後日談:堕ちた王と、鉄格子の外の地獄

重厚な鉄の扉が、背後で鈍い音を立てて閉ざされた。

冬の寒空の下、俺は刑務所の塀の外に放り出された。

白い息が視界を遮る。

身につけているのは、出所時に返還された古いスーツだ。

だが、その生地は湿気てカビ臭く、かつて俺が誇っていた「イタリア製のオーダーメイド」の輝きは見る影もない。体型が変わったせいでウエストはきつく、逆に肩周りは貧相に落ち窪んでいて、まるで他人の服を着ているようだ。


「……寒ぃな」


独り言が漏れる。

迎えはいない。当然だ。

家族とは縁を切られ、友人だと思っていた連中は蜘蛛の子を散らすように逃げた。

俺、高田裕也。

かつては大手広告代理店のエース候補で、夜の街を我が物顔で闊歩していた男。

それが今や、前科持ちの無職だ。


「まあいい。ここからが俺の第二章だ」


俺はポケットに入っていたわずかな現金を握りしめ、歪んだ笑みを浮かべた。

俺には才能がある。人を惹きつけるカリスマ性がある。

刑務所というブランクはあったが、俺の話術とルックスがあれば、またすぐにのし上がれるはずだ。

まずは、どこかで種銭を稼いで、身なりを整える。そうすれば、また女たちが群がってくる。

俺は不死鳥のように蘇るのだ。


そう信じていた。

あの時はまだ、塀の外の世界がどれほど残酷に変わっているかを知らなかったのだ。


***


「おい、高田! 手が止まってんぞ! さっさと運べ!」


怒号が飛び交うのは、湾岸エリアにある産業廃棄物の処理場だ。

鼻をつく腐敗臭と、舞い上がる粉塵。

俺は防塵マスクの下で顔をしかめながら、重たい瓦礫の入った袋をトラックの荷台に放り投げた。


「……くそっ、なんで俺がこんなことを」


腰に走る激痛に耐えながら、俺は心の中で毒づく。

出所してから半年。俺の「第二章」は、泥沼の底から始まった。

再就職? 無理だった。

ネットで俺の名前を検索すれば、過去の悪行がずらりと出てくる。『結婚詐欺』『横領』『実刑判決』。

そんな人間を雇うホワイト企業など存在しない。

警備員のバイトすら断られた。信用がないからだ。


結局、身分証のチェックが甘い日雇いの肉体労働しか残っていなかった。

時給は最低賃金スレスレ。

しかも、その給料の半分近くは、自動的に差し押さえられる。

被害者の会による集団訴訟。判決で確定した損害賠償金は、利息を含めて数千万円に膨れ上がっている。

俺が生きている限り、給料から天引きされ続けるのだ。


「休憩だ!」


親方の声で、作業員たちが一斉に座り込む。

俺も泥だらけの地面に腰を下ろし、コンビニで買ったぬるいお茶を流し込んだ。

周りにいるのは、歯の抜けた老人や、日本語の怪しい外国人ばかり。

かつて、銀座の高級寿司店でクライアントと談笑していた俺が、なぜこんな底辺の連中と肩を並べているんだ。


「よう、新入り。お前、前は何やってたんだ?」


隣に座っていた作業員が話しかけてきた。前歯が黒く変色している男だ。


「……広告関係だ」

「へえ、エリートじゃんか。なんでまたこんなとこに?」

「ちょっと失敗してな。……運が悪かっただけだ」


俺は不機嫌に吐き捨てた。

そうだ、運が悪かっただけだ。

あの日、あの生意気な大学生――相沢翔太にハメられなければ、今頃俺は独立して、六本木のオフィスで社長椅子に座っていたはずなんだ。

あいつと、あの頭の悪い佐々木玲奈のせいで、俺の人生は狂わされた。


「運かぁ。まあ、ここに来る奴はみんなそう言うよな」


男はニヤニヤしながら、安っぽいタバコに火をつけた。

その煙が俺の顔にかかる。

昔なら、「失礼だぞ」と怒鳴りつけていた場面だ。

だが今の俺には、そんな気力もない。

ただ、疲れ切った体を休めることしか考えられない。


作業が終わると、俺は足を引きずりながら簡易宿泊所へ向かう。

三畳一間の狭い部屋。壁は薄く、隣の部屋のいびきが聞こえる。

布団は煎餅のように薄く、万年床の臭いがする。

ここが、かつてタワーマンションに住んでいた俺の「城」だ。


「……ふざけんなよ」


コンビニ弁当の蓋を開けながら、俺は涙ぐんだ。

惨めだ。あまりにも惨めだ。

俺は選ばれた人間のはずだ。こんなところで終わっていいはずがない。


スマホを取り出す。画面にはヒビが入っている。

Twotterを開き、自分の名前をエゴサーチする。

