第五話 崩壊する日常

ビジネスホテルのカーテンの隙間から、鋭い朝の日差しが差し込んでいた。

俺、相沢翔太は、清潔だがどこか殺風景なベッドの上で目を覚ました。昨夜は興奮していたせいか熟睡できなかったが、不思議と頭は冴え渡っている。体の節々に残る倦怠感すら、大きな仕事を成し遂げた後の心地よい疲労感のように感じられた。


スマホを手に取り、画面を確認する。午前八時。

通常なら、通勤ラッシュに揉まれて会社に向かう時間だ。だが、今の俺は大学生であり、今日は全休だ。そして何より、今日という日は俺にとっての「祝日」のようなものになるはずだった。


昨夜、俺が送信したメール。

宛先は「株式会社フロンティア・エージェンシー」の人事部長、およびコンプライアンス委員会。

件名は『貴社社員による不正行為(横領・詐欺)および就業規則違反に関する内部告発』。


添付ファイルには、高田裕也による経費の私的流用を示す裏帳簿のコピー(洋介がネットの海から掘り起こしたデータと、高田のSNS投稿日時との照合データ)、玲奈との不貞行為を記録した動画、そして玲奈に借金を強要した際の音声データが含まれている。


これらは爆弾だ。

一度爆発すれば、彼らの社会的な立場を木っ端微塵に吹き飛ばすだけの威力を持っている。


「さて、そろそろ出社時間か」


俺はベッドから起き上がり、ミネラルウォーターを喉に流し込んだ。

想像するだけで笑みが溢れてくる。

今頃、あのオフィスの空気は凍りついていることだろう。


***


同時刻、都内某所のオフィスビル。

「株式会社フロンティア・エージェンシー」のフロアには、異様な緊張感が漂っていた。


佐々木玲奈は、充血した目を伏せながら自分のデスクに向かった。昨夜は一睡もできなかった。翔太に追い出された後、ネットカフェの狭い個室で膝を抱えて過ごした。スマホの充電は切れかけており、高田に何度も連絡しようとしたが、指が震えてメッセージを送ることができなかった。


(大丈夫……きっと大丈夫)


玲奈は心の中で呪文のように繰り返した。

翔太は脅していただけだ。会社に通報なんて、そんな大それたことができるはずがない。彼はただの学生で、臆病で、私に未練があるはずだから。きっと今頃、後悔して「昨日は言い過ぎた」と謝ってくるのを待っているに違いない。


それに、私には裕也さんがいる。

彼がいれば、二百万の借金なんてすぐに返せる。彼は「未来への投資」と言ってくれた。私たちは運命共同体なのだから。


「……おい、あれ見たか?」

「マジかよ。あの高田さんが?」

「いやでも、証拠写真ヤバくない?」


周囲からヒソヒソという話し声が聞こえてくる。玲奈が顔を上げると、数人の社員がスマホを見ながらニヤニヤと、あるいは軽蔑の眼差しをこちらに向けていた。

視線が合うと、彼らは慌てて目を逸らし、また小声で話し始める。


(何? 私のメイク、変かな?)


