第六話 新しい朝

季節は冬から春へと移ろい始めていた。

街路樹の桜の蕾が膨らみ、冷たい風の中にも微かな春の匂いが混じり始めた頃。

俺、相沢翔太を取り巻く環境は劇的に変化していた。


あの日、俺が投じた一石は、予想以上の波紋を広げ、腐敗した関係を根こそぎ破壊し尽くした。


「……そうですか。退職金も出ない、と」


電話口の向こうで、事務的な声が事実を告げる。

都内某所の古びたアパートの一室。薄汚れた壁紙と、散乱したコンビニのゴミ袋に囲まれて、佐々木玲奈は呆然とスマホを耳に当てていた。


「ええ。懲戒解雇ですから。むしろ、会社側としては損害賠償請求も検討しています。高田氏との共謀による横領の件もありますからね」

「で、でも! 私は騙されてただけで……」

「それは裁判で主張してください。とにかく、会社への私物の引き取りは郵送で済ませました。二度と敷居を跨がないように」


プツッ。通話が切れる。

無機質な電子音だけが、静まり返った部屋に響いた。


玲奈はスマホを握りしめたまま、その場に崩れ落ちた。

かつて「勝ち組」だと信じて疑わなかった生活は、音を立てて崩壊した。

会社での居場所は一瞬でなくなった。出社するたびに浴びせられる同僚たちの冷ややかな視線、ひそひそ話、露骨な無視。そして、ネット上で拡散された「詐欺師の共犯女」というレッテル。

TwotterやOustaのコメント欄は誹謗中傷で溢れかえり、承認欲求を満たす場だったはずのSNSは、彼女を攻撃する凶器へと変わった。


「う、うぅ……」


嗚咽が漏れる。

手元には、督促状の束がある。消費者金融からの催促だ。二百万円の借金。利息は雪だるま式に増えていく。再就職先を探そうにも、悪評が広まったこの業界ではどこも雇ってくれない。