『高田裕也 出所』『高田裕也 現在』

新しい書き込みはない。世間はもう、俺のことなど忘れている。

過去の炎上記事だけが、デジタルタトゥーとして残り続けているだけだ。


ふと、あいつの名前を検索してみようと思った。

『相沢翔太』

ありふれた名前だが、関連ワードに『IT』『若手起業家』と出る。

まさかと思い、画像検索をする。


そこには、俺が見たことのない「相沢翔太」がいた。

洗練されたスーツを着こなし、ビジネス誌のインタビューを受けている写真。

精悍な顔つき。自信に満ちた眼差し。

記事のタイトルは『逆境を力に変える。次世代を担う若きリーダーの哲学』。


「……は?」


スマホを持つ手が震える。

あいつ、起業したのか?

俺が夢見ていた「独立」を、あいつが実現している?

しかも、記事の日付は最近だ。

本文を斜め読みする。

『大学時代に人間関係のトラブルで大きな挫折を経験しましたが、それを糧に誠実さを第一に掲げたビジネスモデルを構築しました』


人間関係のトラブル。

俺のことか。俺との一件を「糧」にしただと?

ふざけるな。俺を踏み台にして、自分だけ成功者になったというのか。


「う、うあぁぁぁぁ!!」


俺は叫び声を上げ、スマホを布団に叩きつけた。

悔しい。妬ましい。

俺が手に入れたかったものを、あいつは全部持っている。

金も、名誉も、地位も。

そして、記事の最後にはこう書かれていた。

『支えてくれた妻と、新しく生まれた娘のためにも、さらなる飛躍を誓います』


妻。

あの一ノ瀬舞という女か。

幸せな家庭まで手に入れているのか。

俺は独りぼっちで、カビ臭い部屋でコンビニ弁当を食っているというのに。


「許せねえ……許せねえよ……」


俺の中で、黒い炎が燃え上がった。

このまま終わってたまるか。

俺だって、まだやれる。

かつての俺には、女を落とすテクニックがあった。金を持ってる女を見つけて、そいつに取り入れば、一発逆転だって可能なはずだ。

そうだ、俺はまだ三十代。男としての魅力は枯れていないはずだ。


俺は立ち上がり、鏡を見た。

そこには、日焼けではなく日雇い労働で黒く焼け、髪は白髪混じりでボサボサ、肌は荒れてシワが刻まれた、くたびれた中年の顔があった。

かつての「イケメンエリート」の面影は、どこにもなかった。


「……いや、まだだ。身なりを整えれば……」


俺は震える手で整髪料を塗りたくった。

安物のスーツに袖を通す。

そして、夜の街へと繰り出した。


***


向かったのは、かつて俺の庭だった西麻布のバーだ。

会員制ではないが、そこそこ富裕層が集まる店。

ここでなら、金持ちの女、あるいは寂しさを抱えたOLが見つかるかもしれない。


店のドアを開ける。

薄暗い照明、ジャズの音色。懐かしい空気に胸が高鳴る。

カウンターの隅に座り、一番安いウイスキーを頼んだ。


「いらっしゃいませ」


バーテンダーは若い男だった。俺の服装を見て、一瞬怪訝そうな顔をしたが、すぐに業務的な笑顔を作った。

俺はグラスを傾けながら、獲物を物色した。

テーブル席には、ブランド物で着飾った女子会グループがいる。カウンターの向こうには、一人で飲んでいる三十代くらいの女性。


(あいつだ)


俺は狙いを定めた。

少し疲れたような表情。指輪はしていない。仕事帰りのキャリアウーマンか。

俺はグラスを持って、彼女の隣に移動した。


「隣、いいかな?」


精一杯、低い声で囁く。かつてはこれで百発百中だった「キメ顔」を作る。

女性が顔を上げ、俺を見た。

そして、露骨に眉をひそめた。


「……誰ですか?」

「いや、一人で寂しそうだったからさ。僕も一人なんだ。よかったら乾杯しない?」

「結構です」


拒絶。あまりにも速い。

昔なら、「えー、嬉しい!」と返ってきたはずなのに。


「まあそう言わずに。君、綺麗な目をしているね。何か悩みでもあるんじゃない?」


俺はめげずに畳み掛けた。

すると、女性は鼻をつまむような仕草をした。


「あの、すみませんけど。おじさん、臭いです」

「……は?」

「汗臭いっていうか……カビ臭い? 近寄らないでもらえます?」


女性は席を立ち、バーテンダーを呼んだ。


「店員さん、席変えてもらえませんか? 変な人に絡まれて」


店内中の視線が俺に集まる。

嘲笑、軽蔑、憐憫。

俺の顔が熱くなる。

臭い? 俺が?