不安になり、手鏡を取り出そうとしたその時だった。


「高田裕也、および佐々木玲奈」


フロア全体に響き渡るような低い声。

振り返ると、そこには人事部長の厳めしい顔があった。その後ろには、総務課長と、見慣れないスーツ姿の男――おそらく弁護士――が立っている。


「……はい」


玲奈は掠れた声で返事をした。

その少し向こうで、高田が気だるげに立ち上がるのが見えた。彼はまだ状況を理解していないのか、いつものようにポケットに手を突っ込み、不敵な笑みを浮かべている。


「何ですか、部長。朝から改まって。今からクライアントとの大事なミーティングがあるんですけど」

「ミーティングはキャンセルだ。先方には別の担当者を向かわせた」

「は? どういうことですか。俺の案件ですよ?」

「いいから来なさい。第一会議室だ」


部長の言葉には、有無を言わせない冷徹な響きがあった。

高田の表情が強張る。玲奈は心臓が口から飛び出しそうなほどの動悸を感じながら、震える足で彼らの後をついていった。


第一会議室。

そこは普段、重要な役員会議に使われる重厚な部屋だ。

長机の向こう側に部長たちが座り、手前側に高田と玲奈が並んで座らされた。まるで取調室のような配置だ。


「単刀直入に聞く」


部長は一枚のタブレットを机の上に滑らせた。


「この画像、および音声データについて説明してもらえるか」


高田が眉をひそめて画面を覗き込む。玲奈も恐る恐る視線を向けた。

そこに映っていたのは、昨夜翔太に見せられたあの箱根旅行の写真。そして、高田が玲奈に借金を唆している音声の書き起こしテキストだった。


「……ッ!」


玲奈は息を呑んだ。翔太は本気だったのだ。本当に、会社に送りつけたのだ。


「これは……何かの間違いです」


高田が引きつった笑顔で言った。額に脂汗が滲んでいる。


「間違い? 君の声紋と一致しているが」

「い、いや、これは悪質なディープフェイクです! 最近のAIは凄いですからね、俺の声を合成して陥れようとしてるんですよ。誰か、俺に恨みを持つ奴の仕業でしょう」

「ほう。では、こちらの帳簿データもAIの仕業か?」


部長はさらに別の資料を提示した。

それは、高田が接待費として計上していた領収書と、実際に彼が投稿していたSNSの日時・場所を照らし合わせたリストだった。

『クライアントと会食』として申請された銀座の寿司屋の日付。その同時刻、彼は玲奈とディズニーランドにいた写真が裏垢に投稿されていた。

『出張費』として申請された新幹線代。しかし、彼は実際には都内のホテルで別の女性と過ごしていた形跡がある。


「架空請求、私的流用、そして取引先への水増し請求によるキックバック。概算で一千万円を超えている。これについて、合理的な説明ができるか?」


高田の顔色が、土気色に変わった。

流暢だった弁舌が止まる。口をパクパクさせ、視線が泳ぐ。

横領。それは単なる社内規定違反では済まない。立派な犯罪だ。


「そ、それは……その……」

「高田くん。君は優秀な営業マンだと評価していたが、裏ではこんなことをしていたのか。会社の信用を何だと思っている」


部長の怒声が飛ぶ。

高田はガタガタと震え出した。そして、助けを求めるように隣の玲奈を見た。

玲奈は縋るような目で見つめ返した。助けて、裕也さん。私たち、運命共同体でしょう?


しかし、高田の口から出た言葉は、玲奈の耳を疑わせるものだった。


「ち、違います! 俺はハメられたんです! 全部、この女がやったんです!」

「……え?」


玲奈の声が裏返る。


「こいつが! 佐々木が、俺を誘惑してきたんです! 『お金が欲しい』『贅沢がしたい』ってしつこく迫ってきて……俺は断れなくて、仕方なく経費を少し融通してやっただけで……! 全部こいつの指示なんです!」

「な……何を言ってるの、裕也さん……?」

「黙れ! お前のせいで俺の人生めちゃくちゃだ! この借金だって、お前が勝手に作ったんだろ!? 俺の名前を勝手に使って!」


高田は席を立ち上がり、玲奈を指差して喚き散らした。

その醜悪な姿に、玲奈の頭の中が真っ白になった。

スマートで、優しくて、頼りがいのある先輩。私の憧れ。私の王子様。

その仮面が剥がれ落ち、下から出てきたのは、自分の保身のためなら恋人を平気で生贄にする、卑小で臆病な小男だった。


「座りなさい!」


部長が一喝する。


「見苦しいぞ、高田。往生際が悪い。佐々木くんが主犯なわけがないだろう。彼女の口座記録も提出されている。彼女は昨日、消費者金融から二百万円を借り入れ、その全額を君の指定した口座に振り込んでいる。彼女は搾取された側だ」

「ち、違います! 俺は被害者なんです! こいつに脅されて……」

「まだ言うか。音声データには『俺の独立のため』とはっきり残っている。それに、君には他にも余罪があるようだぞ」


弁護士の男が、スマホの画面を見せた。

そこには、Twotterのトレンド画面が表示されていた。

『#高田裕也_詐欺』『#フロンティアエージェンシー_横領』

そのハッシュタグと共に、高田の顔写真と、彼に騙されたという複数の女性たちの証言が拡散されていた。


「今朝から、会社への問い合わせが殺到している。『お宅の社員に金を騙し取られた』『結婚詐欺にあった』とな。被害者の会まで結成されているようだ。これがどういうことか分かるか? 君はもう、社会的に終わっているんだよ」


その言葉を聞いた瞬間、高田は膝から崩れ落ちた。

床に手をつき、「あ、あ……」と意味のない音を漏らす。失禁しているのか、股間が濡れていくのが見えた。


玲奈は、その光景を呆然と見ていた。

これが、私が全てを捨てて選んだ男の末路?

