モズとカッコウ

華原 大

第1話

林に囲まれた山道を抜けると、集落がぽつりと姿を見せる。

屋根の間から、陽を弾く川が垣間見える。

「川が見えるよ。まぁくん」

助手席から身を乗り出すようにして息子は声をあげる。

運転している彼のことを、息子は「まぁくん」と呼ぶ。


「着いた。ここだぞ」と彼が言うと、車のエンジンが止まった。

息子は勢いよく降り立った。

「釣れるかな。初めてだからなぁ」

「大丈夫だ、俺の言うとおりにすれば釣れるさ」

息子を隣に置いて、彼はトランクから荷物を取り出す。

――キィーキィーキィー。

「今、鳴いてる鳥は何?」

「モズじゃないかな」

後ろから見る二人の姿は、どことなく似ていなくもない。


不意に彼が竿を手渡してきた。

「ほい、美奈ちゃんはこれ使って」

「え、私も釣るの?」

戸惑う私。

「前に釣ったことあるでしょ?」

と、彼は針に餌をつける。

「あるけど、十年以上も前だし……、あの時は海だったし……」

ぶつくさ言いながら、私は渋々糸を垂らした。

――ツン。

「右手を高く突き上げるようにして」

彼の声。

――パシャパシャ。

すぐに一匹釣れた。息子より早く。

「ママすげぇ」

ぴしゃぴしゃ跳ねる魚に私は戸惑う。

「まぁくん。こっ、これ。どうすんの?」

彼は笑いながら、魚を掴んで針を外した。


「次は優太の番だぞ」

彼は息子の背後で腰を屈めた。

「まぁくん。ママの釣った魚、なんて魚?」

「虹鱒っていうんだ」

そう言って、彼は息子の持つ竿を支えるように手を添えた。

「虹鱒……」

魚の名を唱える息子に、彼が言った。

「優太。あのウキが、くくっと水の中に入るからな。よく見てるんだぞ」

息子はくっと首を縦に振り、

川面に流れるウキを真剣に見つめている。


ウキが沈んだ。

ピンと糸が張る。

「よし、今だ竿を立てろ」

魚が水中をぐるぐる動き回る。

「そのまま、糸を緩めるな」

彼の声に、唇を締めて頷く息子。

私は思わず指先に力を込める。

彼に支えられ、息子は精一杯に腕をあげた。

――パシャパシャ。

魚が岸で跳ねている。

「やったな優太」

「やった。これ虹鱒だよね?」

息子も飛び跳ねた。

こんな顔を、私は見たことがない。

頬を赤らめ笑う息子の姿に、胸がじんわり温かくなる。

「優太。記念撮影しよ。まぁくんも並んで」

私はスマホを取り出す。

「ここを持って」

彼は、釣糸を息子に握らせた。

「はい、チーズ」

暴れる虹鱒をぶら下げた息子。

しゃがんで息子と肩を組んだ彼。

画面に残った二人は、本当にいい顔をしている。


川辺の枝に止まっていたモズが、小さな獲物をくわえて飛び立った。


山々に遮られていた陽が、高い空から照りつけだした。

「そろそろ、ご飯にしようよ」

今朝、暗いうちから作ったお弁当。

三人前を作ったのは初めてだ。

私の声に二人は駆け寄った。

「いただきます」と同時に、

彼も息子も玉子焼きから箸をつけた。

「うっまい」

息子が満面の笑みを浮かべる。

「うん。うまい」

と彼も息子に頷いてみせた。

彼はあの頃と同じ顔をしている。


――玉子焼き。

初めてのドライブの日、彼のために作ったお弁当。

「この味。実家と同じだ」

そう言って笑った彼を見て、私は胸をなで下ろした。

あの日から、私が作る玉子焼きは仄かに甘い。

彼が美味しそうに食べる顔を見るのが、私は好きだった。


「ウキが入っていく時にね。竿がブルブルって……」

息子は、おにぎりを手にして熱く語る。

彼の温かい眼差しが、息子を包み込んでくれていた。

「まぁくんが、今まで釣った魚の写真ある?」

息子に応えるように、彼はスマホに指先をあて始めた。

「たしか、あるはず……」