日雇いのバイトや、怪しげな夜の仕事のスカウトメールだけが、今の彼女の価値を物語っていた。


「翔太……」


すがるような思いで、MINEを開く。

トーク画面には、未読のまま積み重なったメッセージの山。

『ごめんなさい』

『私が間違ってた』

『もう一度会いたい』

『お金貸して』


どれだけ送っても、既読になることはない。ブロックされているのだ。

かつて、あれほど優しく、自分を大切にしてくれた男。

「学生だから頼りない」と見下し、踏みにじった相手こそが、本当は一番の理解者であり、自分を守ってくれていた存在だったことに、全てを失って初めて気づいた。


「戻りたい……あの頃に……」


玲奈は薄暗い部屋で、冷たくなったコンビニ弁当を見つめながら、枯れることのない涙を流し続けた。

彼女が手に入れた「大人の世界」の正体は、孤独と借金、そして後悔だけが渦巻く地獄だったのだ。


***


一方、俺は大学のキャンパスにあるベンチで、温かい缶コーヒーを握りしめていた。

隣には、相棒の三島洋介がいる。


「へえ、高田の判決、出たんだ」

「ああ。実刑確定だそうだ。詐欺、横領、背任。余罪もボロボロ出てきて、被害総額は五千万近くになったらしい。まあ、十年近くは塀の中だろうな」


洋介がスマホのニュース記事を見せながら、淡々と言った。

画面には、手錠をかけられ、うなだれて連行される高田裕也の写真が小さく載っている。かつての尊大な態度は見る影もなく、ただの中年男に成り下がっていた。


「被害者の会の連中も、民事で損害賠償請求を起こすって息巻いてる。出所しても、借金地獄は確定だ。一生、陽の当たる場所には戻れないだろうよ」

「そうか……」


俺は空を見上げた。突き抜けるような青空だ。

高田への怒りはもうない。ただ、因果応報という言葉の意味を、しみじみと噛み締めているだけだ。


「玲奈ちゃんの方はどうだ? 気になるか?」


洋介が少し意地悪そうに聞いてくる。


「いや、全く。噂では聞いたけどな」

「まあ、悲惨なもんらしいぞ。実家にも勘当されて、今は夜の店で働いてるって噂もある。ま、自業自得だけどな」

「そうだな。彼女が選んだ道だ」


俺はコーヒーを飲み干し、空き缶をゴミ箱に投げ入れた。

カラン、という乾いた音が、過去との決別を告げる合図のように響いた。


「ありがとな、洋介。お前がいなかったら、俺は泣き寝入りしてたかもしれない」

「よせよ。俺は面白いもん見せてもらっただけだ。それに、お前のそのスッキリした顔が見られただけで十分だ」


洋介は笑って俺の背中を叩いた。


「さて、俺はこれからゼミだ。お前は? 今日は大事な用事があるんだろ?」

「ああ。……待ち合わせがあるんだ」

「ヒューッ! 隅に置けないねえ。大事にしろよ、今度は」

「分かってるよ。行ってくる」


俺は洋介に手を振り、キャンパスの出口へと向かった。

足取りは軽い。

胸の奥にあった黒い澱みは完全に消え去り、今はただ、新しい予感に胸を躍らせている自分がいた。


待ち合わせ場所は、駅前の時計台広場。

人混みの中で、一人の女性がちょこんと立っているのが見えた。

淡いピンク色のコートに、白いマフラー。春の訪れを告げるような装いだ。


一ノ瀬舞。

俺の妹の友人で、俺が人間不信のどん底にいた時に、そっと手を差し伸べてくれた女性。


「あ、先輩! こっちです!」


俺の姿を見つけるなり、彼女はパッと顔を輝かせ、小さく手を振った。

その屈託のない笑顔を見ると、俺の心拍数が自然と上がるのが分かる。

玲奈の時のような、見栄や緊張感のあるドキドキではない。もっと穏やかで、日向ぼっこをしているような温かい高揚感だ。


「待った? ごめん、少し遅れたかな」

「ううん、全然! 私も今着いたところです。……ふふ、先輩、そのジャケット似合ってますね」

「そうかな? 妹に選んでもらったんだけど」

「美緒ちゃん、センスいいですからね。でも、先輩が着てるからかっこいいんですよ」


舞はサラリと照れるようなことを言って、ふふっと笑った。

俺は少し顔が熱くなるのを感じながら、彼女の隣に並んだ。


「じゃあ、行こうか。映画の時間、まだあるし、少し歩こう」

「はい!」


俺たちは並んで歩き出した。

以前の俺なら、女性と歩く時に無意識に距離を測っていた。「何を話せば喜ぶか」「どんな店なら文句を言われないか」。玲奈との付き合いで染み付いた、顔色を窺う癖だ。

だが、舞といる時はそんなことを考える必要がない。沈黙さえも心地よいと感じられる。


「あ、先輩見てください! クレープ屋さん、新しいメニュー出てますよ」


舞がショーウィンドウを指差して目を輝かせる。

そこにあるのは、五百円程度のイチゴクレープだ。


「食べたい?」

「いいんですか? やったあ! 半分こしましょうね」


彼女は本当に嬉しそうに笑う。

高級フレンチやブランドバッグじゃなくても、こんな些細なことで幸せを感じられる。

俺が求めていたのは、こういう「普通」の幸せだったんだ。


クレープを買い、ベンチに座って二人で食べる。

甘いクリームの味と、彼女の笑顔。

俺の中に残っていた最後の氷が、完全に溶けていく音がした。


「ねえ、一ノ瀬さん」

「はい? あ、舞でいいですよ。先輩」

「じゃあ、舞ちゃん。……俺さ、少し前まで、もう恋愛なんて懲り懲りだと思ってたんだ」


俺の言葉に、舞は食べる手を止めて、真剣な眼差しをこちらに向けた。

彼女は俺の過去を知っている。玲奈との一件も、全て妹から聞いているはずだ。それでも、彼女は俺のそばにいてくれた。


「人を信じるのが怖かった。また裏切られるんじゃないか、また馬鹿にされるんじゃないかって」

「……はい」

「でも、舞ちゃんといると、そういう怖さがなくなるんだ。君は俺を『スペック』や『条件』で見たりしない。ただの俺を見てくれる」


俺は深呼吸をして、彼女の目を見つめた。


「俺は、君のことが好きだ。もし良かったら、俺と付き合ってくれないか?」


ストレートな言葉だった。

駆け引きも、格好つけた台詞もない。ただの素直な気持ち。


舞の瞳が大きく揺れ、やがてじわりと涙が滲んだ。

彼女は食べかけのクレープを持ったまま、何度も頷いた。


「……はい。私でよかったら、ぜひ! 私も、ずっと先輩のこと……翔太さんのこと、見てましたから」


彼女の頬を涙が伝う。それは悲しみの涙ではなく、喜びの涙だ。

俺はポケットからハンカチを取り出し、彼女の涙を拭った。


「ありがとう。これからは、絶対に泣かせたりしないよ」

「ふふ、もう泣かせてますよ。嬉し泣きですけど」


二人は顔を見合わせて笑った。

春の風が吹き抜け、桜並木から数枚の花びらが舞い落ちてくる。

俺は自然と彼女の手を握った。彼女も優しく握り返してくれた。

その手の温もりは、確かで、柔らかく、俺の心を満たしてくれた。


その時、俺のスマホがポケットの中で短く震えた。

一瞬、ビクリとしたが、俺はすぐに画面を確認した。

『詐欺撲滅・注意喚起アカウント』からの通知だ。


『速報:高田裕也容疑者、余罪の追求により再逮捕。被害者の会、集団訴訟へ』


画面に表示された文字を見て、俺は小さく息を吐いた。

これで完全に終わりだ。

過去の亡霊たちは、彼ら自身が作り出した牢獄の中に永遠に閉じ込められた。


俺はスマホの画面を消し、ポケットの奥深くにしまい込んだ。

もう、この画面に囚われる必要はない。

目の前には、俺を信じ、俺が必要としている大切な人がいるのだから。


「行こうか、舞ちゃん」

「はい、翔太さん!」


俺たちは手を繋ぎ、歩き出した。

目指す先は映画館。そしてその先には、穏やかで幸せな未来が待っている。


俺の復讐劇は終わった。

そして、俺の人生という物語の、本当のプロローグが今、幕を開けたのだ。


街の喧騒の中で、俺は強く握り返された手の感触を確かめながら、これ以上ないほどの幸福感に包まれていた。

空はどこまでも青く、世界は美しかった。


「ざまあみろ」という言葉は、もう必要ない。

俺が幸せになること。

それが、あの二人に対する、最高で最後の復讐なのだから。

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