妻の浮気が発覚したので、間男の奥さんと結託して徹底的に追い込みました。今さら泣いても許しません、君はもう僕の人生の「異物」ですので。

@flameflame

第一話 異物混入(コンタミネーション)

アイギスファーマ研究開発センターの第四実験室は、常に摂氏二十三度、湿度五十パーセントに保たれている。

空調の低い唸り音と、高性能液体クロマトグラフィーが微かに発する稼働音だけが、深夜の静寂を支配していた。

俺、相良隆司は、保護メガネを外し、こめかみを指で強く押し込んだ。

目の前のモニターには、数ヶ月に及ぶ実験データの解析結果が表示されている。

期待していた数値には、ほんの僅かだが届いていない。

誤差範囲内と言えなくもないが、俺の美学がそれを許さなかった。


「……やり直しだな。条件設定のパラメータを少し弄る必要がある」


独り言は白く乾いた床に吸い込まれて消えた。

俺は完璧主義者だ。

それは仕事に限ったことではない。

人生においても、設計図通りの堅実な積み上げを信条としてきた。

偏差値の高い大学へ進み、大学院で修士号を取得し、業界大手の製薬会社へ就職。

そこで実績を積み上げ、三十代後半にして研究開発部のマネージャーという地位を確立した。

プライベートでも同じだ。

大学時代、サークルで「高嶺の花」と呼ばれていた由美と付き合い、卒業と同時に結婚。

都内に理想的なマンションを購入し、聡明な娘と活発な息子、二人の宝物にも恵まれた。

俺の人生は、実験計画書(プロトコル)通り、順調に推移しているはずだった。


白衣を脱ぎ、ロッカーに掛ける。

スマホを手に取り、画面を点灯させた。

時刻は二十一時を回っている。

今日は少し遅くなったが、まだ子供たちが起きている時間には間に合うだろう。

そう思った矢先、通知欄に見慣れないアイコンが表示されていることに気づいた。

フリーメールのアドレスからだ。

件名は空欄。

スパムだろうか。

普段なら無視して消去するところだが、指が止まった。

本文のプレビューに表示された文字列が、俺の視神経を突き刺したからだ。


『あなたの奥さん、他の男と楽しそうですね』


心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。

冷たい実験室の空気が、急に粘り気を帯びて肌にまとわりつくような錯覚を覚える。

指先が微かに震えるのを意識的に抑えながら、俺はそのメールを開いた。

添付ファイルがある。

画像データだ。

ためらいは一瞬だった。

タップすると、高解像度の写真が画面いっぱいに展開される。


場所は、青山あたりだろうか。

洒落たイタリアンレストランのテラス席だ。

暖色の照明に照らされたテーブルを挟んで、二人の男女が向かい合っている。

男の顔は横顔で、四十代前半くらいの脂ぎった、しかし身なりの良い男だ。

そして、その男に向けてとろけるような笑顔を見せている女。

間違いなく、俺の妻、由美だった。


「…………は?」


喉から乾いた音が漏れた。

見間違いようがない。

あのアッシュブラウンに染めたボブカットも、左の耳たぶで揺れるパールのピアスも、俺が去年の誕生日に贈ったものだ。

だが、俺が見ているのは、そんな表面的な情報ではない。

表情だ。

由美が俺に見せる笑顔は、もっと穏やかで、母親としての慈愛に満ちたものだ。

しかし、写真の中の彼女は違う。

男の手に自分の手を重ね、上目遣いで、まるで獲物をねだる雌猫のような、艶めかしい表情を浮かべている。

俺の前では、もう十年以上も見せたことのない「女」の顔だった。


思考が真っ白になりかけたが、長年培ってきた研究者としての理性が、緊急停止信号を出した脳を無理やり再起動させる。

――落ち着け。事実確認が先だ。

俺は画像をピンチアウトし、拡大する。

撮影日時のデータは……プロパティ情報が消されている。

だが、由美が着ている服。

胸元が大きく開いたワインレッドのニット。

あれは確か、先週の土曜日、「高校時代の友人とランチに行く」と言って着ていったものだ。

友人とランチ。

女性同士の集まりに、あんな露出の高い服を着ていくだろうかという違和感はあったが、久しぶりの外出に浮かれているのだろうと、その時は深く考えなかった。

あの時、彼女は俺に嘘をついたのか?