「どれ?見せて」と息子は彼の脇に座った。

「あった。これが……」


――これだ。

私は一番自信のある写真を引っ張り出した。

親友とのツーショット。

「これ高校生の頃ね。隣は百合子っていうの」

彼がスマホを覗き込む。

「へぇ」としか返事をしない。

「今、百合子の方を見てたでしょ」

「えっ」と驚いた彼は、私から目をそらして「そんなことないよ」と口を尖らせる。

「嘘をつけぇ」と私は、彼の頭をくしゃくしゃにした。

私の手を振り払いながら「美奈ちゃんが一番かわいいよ」と、彼は笑った。

あの頃、私は二十六歳だった。


――ピシャッ。

魚が川面を跳ねる。

「今の虹鱒かな?」

息子は川に顔を向ける。

「まだ釣りがしたいな〜」

「まだするの?」と、

私は眉を寄せて彼を見た。

息子の姿に目を細める彼。

「今、何匹くらい釣れたの?」

私が尋ねると、彼は「十匹近くいるかな」と答えて立ち上がった。

「そんなにたくさん。それ、どうするの?」

「よーし。優太もう少し釣るぞ」

息子に呼びかけた彼は「一夜干しにすればいい。昔、作ったろ」と、私に振り向き微笑んだ。


ベランダに吊るされた網籠。

中には、魚の開きが並んでいた。

「こうして半日も干せば、出来上がりだ」

そう言って、ニコニコしている彼に私は聞いた。

「ねぇ。もし子供ができたなら男の子がいい?」

「なんで?」

「釣りを教えたりできるでしょ」

彼は少し考えてから、

「女の子なら、一緒に魚を料理すればいいさ」

「そっか」と一度は頷いたが、

「ちょっと待って。料理なら私が教えたいよ」

「それもそうか」

二人で笑った。

あの頃の私は、二人の未来に微塵の不安も感じていなかった。


「まぁくん……」

息子が竿を上げて彼を見上げた。

「どれ?そのまま竿を動かさないで」

息子に両手で竿を持たせると、彼は糸の先とにらめっこを始める。

虚ろな目で彼の横顔を見つめる息子。

彼の指先が細く動く。

「ほうら、ほどけた。これで大丈夫だ」

「もう、ダメかと思った」

息子は、再び仕掛けを川に落とした。


――もつれた糸。

そのまま切れてしまうこともある。

三十歳が目前に迫った頃だった。

「ねぇ、百合子を覚えてる?」

「確か、高校時代からの親友だったっけ」

彼は、ソファに座ったまま手にした本から目を離さない。

「来月、結婚するんだって」

「へぇ。よかったね」

彼は、本のページをめくっていた。

素っ気ない彼の反応。

「百合子ね。もう赤ちゃんがお腹にいるんだって」

私は八重歯を見せて、彼を覗き込んだ。

「そう」

彼は吐き捨てるように言うと、読んでいた本を放り出してその場から立ち去った。

そして、あの頃から私と彼との間で会話が減っていった。


それから間もなく、彼は「別れたい」と告げてきた。

「理由を教えて?」

伏せていた顔を上げると、彼は静かに答えた。

「美奈ちゃんの思いに応えられる自信がないんだ」

彼の目の中に私はいた。

頬に熱い雫がじわりとつたう。

「……他に誰か?」

私の声は震えていた。

「うっ、うん」

その時、彼は私の目を見ていなかった。

――そうまでして。

そう思った時、私は彼に何も聞けなくなった。

肩を揺らすのを堪え、私は最後の言葉を振り絞った。

「今までありがとう」

私は、紡いできた彼との糸を自分の手で断ち切った。


「あっ。かかった」

「そうそう。優太もう少しだ」

息子と彼の声が入り混じる。

――パチッ。

「あっ」

「残念。糸が切れた」

息子は、しょんぼりした。

「どうするの?」

「糸と糸を結び直すだけさ。コブはできるけど問題はない」

細い糸を彼の指が編み込んでいく。

彼は笑って糸の端をゆっくり引っ張った。

「ほら、これで大丈夫。釣りはできる」

