの追跡を開始します。証拠はリアルタイムで転送します』


すぐに返信が来る。

俺は次に、もう一つの連絡先を呼び出した。

登録名は『K・Reiko』。

桐島玲子。

間男の妻だ。

先日、須田を通じて接触し、既に共闘関係を結んでいる。

彼女もまた、夫の裏切りに傷つき、そして激しい怒りを抱いている被害者だ。

俺たちはこの日のために、綿密な計画を練ってきた。


通話ボタンを押す。

数回のコールの後、落ち着いた、しかし鋭さを秘めた女性の声が聞こえた。


『……相良さんですね』

「ええ。今、二人が出発しました。そちらの準備は?」

『いつでも動けます。夫のカード明細、裏帳簿のコピー、全て揃っています』

「結構です。では、予定通りに。彼らが最も油断している瞬間に、現実を突きつけてやりましょう」

『ええ。……徹底的に、やりましょう』


通話を切り、俺は冷めたコーヒーを一口飲んだ。

苦味が舌に広がる。

だが、その苦味さえも、今の俺には心地よかった。

舞台は整った。

役者も揃った。

あとは、彼らが天国だと信じている場所を、地獄に変えるだけだ。


俺は子供部屋のドアを静かに開けた。

娘の美優と息子の蓮が、まだ眠っている。

この子たちを守らなければならない。

そのためには、母親という名の毒を取り除く手術が必要だ。

たとえ痛みを伴うとしても。


「パパ……?」


物音に気づいたのか、美優が目を覚ました。


「ああ、ごめん。起こしちゃったか」

「ううん……ママは?」

「ママは、おばあちゃんのところに行ったよ」


俺はベッドの端に座り、美優の頭を撫でた。

嘘をつくのはこれが最後だ。

帰ってきたら、すべてを話そう。

パパとママの間に何が起きたのか。

そしてこれから、どうしていくのか。

中学生の彼女には酷かもしれないが、子供扱いして隠し通すことは、かえって彼女を傷つけることになる。


「美優、蓮。今日はパパと三人で、美味しいものでも食べに行こうか」

「え、本当に? 焼肉がいい!」


隣で蓮が飛び起きた。


「いいぞ。一番高いやつを頼もう」


子供たちの笑顔を見ながら、俺の決意は鋼のように固まった。

俺の家族を壊した罪。

その代償は、彼らの人生すべてをもって償ってもらう。


俺はポケットの中で、ボイスレコーダーのスイッチを切った。

朝のやり取り、玄関先での嘘。

すべて録音してある。

裁判になった時、これ以上ない武器になるはずだ。

俺の研究者としての几帳面さが、これほど役に立つ日が来るとは皮肉なものだ。


さあ、反撃の開始だ。

感情の爆発ではない。

冷徹な論理と計算によって導き出される、必然としての破滅。

彼らが旅館の温泉で愛を語らっている間に、俺たちは彼らの足元を根こそぎ掘り返す。

帰ってきた時、彼らが立つ場所など、この世界のどこにも残っていないように。


俺は立ち上がり、大きく伸びをした。

久しぶりに、空気が美味いと感じた。

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