「……まさか」


吐き気がした。

胃の腑に、重い鉛を流し込まれたような不快感。

俺たちは結婚して十五年になる。

確かに新婚当時の情熱は落ち着いたかもしれないが、信頼関係は盤石だと思っていた。

俺は仕事に打ち込み、家族を不自由なく養っている。

由美も、パートに出ながら家事と育児をこなし、俺を支えてくれている。

喧嘩らしい喧嘩もない。

セックスレス気味ではあるが、それは子育て世代の夫婦なら珍しいことではないはずだ。

円満な家庭。

それが俺の認識であり、揺るぎない「事実」だったはずだ。


だが、この画像という「証拠」は、その仮説を真っ向から否定している。

俺はスマホをポケットにねじ込み、逃げるように会社を出た。

地下鉄のホームに立ち、電車の到着を待つ間も、思考のノイズが止まらない。

相手の男は誰だ?

ただの友人?

いや、友人の手に、あんなふうに指を絡ませたりはしない。

遊びか? 本気か?

いつからだ?

匿名メールの送り主は誰だ?

なぜ俺にこれを送ってきた?


ゴーッという音と共に、電車が滑り込んでくる。

ドアが開くと同時に、冷房の効いた車内へ足を踏み入れる。

つり革に掴まり、窓に映る自分の顔を見た。

疲れた中年男の顔だ。

由美の隣にいた男のような、ギラギラとした覇気はない。

俺は、面白みのない男なのだろうか。

研究一筋で、女心など解さない、退屈な夫なのだろうか。

自嘲的な笑みが浮かびそうになるのを、奥歯を噛み締めて堪える。


感情的になるな。

感情は判断を鈍らせるノイズだ。

今はまだ、仮説の段階に過ぎない。

「妻が不倫をしている可能性がある」。

その仮説を検証するために必要なのは、嘆きでも怒りでもなく、客観的なデータだ。

もしこれが事実なら、それは我が家というシステムに対する、致命的な「異物混入(コンタミネーション)」だ。

排除しなければならない。

徹底的に。


最寄り駅に着く頃には、俺の呼吸は平常に戻っていた。

心拍数も安定している。

ただ、胸の奥底に、氷のように冷たく、重い塊が居座っているのを感じた。


「ただいま」


玄関のドアを開け、努めていつも通りのトーンで声をかける。

リビングから、パタパタとスリッパの音が近づいてくる。


「おかえりなさい、隆司。遅かったのね」


出迎えてくれた由美は、エプロン姿で微笑んでいた。

その笑顔を見た瞬間、俺の中で何かが「スン」と音を立てて冷え切った。

写真の中の笑顔とは違う。

これは「良き妻」を演じるための仮面だ。

そう認識してしまった自分に気づく。


「ああ、ちょっとデータの解析が長引いてね。みんなは?」

「美優は部屋で勉強中。蓮はまだゲームしてるわよ、もう寝なさいって言ったんだけど」


由美は俺の鞄を受け取り、甲斐甲斐しく世話を焼く。

その動作に、不自然な点はない。

今まで通りだ。

だからこそ、恐ろしい。

彼女はこの平穏な日常と、あの写真のような背徳的な時間を、平然と使い分けているということか。


リビングに入ると、ソファで携帯ゲーム機に熱中している息子の蓮がいた。


「パパ、おかえりー」


画面から目を離さずに言う蓮の頭を、軽く撫でる。


「ただいま、蓮。あまり夜更かしするなよ」

「わかってるってー」


ダイニングテーブルには、ラップのかけられた夕食が用意されていた。

俺の好物の豚の角煮だ。

由美がキッチンへ行き、味噌汁を温め直してくれる。

俺は着替えるために寝室へ向かった。

クローゼットを開け、スーツをハンガーにかける。

ふと、視界の端に違和感を覚えた。

部屋の隅、ドレッサーの脇に置かれた紙袋だ。

普段なら気にも留めないだろう。

だが、今の俺のセンサーは、微細な異常も見逃さない感度になっていた。


ブランドのロゴが入った、黒い光沢のある紙袋。

『Lace & Silk』。

俺の記憶にある限り、由美が愛用している下着メーカーではない。

彼女は普段、実用性重視のシンプルなものを好んでいたはずだ。

俺は息を潜め、ドアの方を一度確認してから、その紙袋の中を覗いた。

薄紙に包まれた中身を引き出す。


そこにあったのは、目が覚めるような深紅のランジェリーだった。

布地は極端に少なく、透けるようなレースがあしらわれている。

Tバックだ。

ブラジャーの方も、カップの上半分がレースのみで、乳首が透けて見えそうなほど大胆なデザインだった。

値札がついている。

上下セットで三万円近い。

パートの給料を考えれば、決して安い買い物ではない。


「……誰に見せるつもりだ」


声が出そうになるのを手で押さえる。

俺に見せるため?

いや、あり得ない。

俺たちはもう何年も、そういう行為をしていない。

彼女もそれを求めてこなかったし、俺も仕事の疲れを理由に避けてきた。

今さら、俺を誘うためにこんなものを買うはずがない。

それに、由美は来週、「実家の母の具合が悪いから、二、三日様子を見に行ってくる」と言っていた。

その準備か。

実家に帰るのに、こんな勝負下着が必要か?

