後日談:泥濘の底から見上げる星

築四十年、木造二階建てのアパート「コーポ松風」。

その二階の角部屋で、私は薄い布団にくるまりながら、天井のシミをぼんやりと眺めていた。

壁は薄く、隣の住人がテレビを見ている音や、咳払いまで筒抜けだ。湿気たカビの臭いと、自分が吸った安タバコの臭いが混じり合い、鼻をつく。


「……はぁ」


重いため息をつき、枕元に転がっているスマホを手探りで掴む。

画面に表示された日付は、二〇××年四月。

あの「事件」から、もう五年が経っていた。


私は佐々木玲奈。二十八歳。

かつては都心の一等地にオフィスを構える大手広告代理店の社員で、華やかな未来が約束されていたはずの女。

しかし今の私は、手取り十八万の派遣社員。仕事はクレーム処理専門のコールセンターだ。


「うるせえ! さっさと返金しろって言ってんだよブス!」

「申し訳ございません、ただいま確認いたしますので……」


毎日、顔も見えない相手から罵声を浴びせられ、頭を下げ続ける日々。

かつて私が「底辺」と見下していたような人々に、今の私は媚びへつらっている。

それが、今の私の「身の丈」だった。


ガサゴソと音を立てて起き上がる。

鏡に映る自分の顔を見て、私は思わず目を背けたくなった。

髪はパサつき、プリン状態になっている。肌は荒れ、目の下には消えないクマが張り付いている。

あの頃、毎月のように通っていた美容院やネイルサロンなんて、もう何年も行っていない。化粧品もドラッグストアの安物ばかりだ。


「……老けたなぁ」


二十八歳といえば、まだ若いはずだ。

でも、鏡の中の女は三十代半ば、いや、もっと疲れた老婆のように見える。

これが、借金とストレス、そして後悔に蝕まれた人間の末路だ。


あの時、私が背負った二百万円の借金。

高田裕也という詐欺師に騙され、消費者金融から借りた金だ。

会社をクビになり、退職金も出ず、逆に損害賠償を請求されそうになった私は、親に泣きついた。

しかし、厳格だった父は激怒し、「家名の恥だ」と私を勘当した。一円の援助もなかった。


頼れる友人もいなかった。

SNSであれだけ騒がれ、特定され、私の悪行は全世界に晒された。「詐欺師の共犯」「社内不倫女」。そんなレッテルを貼られた人間に近づく物好きはいなかった。


結局、私は夜の店で働くしかなかった。

キャバクラ、ガールズバー、風俗……。プライドをかなぐり捨てて働いた。

それでも、利息という怪物は膨れ上がり、元本はなかなか減らなかった。

体を壊して夜の仕事を辞めた今は、わずかな給料から毎月五万円ずつ返済しているが、完済の目処は立っていない。あと何年かかるのだろう。五年? 十年?