彼は息子の目の前に結んだ糸を垂らして見せていた。


彼を失ってから、私はお酒に頼るようになった。

缶ビールを片手に、スマホを眺める。

消去しようと開いては、そのまま閉じた。

朝になり重い瞼を開けると、空き缶が転がっていた。

素性も知らぬ男が隣で寝ていることもあった。

そんな虚しい朝の迎え方を、私は何度か繰り返した。


「美奈子。何やってんの」

百合子は本気で私を心配してくれた。

「もっと自分を大事にしないと」

「うん」とだけ頷いて見せたが、乱れた生活はその後も続いた。


私に待ったをかけたのは、体の異変であった。

「おめでとうございます」

先生は呑気な笑顔を向けてくれた。

私は妊娠したことを知った。

乱れていたとは言え、気をつけていたはずなのに。

おおよその見当はついてはいたが、誰かを特定することはできなかった。

逡巡したが、ひとまず両親には伝えることにした。


「誰の子供かわからない」

私からの報告を受けた母は、気を動転させた。

「そんなの私は許さないからね」

母は慌てふためき、堕胎を望んだ。

その時点では、私もそうするつもりでいた。

――百合子。

スマホを手にとった。

「あの時、あれほど言ったじゃない」と叱られるのが嫌で躊躇していた百合子への連絡。

百合子と会う約束をした。


「あの時はごめん」

開口一番、私は詫びた。

頭を下げる私に百合子がかけてきた言葉は、意外なものだった。

「おめでとう」

拍子抜けした私の顔を見て、百合子は言葉を継いだ。

「そりゃ。心配だから親は反対するよ」

百合子は、愛娘の咲ちゃんを抱き上げた。

「でもね、何とかなるよ」

咲ちゃんの小さな手をとって「みなちゃんだよ」と耳元で呟く。

咲ちゃんは、天真爛漫の笑顔を私にくれた。

「私も最大限応援するから、もう少し考えてみたら?」


川岸からは、二人の姿が消えていた。

「えー、怖いよー」

息子の甲高い声。

顔を向けると、炊事場があった。

私も足を運ぶ。

「美味しく食べてあげたら、魚も成仏するから大丈夫さ」

彼の声も聞こえた。

後ろから近づき、そっと手元を覗き込む。

「優太。ここをハサミで切っていけ」

「うん」

息子が上手に、魚の腸を取り除いた。

「ママ見て」

息子が腸をとった虹鱒を手にしている。

「上手に捌いたじゃん」

「パッ、あっ」

息子は一度口を噤むと、はにかんで答えた。

「まぁくんに習った」

私は思わず吹き出しそうになった。

残りの魚を捌いている彼も、背中を揺らした。

息子が誇らしげに語り続ける。

「あとね、命の大切さも教わったよ」

私は息子を見つめて言った。

「ママも、昔まぁくんから教わったよ」

それで私は決めたのだから。


ちょうど決断を迫られた頃だった。

なぜか、ある日の彼との何気ない会話を思い出した。

ある居酒屋さんでのやり取りだった。

テーブルに置かれた鮎の塩焼き。

「美奈ちゃん。鮎の寿命って知ってる?」

「……」

「一年なんだよ」

彼は鮎を頭からかぶりついた。

「そんなに短いんだ」

彼は頷いた。

「その短い期間の中で産卵をして、命を繋いでいるんだよ」

彼は言葉までもを噛みしめていた。

「残さず食べないといけないね」

私も真似して、鮎の頭にかぶりついた。


あの記憶が蘇らなければ、私は覚悟ができなかったかもしれない。

「一人で子供を育てていくなんて……」

母が眉間に皺を寄せる。

「美奈子。後戻りはできないぞ」

父は声を低くした。

その言葉に、私は固く口を結んだ。

「母さん。見守ってやろうじゃないか」

母は、渋々頷いた。


無事に出産を終えた私は、

小さな命に「優太」と名づけた。

「優太。お祖母ちゃんだよ」