答えは明白だ。

黒(クロ)だ。

限りなく純粋な、漆黒。


心臓の鼓動が早くなるのを感じるが、頭の中は冷徹なまでに冴え渡っていた。

俺は慎重に下着を元の状態に戻し、紙袋の位置をミリ単位で修正した。

指紋を残さないようにハンカチで拭うことも忘れない。

証拠は見た。

だが、これだけでは不十分だ。

相手の素性、密会の頻度、場所、そして肉体関係の決定的瞬間。

それら全てをデータとして収集し、解析し、逃げ場のない「事実」として突きつけるまでは、動いてはならない。


「隆司? ごはん温まったわよ?」


リビングから由美の声がする。

俺は鏡の前で自分の顔を作った。

口角を上げ、目尻を下げ、疲れているが家族のために働く優しい夫の表情。

鏡の中の男は、完璧にそれを演じている。


「今行くよ」


リビングに戻り、食卓につく。

由美が向かいに座り、麦茶のポットを置いてくれた。


「今日ね、スーパーでいい豚肉が安かったの。柔らかく煮えてると思うけど、どう?」

「うん、すごく美味いよ。由美の角煮は最高だ」


嘘ではない。

味は変わらない。

だが、それを咀嚼し、嚥下する俺の喉は、砂を飲み込んでいるように重かった。


「そういえば、来週の実家行きなんだけど」


俺は箸を動かしながら、何気ない調子で切り出した。


「お義母さん、大丈夫そうか? 何か手土産でも持って行ったほうがいいんじゃないか?」


由美の箸が、一瞬止まる。

本当に、コンマ数秒の間だ。

だが、俺は見逃さなかった。


「あ、ううん、大丈夫よ。ただの腰痛だし、大げさにすると逆に気を使わせちゃうから。私一人で顔見てくるだけで十分よ」

「そうか。まあ、何か必要なものがあったら言ってくれ。車も出していいから」

「ありがとう。でも電車で行くわ。隆司も仕事で疲れてるでしょうし」


電車で行く。

つまり、行動の自由度を確保したいということだ。

俺は「わかった」と短く答え、角煮を口に運んだ。

その時、テーブルの上に置かれた由美のスマホが短く震えた。

『MINE』の通知音だ。

由美は反射的に画面に手を伸ばし、内容を確認する。

そして、すぐに画面を伏せた。

その際、彼女の頬が僅かに紅潮し、口元が緩んだのを、俺は実験用マウスの反応を見るように観察していた。


「誰から?」

「えっ? ああ、えっと、パート先のグループMINE。シフトの変更のお願いだって。面倒くさいなぁ」


由美はため息をついて見せたが、その声色は明るい。

嘘をつく時の彼女の癖だ。

声のトーンが半音上がる。

学生時代から変わらない、分かりやすい癖。

今まではそれを「可愛い」と思っていた自分が、ひどく滑稽に思えた。


シフトの変更連絡を見て、あんなに嬉しそうに頬を染める人間がどこにいる。

画面の向こうにいるのは、パート仲間ではない。

あの男だ。

今、この瞬間も、俺という夫が目の前にいながら、彼女の意識はあの男と繋がっている。

この家の中に、俺の居場所は物理的に存在していても、彼女の中にはもう存在していないのだ。