「お腹すいた……」


冷蔵庫を開ける。中にあるのは、賞味期限切れの納豆と、昨日の残りのコンビニおにぎりだけ。

かつて、高田に連れて行ってもらった高級フレンチや、翔太が作ってくれた手料理の味を思い出す。

あんなに温かくて、美味しかったのに。

どうして私は、あんな偽物の宝石(高田)に目が眩んで、本物の宝物(翔太)を捨ててしまったんだろう。


「翔太……」


五年経った今でも、彼の名前を口にすると胸が締め付けられる。

あれから一度も会っていない。連絡も取れない。

彼は今、どうしているのだろうか。

優秀だったから、きっといい会社に入って、活躍しているに違いない。

もしかしたら、新しい彼女がいるかもしれない。いや、もう結婚しているかも。


「……会いたいな」


叶わない願いだと分かっていても、独り言が漏れる。

もし、あの時。

高田の誘いを断っていたら。

翔太の手料理を「美味しい」と心から食べていたら。

今頃、私は彼と結婚して、幸せな家庭を築いていたかもしれない。

清潔なマンションで、彼が帰ってくるのを待ち、「おかえり」と笑いかける。

そんな未来が、確かに私の手の中にあったはずなのに。


ピンポーン。


不意にインターホンが鳴った。

心臓が跳ね上がる。借金の取り立てではないか、と反射的に身構える。

恐る恐るドアスコープを覗くと、NHKの集金人だった。

私は居留守を使い、息を潜めた。

足音が遠ざかるのを確認して、ようやく息を吐く。


こんな生活、もう嫌だ。

華やかな世界に戻りたい。誰かにチヤホヤされたい。

いや、そんな高望みはしない。ただ、人並みの幸せが欲しい。

誰かに「愛してる」と言ってほしい。


今日は日曜日だ。仕事は休み。

私はふと、外の空気を吸いたくなった。

このカビ臭い部屋にいると、自分が腐っていきそうな気がしたからだ。


クローゼットから、五年前に買ったコートを取り出す。

少し型崩れしているが、これが私が持っている一番マシな服だ。

丁寧にメイクをし、髪をまとめる。

少しでも、あの頃の自分に近づけるように。


電車に乗り、向かったのは表参道だった。

かつて、翔太とのデートや、高田との買い物でよく訪れた場所。

今の私には不釣り合いな街だと分かっている。

すれ違う人々は皆、洗練された服を身に纏い、自信に満ちた顔をしている。

ショーウィンドウに映る私は、まるで紛れ込んだ異物のように惨めだった。


「……変わってないなぁ」


街並みは五年前とほとんど変わっていなかった。

変わったのは私だけだ。

ブランドショップの看板を見るたびに、胸が痛む。

あの頃の私は、このバッグを持てば自分が特別な人間になれると信じていた。

中身が空っぽのまま、外側だけを飾り立てて。


ふと、通りの向こうにあるオープンテラスのカフェが目に入った。

人気店で、いつも行列ができている店だ。

翔太と並んで、パンケーキを食べた記憶がある。

彼は甘いものが苦手なのに、「玲奈が食べたいなら」と付き合ってくれたっけ。


そのカフェのテラス席に、見覚えのある後ろ姿があった。

背が高く、肩幅の広い、スーツ姿の男性。

仕立ての良いネイビーのスーツを着こなし、足を組んで座っている。

その背中のライン、髪の生え際、耳の形。

忘れるはずがない。


「……翔太?」


心臓が早鐘を打つ。

まさか。こんな広い東京で、偶然会えるなんて。

これは運命かもしれない。神様が私にくれた、最後のチャンスかもしれない。


私は吸い寄せられるように、道路を渡った。

近づくにつれて、確信が深まる。

横顔が見えた。少し精悍になったけれど、あの優しい目元は変わっていない。

相沢翔太。私の元カレ。


彼は一人ではなかった。

向かいの席に、女性が座っている。

清楚な白いワンピースを着た、可愛らしい女性だ。

彼女は楽しそうに笑い、翔太も穏やかな笑顔で頷いている。


胸がズキリと痛んだ。

やっぱり、新しい相手がいたんだ。

でも、諦めきれない。一言でいい。謝りたい。

「ごめんなさい」と伝えて、もし許してもらえるなら……。

そんな都合のいい妄想が、私の足を前に進ませた。


「……あの、翔太?」


震える声で呼びかけた。

カフェの入り口付近。テラス席のすぐ近くだ。

私の声に気づき、彼が顔を上げた。


目が合った。

五年ぶりの再会。

私は必死に口角を上げ、精一杯の笑顔を作った。


「久しぶり……だね。玲奈だよ、覚えてる?」


翔太の目が、数ミリ見開かれた。

驚きの表情。

しかし、次の瞬間、その瞳から感情がスッと消えた。

怒りでも、軽蔑でもない。

まるで、道端の石ころを見るような、完全なる無関心。


「……ああ、佐々木さん。奇遇だね」


「佐々木さん」。

かつて「玲奈」と呼んでくれた声は、他人に使うよそよそしい響きに変わっていた。

その距離感に、私は殴られたような衝撃を受けた。


「げ、元気だった? 私、ずっと翔太のこと……」

「翔太さん、お知り合いですか?」


向かいの女性が、不思議そうな顔でこちらを見た。

彼女の目は澄んでいて、一点の曇りもない。

私の薄汚れた姿とは対照的だ。

彼女からは、幸せなオーラが溢れ出ている。


翔太は彼女に向き直り、優しく微笑んだ。


「ああ。大学時代の、ただのサークルの先輩だよ」


ただの、サークルの先輩。

「元カノ」ですらない。

私の存在は、彼の人生において「過去の汚点」として処理され、記憶の彼方に追いやられているのだ。


「そっか! 初めまして、一ノ瀬舞です。翔太さんの妻です」


妻。

その言葉が、私の頭の中で反響した。

妻。結婚している。この二人は夫婦なんだ。


舞さんが左手を差し出す。その薬指には、シンプルだが品のあるプラチナの指輪が輝いていた。

そして、翔太の左手にも、同じ輝きがあった。


「あ……」


言葉が出ない。

喉が詰まり、呼吸が浅くなる。

結婚していたんだ。幸せになっていたんだ。私ではない誰かと。


「こ、こんにちは……」


蚊の鳴くような声で返すのが精一杯だった。


「翔太さん、この後、家具を見に行く約束でしたよね? 時間、大丈夫ですか?」

「ああ、そうだね。そろそろ行こうか」


翔太は伝票を手に取り、立ち上がった。

私の方をもう一度だけ見たが、その目には何の未練もなかった。

「元気で」という社交辞令すら言わなかった。

ただ、私という「風景の一部」を通り過ぎていくだけだ。


「じゃあ、失礼するよ」


翔太が私の横を通り過ぎる。

その瞬間、彼の匂いがした。

昔と同じ、爽やかな石鹸の香り。でも、それに混じって、少し高そうなコロンの香りがした。

彼は私が知っている翔太よりも、ずっと大人で、ずっと遠い存在になっていた。


二人は腕を組み、仲睦まじく歩いていく。

舞さんが翔太の肩に頭を預け、翔太が彼女の髪を愛おしそうに撫でる。

その仕草は、かつて私に向けてくれていたものだ。

でも今の彼は、私には決して見せないような、心からの安らぎに満ちた表情をしていた。


私はその場に立ち尽くしていた。

道ゆく人々が、奇妙なものを見るように私を避けていく。

華やかな表参道の真ん中で、私だけが色を失ったモノクロの存在だった。


「なんで……」


涙が溢れてきた。

悔しい。悲しい。惨めだ。

どうして私はあそこにいないの?