相好を崩して喜ぶ母を見て、私と父は呆れ顔を突き合わせ、目を細めあった。

「これからが大変なんだからな。しっかりするんだぞ」

父の言葉に、私は大きく顎を引いた。


息子は健やかに育っていった。

小さな背中は、季節が巡るたび少しずつ大きくなっていく。

ただ、父親不在の穴を埋めることだけは難しかった。

保育園のお遊戯会。

「パパ」と振り返って手を振る子がいた。

いよいよ次が出番だという時、演幕の奥から息子の泣き声がした。

「優太くんママ。ちょっと来て下さい」

保育士さんに呼ばれた私は、息子に駆け寄った。

「どうしたの?優太」

私の顔を見た途端、息子はさらに声を上げた。

肩で息をしながら、「僕のパパは?」と息子は漏らす。

私は力強く抱きしめてやることしかできなかった。


息子の父性への渇望は、小学校に入学してからさらに強くなった。

ある日、担任の先生から連絡をもらった私は学校に駆けつけた。

職員室に入ると、泣きべそをかいた息子が立っていた。

「ご迷惑をおかけしました」

友達と取っ組み合いの喧嘩をしたとのことだった。

「お友達は……?」

「お母さんが迎えに来られ、先ほどお帰りになりました」

先生は淡々と答えた。

「お怪我などは……?」

「大した怪我はありません」

息子は黙って突っ立っていた。

「先方へは、喧嘩両成敗ということでご理解をいただいております」

私は再び深く頭を下げた。

「それよりも……ちょっといいですか」

先生は、隣の部屋に私を通した。

「図画工作の時間、題材は家族だったんですが……」

一枚の画用紙を私に見せた。

私は思わず息を呑んだ。

そこには、何も描かれてなかった。

「パパがいないからな」と誂われたと先生は言った。

「それで優太が……」

先生は口をへの字にして静かに頷いた。

真っ白な画用紙は、息子の私への無言の抗議に思えた。

その帰り道。

朱色に染まった空の下。

「優太。手を繋ごうか」

差し出してきた息子の手は小さく柔らかい。

――カラスなぜ鳴くの……。

息子は声を張り上げてくれた。

涙が止まらなくなり、私は立ち止まった。

「ママどうしたの?」

私を見上げた息子。

「ごめんね」と、私はまたしても息子を抱きしめてやることしかできなかった。


「ママぁ」

息子の声。

「こっち来て」

淋しさの欠片は、すっかり消えている。

「えっ。何?」

川辺で息子が手招きをする。

「パッ、あっ」

一度手で口を押さえた息子が、

「まぁくんが、写真を撮ろうだって」と声を張り上げた。

私は頬を緩めると、息子の側に駆け寄った。

彼がバツの悪そうな顔をして頭を掻いた。

「しまった。三脚は車の中だ」

彼が慌てて駐車場へ足を向けようとした時、

「撮りましょうか?」

通りすがりの釣り人が声をかけてきた。

「お願いします」

彼は釣り人にスマホを手渡すと、私たちに駆け寄った。

「魚が見えるように、箱を斜めにして」

息子は、言われたように箱を構えた。

「はい、チーズ」

彼と私。その間に息子が並ぶ。

――カシャ。

「ありがとうございました」

彼に続けて私と息子も礼を返す。

スマホを返そうと近寄った釣り人は、ふと息子の手元を覗き込んだ。

「これ、坊やが釣ったの?」

「うん」

息子は照れくさそうに答えた。

「お父さんの教え方が上手いんだね」

胸を張った息子に、手を振って釣り人は立ち去った。


二ヶ月前のことだった。

仕事帰りに、駅舎を出ると薄暗い景色が待っていた。

予期せぬゲリラ豪雨。

傘を購入しようにも、ロータリーの向こうにあるコンビニまで歩くことすら難しかった。

私は途方にくれていた。

「美奈ちゃん?」

肩ごしに聞き覚えのある声がした。

振り返ると、傘を手にした懐かしい顔が目に入った。

――なんで?