毎日風呂には入っている。スーツだってファブリーズをしたはずだ。

だが、産業廃棄物の臭いと、安アパートの生活臭は、俺の体に染み付いて取れなくなっていたのだ。


「お、おい! 失礼だろ! 俺は客だぞ!」


俺は虚勢を張って怒鳴った。

だが、駆け寄ってきた店長らしき男に、丁重に、しかし力強く腕を掴まれた。


「お客様、他のお客様のご迷惑になりますので。お引き取りください」

「放せ! 俺はフロンティア・エージェンシーの高田だぞ! ここでいくら使ったと思ってるんだ!」


口をついて出たのは、以前の肩書きだった。

店長は冷ややかな目で俺を見下ろした。


「存じ上げませんが……当店はドレスコードがございます。その格好ではちょっと」


俺のヨレヨレのスーツ。泥で汚れた革靴。

鏡を見なくても分かった。俺は今、どう見ても「成功者」には見えない。

ただの、痛々しい酔っ払いの浮浪者だ。


店を追い出され、俺は路地裏に放り出された。

アスファルトに膝をつく。

通り雨が降り始めた。冷たい雨が、俺の火照った顔を叩く。


「なんでだよ……なんで俺がこんな目に……」


俺は悪くない。

俺はただ、要領よく生きたかっただけだ。

馬鹿な女から金を巻き上げて何が悪い。世の中は弱肉強食だろ。

俺は強者のはずだろ。


その時、一台の黒塗りの高級車が、目の前の通りをゆっくりと横切った。

信号待ちで止まる。

後部座席の窓が開いていた。


中に乗っていたのは、相沢翔太だった。

隣には、美しい妻と、小さな子供。

翔太は穏やかに微笑みながら、子供に何かを話しかけている。

その横顔は、満ち足りていて、光り輝いて見えた。


俺と目が合った気がした。

俺は路地裏のゴミ捨て場の横で、雨に濡れ、這いつくばっている。

あいつは高級車の革張りシートに座り、温かい家族に囲まれている。


あいつは俺に気づかなかった。

いや、視界に入っていたとしても、認識しなかったのだろう。

今の俺は、あいつにとって「背景の一部」、あるいは「路傍の石」でしかないのだ。


信号が変わり、車は滑らかに走り去っていった。

赤いテールランプが、雨の中で滲んで消えていく。


「あ……あぁ……」


俺の喉から、言葉にならない音が漏れた。

勝てない。

逆転なんて、ありえない。

俺とあいつの間には、永遠に埋まらない、天と地ほどの差が開いてしまった。


俺はかつて、あいつを「モブキャラ」だと笑った。

だが、違った。

俺こそが、物語の序盤で退場させられる、三流の悪役だったのだ。

そして悪役には、ハッピーエンドなんて用意されていない。


「うぅ……うおぉぉぉぉ!!」


俺は雨に向かって吠えた。

誰も聞いていない。誰も見向きもしない。

都会の喧騒にかき消され、俺の絶叫は虚しく響くだけだった。


ずぶ濡れになりながら、俺は立ち上がった。

帰ろう。あのカビ臭い部屋へ。

明日は朝の五時起きだ。また、ゴミの山と格闘しなければならない。

借金はまだ数千万残っている。

死ぬまで、俺はこの泥沼の中で生き続けるしかないのだ。


ポケットの中の小銭がチャリと鳴る。

それが、俺に残された全財産であり、俺の価値そのものだった。


ネオンサインが煌めく東京の街。

その光はあまりにも眩しく、俺の薄汚れた影を濃く、深く、地面に焼き付けていた。

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社会人の彼女が「学生の君とは世界が違う」と職場の先輩と浮気していた。俺は感情を殺して証拠を集め、二人まとめて社会的に抹殺する @flameflame

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