どうしてあの指輪は私の指にないの?

どうして、翔太の隣で笑っているのは私じゃないの?


「私が……私がバカだったから……」


自分の愚かさが、刃物のように胸を抉る。

「学生の彼氏なんて頼りない」「もっと刺激的な大人の恋がしたい」。

そんな安っぽい欲に溺れた代償がこれだ。


翔太は成功した。

大手のIT企業で出世し、美しい妻と結ばれ、幸せな人生を歩んでいる。

彼は私への復讐など、とっくの昔に終えていたのだ。

私を恨むことすら時間の無駄だと判断し、記憶から消去することで、私を完全に殺したのだ。


これが、本当の「ざまぁ」だ。

怒鳴られるよりも、罵られるよりも、こうして「無関心」を突きつけられる方が、何倍も苦しい。

私は彼にとって、もう取るに足らない路傍の石以下の存在なのだ。


二人の背中が見えなくなるまで、私は動けなかった。

春の風が吹いているのに、私の体は芯まで冷え切っていた。


***


帰りの電車の中、私は抜け殻のようになっていた。

窓に映る自分の顔が、ひどく醜く見えた。

化粧は涙で崩れ、目の下のクマが一層濃くなっている。

これが私の現実だ。


アパートの最寄駅に着き、スーパーで半額の弁当を買う。

レジ袋をぶら下げて、薄暗い路地を歩く。

カラスがゴミ捨て場で鳴いている。


「ただいま……」


誰もいない部屋に呟く。返事はない。

電気をつけると、散らかった部屋が目に入る。

床に落ちている督促状。シンクに溜まった洗い物。

ここが私の城だ。私の牢獄だ。


半額の弁当を開け、冷たいご飯を口に運ぶ。

味がしない。砂を噛んでいるようだ。


ブブッ。


スマホが震えた。

また借金の催促か、それともクレーム対応のシフト変更か。

無気力に画面を見る。


『MINE新着:母』


珍しく、実家の母からのメッセージだった。

勘当されてから五年、一度も連絡なんてなかったのに。

少しだけ期待して、メッセージを開く。


『お父さんが倒れました。入院費が必要です。あんた、少しでも工面できないの? 迷惑ばかりかけてないで、少しは親孝行しなさい』


……お金。

結局、お金の話だ。

心配の言葉も、「元気にしてる?」の一言もない。

私がどうやって生きているのか、苦しんでいるのか、そんなことには興味がないのだ。


「工面できないのって……私が一番欲しいよ……」


乾いた笑いが漏れた。

私にはお金がない。信用がない。未来がない。

そして、愛してくれる人もいない。


スマホを放り投げる。

画面には、先ほど盗み見てしまった舞さんのSNSが表示されていた。

帰り道、どうしても気になって検索してしまったのだ。

『#結婚記念日 #デート #旦那様ありがとう #幸せ』

そんなハッシュタグと共に、幸せそうな二人の写真と、美味しそうなパンケーキの写真がアップされていた。

コメント欄には『素敵な旦那様ですね!』『お似合いです♡』という賞賛の声が並んでいる。


五年前。

私はSNSで「いいね」を貰うことに命を懸けていた。

偽物のブランド品や、嘘のリア充アピールで、虚構の自分を作り上げていた。

でも、舞さんの投稿は違う。

そこにあるのは本物の幸せだ。飾らない、ありのままの幸福だ。


私が欲しくてたまらなかったものが、全てそこにある。

そしてそれは、私が自分の手でドブに捨てたものだ。


「う、うぅ……あぁぁぁぁ!!」


私は布団に顔を埋め、獣のような声を上げて泣いた。

後悔の念が津波のように押し寄せてくる。

もし、タイムマシンがあったら。

あの日に戻って、自分を殴り飛ばしてやりたい。

「その男は詐欺師だ」と。「翔太を裏切るな」と。


でも、時間は戻らない。

絶対に、戻らない。


私はこれからも、この薄汚い部屋で、借金に追われ、クレームに頭を下げ、孤独に老いていくのだ。

翔太が光の中で幸せを積み重ねていく一方で、私は泥の中で沈んでいく。


それが、裏切り者の末路。

それが、私が一生背負わなければならない十字架。


窓の外では、冷たい雨が降り始めていた。

私の涙が枯れることは、きっと一生ないだろう。

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