私の鼓動は早くなり、頭の中で時計が急に逆回転を始める。

「まぁくん……」

私が呟くと、彼は私の手元に視線を向けた。

「傘持ってないの?」

彼は鞄から取り出した折りたたみ傘を私に差し出した。

「ありがとう」

「半年前に勤務先が変わって、この街に越してきた」

「私は、あの後すぐにこの街に……」

――ゴロゴロ。

雷が光ると、轟音が言葉を遮った。

「これじゃぁ傘も意味ないか」

彼は呟いた。

傘を差して飛び出した人たちが、見る見るずぶ濡れになっていた。

彼は空をうかがいながら、

「美奈ちゃん。時間あるなら、雨宿りにお茶でもどう?」と、人差し指を上に向けた。

私は、時計を見た。

ちゃんと右回りになっていた。

「ちょっとだけなら」


私たちは、二階にあるカフェに向った。

階段を昇る彼の後をついて行く。

鞄を持つ彼の左手が目についた。


突然の雨で、カフェは混んでいた。

「美奈ちゃん、カフェオレでいい?」

「ありがとう」

「あそこが空いてるから」

彼はカウンターの列に並んだ。

私は、先に窓際の席に座った。


やがて彼が向かいに座ると、激しい鼓動が私を襲う。

あの頃、何度も向かいあって座っていたのに。

彼が口を開いた。

「あれから何年になるかな?」

コーヒーにミルクを落とす彼の仕草は懐かしかった。

「十年は経つかな」

胸元で指を折って私は答えた。

スプーンを軽く回して、彼が漏らすように言った。

「一生会えないと思ってた」

「私も……」

彼の髪には白いものが混ざっている。

「さすがに私、老けたでしょ?」

私は両手でカップを口元に近づけた。

彼は私をまじまじと見た。

「そんなことないよ。でも、雰囲気がどことなく落ち着いた感じ」


雨粒が窓ガラスを激しく叩きつける。

「まぁくん?」

彼は眉を寄せ目を開き、口元に運びかけたカップを戻した。

「結婚は?」

口角を上げた彼は、左手を見せ「ずっと独身だよ」と目尻を下げた。

「美奈ちゃんの方は?結婚」

彼はカップを口にあてた。

「うーん……。結婚はしてない」

少しだけ言葉が淀んだ。

そっとカップを置いた彼は、

「その言い方だと、誰かいい人がいるのかな?」と問うてきた。

言葉を選ぶより早く私は、胸元で小さく手を振った。

「そうじゃないの」

「……」

彼は小首を傾げたが、それ以上の詮索はしてこなかった。

今度は私が問い返した。

「まぁくんは?彼女くらいはいるんでしょ?」

「いないよ。……ずっと」

彼は即座に答えた。


――ずっと。

落ち着きかけていた心は、またざわついた。

なぜか、確かめたくなった。

「好きな人とは上手くいかなかったの?」

「えっ」

彼は視線を上に向けると、片目を塞いで苦い顔を見せた。

「あぁ、あれは……」

私は静かに言った。

「嘘だった」

「ごめん」

彼は小さく頭を下げた。

一呼吸おいた私は、彼に焦点を合わせて口を開いた。

「まぁくん。私ね」

「美奈ちゃ……ん」

声が重なった。

お互いに目を開き、軽く歯を見せる。

「美奈ちゃんから、言って」

「えっ。まぁくんから……」


――着信音。

スマホを覗く。

――自宅。

手のひらを差し向け「どうぞ」と、彼は頬を緩めた。

こくりと頭を下げて私は電話に出た。

「ママ何時に帰ってくるの?」

「今、駅。雨宿りしてるから、もうちょっと待ってて」

私は電話を切ると、カフェオレを口に含んだ。 

彼は手にしたカップを置いた。

小さく息を吸ってから、私は言葉を吐いた。

「子供」

目を丸くした彼に、私は笑みを浮かべた。

「私、シングルマザーなの」

一瞬だけ、彼は顔を強張らせた。

カフェの庇から雨粒が落ちる。

「バツイチだったの?」

彼の言葉に、私は首を振った。

ここまで言ったら、赤裸々に話そう。

