僕がペダルを回す理由 ─ ビニヤム・ギルマイ、アフリカの夜明け

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僕がペダルを回す理由 ─ ビニヤム・ギルマイ、アフリカの夜明け

1. トリノの熱狂、時速70キロの静寂

 心臓が肋骨を突き破りそうだ。

 でも、頭の中はどこまでも澄み切っている。

 2024年7月1日。ツール・ド・フランス第3ステージ。

 イタリア・トリノの市街地に、僕たちプロトン(大集団)は弾丸のように飛び込んだ。時速はすでに70キロを超えようとしている。

 前後左右、わずか数センチの隙間を縫って、筋肉とカーボンの塊がぶつかり合う。一瞬の判断ミスが命取りになる極限の世界だ。

 前を見れば、ピーダスンが、ガビリアが、世界最強のスプリンターたちが勝利の匂いを嗅ぎつけて牙を剥いている。彼らは皆、ロードレースの歴史を彩ってきたヨーロッパの英雄たちだ。

 じゃあ、僕は何だ?

 アンテルマルシェ・ワンティのジャージを着た、アフリカから来た黒人の若造か?

 違う。

 僕は、ビニヤム・ギルマイだ。

 僕は今、彼らと同じ風の中にいる。同じアスファルトを蹴り、同じ勝利を狙っている。

 残り200メートル。

 巨大な波が割れ、僕の目の前に一筋の「道」が開けた。

「行ける!」

 僕はサドルから腰を浮かせ、すべての力を両脚に叩き込んだ。

 僕を遮るものは、もう何もない。


2. アスマラの空と、見えない壁

 僕の故郷は、エリトリアの首都アスマラだ。

 標高2300メートル。空が近くて、少し空気が薄いあの街で、僕は自転車と出会った。

 いとこが乗っていたボロボロのマウンテンバイク。それに跨って坂道を下った時、僕は初めて「自由」という風の色を知った。

 エリトリアの人々は自転車を愛している。レースの日には街中が熱狂に包まれる。

 でも、僕たちがヨーロッパのトップレースを走ることは、長い間「叶わぬ夢」とされてきた。

 ビザの壁。環境の違い。そして、「アフリカの選手はヨーロッパの石畳や集団の激しい位置取りには通用しない」という目に見えない偏見。

 確かに、スイスの育成センターに一人で行った時は、凍えるような寒さと孤独に泣きそうになった夜もあった。

 でも、僕は一度も「無理だ」とは思わなかった。

 だって、ペダルを回せば前に進む。それはアフリカでもヨーロッパでも同じだ。

 なら、誰よりも速く回せばいい。誰よりも強い心を持てばいい。

 僕がヨーロッパの壁を越えれば、後ろに続くアフリカの子供たちの「道」になるんだから。


3. シャンパンの痛み、そして再生

 2022年のジロ・デ・イタリア。僕は第10ステージで優勝した。

 アフリカ黒人選手として初めての、グランツールでの勝利。世界中が僕を祝福してくれた。母国では数万人もの人々が通りで歌い踊ってくれたらしい。

 だけど、神様は少しだけ悪戯好きだった。

 表彰台で開けたシャンパンのコルクが僕の左眼を直撃し、僕は歴史的な勝利の翌日にレースを去ることになった。

「なんて不運なんだ」「これからという時に」

 周りの人たちは僕を可哀想な被害者のように扱った。

 でも、僕はベッドの上で笑っていた。眼は痛かったけど、心は少しも折れていなかった。

 不運? 冗談じゃない。

 僕はジロで勝ったんだ。世界一の選手たちと競り合って、勝てることを証明したんだ。

 この怪我は、きっと神様が「少し休んで、もっと強くなってから戻ってこい」と言っているだけだ。

 僕は必ず戻る。あの時よりも、もっと速く、もっと強く。


4. マイヨ・ヴェールの重みと、響き渡る声

 そして今、2024年のツール・ド・フランス。

 僕はトリノのゴールラインをトップで駆け抜けた。両腕を天に突き上げ、喉が裂けるほど叫んだ。

 アフリカ人初の、ツール・ド・フランス ステージ優勝。

 歴史の扉が、音を立てて開いた瞬間だった。

 でも、僕の夏はそれだけでは終わらなかった。

 第8ステージ、第12ステージと勝利を重ね、気がつけば僕の肩には、最強のスプリンターの証である『マイヨ・ヴェール(緑のジャージ)』が掛けられていた。

 このジャージを守ってパリ(今年はニースだけど)までたどり着くのは、想像以上に過酷だった。

 アルプスやピレネーの地獄のような山岳ステージ。スプリンターの僕にとって、山登りはただの苦行だ。肺は焼け焦げそうになり、太ももは鉛のように重くなる。タイムオーバーの恐怖が常に背後に付きまとっていた。

 急勾配の坂道。もうペダルを踏めないかもしれないと思った時。

 沿道から、フランス語でも英語でもない言葉が聞こえてきた。

「ビニアム! ビニアム!」

 見上げると、エリトリアの国旗を振り、狂ったように僕の名前を叫ぶ同胞たちの姿があった。

 ヨーロッパ中から、いや、世界中から彼らは駆けつけてくれていた。

 ああ、そうか。

 僕が背負っているのは、この緑のジャージだけじゃないんだ。

 僕の背中には、一つの国が、いや、アフリカ大陸の希望が乗っているんだ。

 それが重荷かだって?

 とんでもない。こんなに力強い「翼」はない。

 僕は歯を食いしばり、再びペダルを踏み込んだ。

 みんなの声が、僕に無限のエネルギーを与えてくれる。


5. アフリカの夜明け

 7月21日、南仏ニース。

 夕日に輝くプロムナード・デ・ザングレを走り抜け、僕はツール・ド・フランスを完走した。

 マイヨ・ヴェールをしっかりと守り切って。

 表彰台の真ん中。

 トロフィーを高く掲げた時、僕の目には涙が溢れていた。

 フラッシュの嵐と、割れんばかりの歓声。

 マイクを向けられた僕は、胸を張って答えた。

「これは、僕だけの勝利じゃない。エリトリアの、そしてアフリカ大陸の勝利だ」

 僕は知っている。

 今この瞬間も、アスマラの土埃舞う道で、ルワンダの高原で、南アフリカの丘陵で。

 ボロボロの自転車に跨り、目を輝かせてペダルを回している子供たちがいることを。

 彼らに伝えたい。

 もう、僕たちは遠い存在じゃない。

 肌の色も、生まれた場所も関係ない。ペダルを回す情熱があれば、世界は必ず変えられる。

 僕がその証明だ。

 だから、夢を見ることを恐れないでほしい。

 限界なんて、誰かが勝手に引いた線に過ぎないんだ。

 さあ、一緒に走ろう。

 僕たちのアフリカの夜明けは、まだ始まったばかりだ。

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