食事を終え、風呂に入りながら、俺は今後の計画(プラン)を構築し始めた。

まず、相手の男を特定する必要がある。

メールの添付写真だけでは、顔は分かっても名前や勤務先までは分からない。

そして、MINEの履歴。

あれを押さえれば、決定的な証拠になる。

パスコードは知っている。

彼女の誕生日のままだろう。

だが、下手に触って警戒されるのはリスクが高い。


プロを使おう。

俺はシャワーの湯を頭から浴びながら決断した。

探偵を雇い、徹底的に調べ上げる。

金はかかるが、中途半端な調査でしらを切られるよりはマシだ。

そして、集めた証拠を元に、どう動くか。

離婚? もちろんだ。

こんな女と生涯を添い遂げる気はない。

だが、ただ別れるだけでは割に合わない。

俺の信頼を踏みにじり、子供たちを騙し、家庭という聖域を汚した罪。

その対価は、きっちりと支払ってもらう。


「……覚悟しておけよ」


湯気の中で呟いた言葉は、誰にも聞かれることなく排水溝へと流れていった。

俺の中で、由美はもう「妻」ではなくなった。

排除すべき「ターゲット」であり、観察すべき「検体」だ。


風呂から上がると、由美はソファでテレビを見ていた。

バラエティ番組を見て笑っている。

その横顔を見ても、もう以前のような愛おしさは湧いてこなかった。

あるのは、冷ややかな分析思考だけだ。

彼女が笑えば笑うほど、その後に訪れる破滅との落差が大きくなる。

そう考えれば、今の彼女の笑顔すら、復讐のためのスパイスのように思えてくる。


「隆司、髪乾かしてあげようか?」


由美が機嫌よさそうに言ってきた。

罪悪感からくる優しさだろうか。

それとも、浮気がバレないようにするためのカモフラージュか。

どちらにせよ、反吐が出る。


「いや、自分でやるよ。それより、明日は早いんだろ? もう寝たらどうだ」

「そうね。じゃあ、お先にやすみなさい」


由美は立ち上がり、俺の頬に軽くキスをした。

その唇から、微かに知らない男のコロンの香りがした気がした。

俺は反射的に身を引きたくなるのをこらえ、無表情で彼女を見送った。

寝室のドアが閉まる音を聞いてから、俺は洗面所へ行き、頬をごしごしとタオルで拭った。

皮膚が赤くなるほど強く、何度も、何度も。


汚い。

不潔だ。

俺の家が、俺の生活が、細菌に汚染されていくような感覚。

だが、洗浄するのは今ではない。

細菌が十分に繁殖し、コロニーを形成し、その全貌を露わにした時こそ、最強の薬剤を投入して死滅させるのだ。


俺は自分の書斎に入り、パソコンを立ち上げた。

検索窓に「興信所 浮気調査 評判」と打ち込む。

画面のブルーライトが、俺の顔を青白く照らし出した。

エンターキーを叩く音が、静まり返った部屋に乾いた銃声のように響いた。

戦いは、今始まったばかりだ。

相良隆司の、冷たく、静かな反撃が。

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