そう自分に言い聞かせた私は、拳に力を込めていた。


次の言葉が喉の手前まできた時、先に口を開いたのは彼だった。

「どおりで」

眉を上げる彼に、私は小首を傾げた。

「落ち着いた感じがするはずだ」

そう言って、彼は一旦コーヒーを口にした。

静かにカップを戻した彼は、ふうっと鼻を吹かせてから言った。

「おめでとう」

彼の邪気のない笑顔は、私の口を噤ませた。

目尻を下げたままの彼が、

「いくつなの?」

「男の子?女の子どっち?」

と矢を継ぐように質問をしてきた。

だけど、答えづらいことは何一つ聞いてこなかった。

むしろ、知ってもらいたいことばかりを聞いてきた。

「名前は?」

そこで、私は一拍おいた。

彼は、少し身を乗り出した。

私はゆっくり告げた。

「優太」

動きを止めた彼。

間髪入れず私は口にした。

「まぁくんの、名前の漢字をもらったよ」

彼は首を傾げた。

「どうして?」

私は一呼吸入れて答えた。

「まぁくんみたいな男の人になって欲しくて」

全くの嘘でもないからか、頬が火照るのを自分でも感じた。

次の瞬間、彼は目元に手をあてた。

私が彼の目を覗き込むと、彼は涙を堪えていた。

「まぁくん。どうしたの?」

彼は鼻をすすった。

「あの頃、ちゃんと言えなくて……」

彼はグラスを手に取り水を飲みこむと、ごくりと喉を鳴らした。

窓を打つ雨は、穏やかになっていた。

「美奈ちゃん、別れる時に僕が言った理由を覚えてる?」

私は黙って頷いた。

「あれは……」

彼は、カップの縁に視線を落とした。

そして、すぐには言葉を続けなかった。

私は何も聞かず、ただ指先を握りしめていた。

彼の唇が開きかけては、また閉じた。

潤んだ目に力を籠めた彼は、

「俺には……」とまで言うと、

小さく息を吐いた。

そして、静かに言った。

「生まれつき精子がないんだ」

彼は、ついに堪えていた涙を零した。

私の胸の奥で、長い間はっていた靄がゆっくり晴れていくのを感じた。

十年間もつれたままの糸が、静かにほどけていく。

あの頃、彼が一人で背負っていた重さを、私はようやく知った。

唇を震わせながら、彼は言葉を続けた。

「だから……。あの時、美奈ちゃんと……」

彼の姿が滲んで見えた。

「本当は、離れたくなかった……」

息が上がる中、彼は懸命に言葉を振り絞った。

「……ずっと後悔してたんだ」

彼は私の目を見ていた。

私はハンカチを取り出し頬にあてた。

涙につられるように、心の奥にしまいこんだ感情が言葉になって溢れ出た。

「まぁくんのこと。何度も忘れようとしたんだけど……。ずっと忘れられなかった」

彼はゆっくり目を閉じ天を仰ぐと、

「美奈ちゃんが……。母親になれてよかった」

そう言って、目頭を押さえた。

「ありがとう」

私は手にしたハンカチを彼に差し出した。


窓の外に目を向けると雨は止み、疎らになった雲の隙間から一筋の陽が差し込んでいた。

「ねぇ、まぁくん」

彼は小さく瞬きをしてから私を見た。

「まだ釣りやってる?」

「うん」

彼の目は赤く染まっていた。

「もし、よかったら息子に教えてやってもらえない?」

「えっ」

彼は、少し戸惑った。

一度、窓に顔を向けた彼は頬を上げて呟いた。

「虹かぁ」

雲がすっかり姿を消した空には、微かに虹がかかっていた。

「美奈ちゃんの子供に、俺も会ってみたい」

その言葉を受けた私は提案をした。

「一度、三人でご飯しない?」

「喜んで」

そう答えた彼の笑顔は昔のままだった。


数日後、優太と彼は初めて顔を合わせた。

「優太。まぁくんだよ。ほら、挨拶して」

息子は、私の後に半身を隠した。

「こんにちは」

緊張をしていたのだろう、息子の声は微かであった。

「こんにちは。優太くん」

彼は、ゆっくりと挨拶をする。

私の足にしがみつく息子の手に力が入る。

彼は頬を緩めると、その場にしゃがみ込み息子の目線に顔を合わせた。

「僕は、まぁくん」、彼は一拍おくと

「ママからは、そう呼ばれてるよ」と目尻を下げた。

息子は、「まぁくん」と噛みしめるように呟いた。

「まぁくんは、まさるって名前なの。優太の優と同じ漢字だよ」

私は息子に伝えた。

息子は私から手を離し、前歯のぬけた口を広げて見せた。

合わせるように笑った彼は、息子の頭を撫でた。

「今日は美味しいもの、いっぱい食べような」

「うん」

「釣りの作戦会議もするぞ」

「うん」

またたく間に、彼は息子の心を開いていった。


「釣りしてみたかったんだぁ」

テーブルの料理もそっちのけで、夢中になって話をする息子。

その息子の話に熱心に耳を傾ける彼。


そして、今日。

彼は、私と息子の約束を果たしてくれた。

釣り糸を指で丸めて見せる息子。

「ママ。見てて」

息子は黙ったまま、不器用に指を動かす。

「優太、何してるの?」

首を傾げて手を止めた息子。

見かねた彼が「こうするんだ」と、二本の糸を結んだ。

彼が手にしている糸はコブはあるけど、紛れもなく一本でつながっている。


私は彼とのある会話を思い出した。

別れる少し前、珍しく会話が弾んだ。


彼はテレビ番組を食いつくように観ていた。

「何見てるの?」

画面から目を離さないまま、彼は質問を返してきた。

「美奈ちゃん。カッコウって知ってる?」

「静かな湖畔の森の影から、の?」

「うん。そのカッコウ」

画面に、羽を広げた鳥が映った。

「これ、カッコウ?」

「いや、こいつはモズだよ」

モズは、巣の中で雛に餌を与え始めた。

「カッコウ、関係ないじゃん」

「カッコウは、他の鳥の巣に卵を産みつけるんだ」

「え。どういうこと?」

私も番組に釘付けになった。

――托卵。

「モズは分かってるのかな?」

私の問いに、彼は言った。

「どっちでもいいんだよ、モズにとっては」

その真意を、あの時の私は深く考えなかった。


山々に沈みかけている夕陽が、川面を朱色に染めている。

もう『七つの子』を歌う必要のない私と息子は、彼を手伝い三人で荷物を車に積み終える。

「ねぇ。まぁくん、優太の面倒ばかりみてて釣りしてなかったよね?」

彼は顔を横に向けたまま「俺はいいんだよ」と微笑んだ。

「本当にありがとう」

彼は息子に目を合わせて、

「今日は優太に釣りを教えに来たんだから」と大きく頷く。

「また連れて来てね。パッ、あっ……まぁくん」

息子のもどかしさに痺れをきらせた私は、「ねぇ」と思わず口を挟んだ。

一度彼を見やってから、目を息子に戻す。

「パパって呼ばしてもらったら?」

突然の私のリクエストに、息子は少し考えている。

彼も少し驚いた顔をした。

私は息子の言葉を待った。

「まぁくんは、まぁくん」

彼は照れた笑いを浮かべると、息子に言った。

「次は、海釣りに挑戦するか?」

「うん」と頷いた息子が、眉を丸めて呼びかけてきた。

「ママぁ?」

「……?」

「ママ、まぁくんと結婚したら?」

息子は口を大きく開けて笑った。

「こら、優太。生意気言ったな」

私が口を尖らせていると、

「よし。もう一枚。三人で写真撮るぞ」

彼は三脚を手にして呼びかけた。

駆け寄る息子の肩に、彼が静かに手を置いた。

彼を見上げた息子は、「しーっ。何か鳴いてるよ」と耳に手をあてた。

私も思わず耳を澄ます。

林の奥から、澄んだ声が聞こえてきた。

――カッコー、カッコー。






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モズとカッコウ 華原 大 @masaruohara

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