翔太を裏切り、傷つけ、見下してまで手に入れたかった未来が、これ?


「佐々木くん」


部長が静かに玲奈を見た。


「君も同罪だ。社内不倫による風紀の乱れ、および会社の信用失墜に関与した責任は重い。何より、彼の不正を知りながら報告せず、むしろ資金を提供して加担した点は見過ごせない」

「わ、私は……信じてただけで……」

「無知は罪だ。社会人なら、自分の行動の責任は自分で取るべきだろう」


冷たい宣告。

クビだ。解雇される。

二百万円の借金が残り、職を失い、住む場所もなく、頼れる人もいない。

実家に帰れば親に勘当されるだろう。友人たちも、今回の騒動を知れば離れていくに違いない。


「翔太……」


無意識に、元彼の名前を呟いていた。

彼なら、助けてくれたかもしれない。

私がピンチの時、いつも冷静に、でも優しく手を差し伸べてくれた彼なら。


でも、もう遅い。

「一生許さない」と言った彼の目は、本気だった。

彼は、こうなることを全て予期して、私に忠告してくれたのに。私はそれを「子供の戯言」だと嘲笑ったのだ。


「警察の方が到着しました」


総務課長が告げた。

会議室のドアが開き、制服警官と刑事が入ってくる。


「高田裕也さんですね。署まで同行願います」

「いやだ! 俺は悪くない! 全部嘘だ! やめてくれぇぇぇ!!」


高田が泣き叫びながら抵抗するが、刑事たちに取り押さえられ、手錠をかけられる。

その姿は、あまりにも惨めで、滑稽だった。


高田が連行された後、静まり返った会議室に玲奈だけが残された。


「佐々木くん。君への処分は追って通達する。それまでは自宅待機だ。……もっとも、居場所があればの話だが」


部長は冷たく言い捨て、部屋を出て行った。

広い会議室に一人。

窓の外には、いつもの東京の景色が広がっていた。

キラキラと輝くビル群。昨日までは、自分もあの一部になれると信じていた。

「こっち側の世界」に行けると。


でも今、ガラスに映る自分の顔は、化粧が崩れ、涙でドロドロになり、まるで老婆のように老け込んで見えた。


「う、うわぁぁぁぁぁぁん!!」


玲奈は机に突っ伏し、声を上げて泣いた。

後悔しても、時間は戻らない。

借金の利息は、明日も明後日も、確実に増え続けるのだ。


***


その日の夕方。

俺は大学近くのカフェバーで、洋介と祝杯を挙げていた。

OustaやTwotterは、まだ炎上し続けている。高田の悪事は次々と掘り起こされ、被害総額は三千万円近くに上ることが判明していた。

会社からは公式に「該当社員の懲戒解雇」と「法的措置の検討」が発表された。玲奈の名前こそ出ていないが、ネットの特定班によって彼女のアカウントも特定され、誹謗中傷の嵐に晒されている。


「いやー、壮観だねえ。悪党が転がり落ちていく様ってのは、どうしてこうも酒が進むのか」


洋介がビールのジョッキを揺らしながら、下世話な笑みを浮かべる。


「性格悪いぞ、洋介」

「お前に言われたくないね。全部お膳立てしたのはお前だろうが」

「俺は事実を提供しただけだ。彼らを裁いたのは、彼ら自身の過去の行いと、世間の目だよ」


俺はアイスコーヒーをストローでかき混ぜた。

高田は逮捕された。詐欺と横領。実刑は免れないだろう。刑務所を出たとしても、多額の賠償金と借金、そして前科者としてのレッテルが一生ついて回る。

玲奈も退職に追い込まれたと聞いた。二百万の借金を抱え、再就職も絶望的。風俗にでも落ちるか、あるいは夜逃げ同然で田舎に帰るか。

いずれにせよ、彼女の人生の「華やかな第一章」は、最悪のバッドエンドで幕を閉じたのだ。


「で、お前はどうするんだ? すっきりしたか?」


洋介が真面目な顔に戻って尋ねてきた。


「……ああ。憑き物が落ちたみたいだ」


正直な感想だった。

怒りも、憎しみも、もう感じない。

ただ、長いトンネルを抜けたような、静かな安堵感だけがある。


「あの二人には、感謝すらしてるよ」

「は? 感謝?」

「ああ。あいつらのおかげで、俺は自分が何を大切にすべきか、どんな人間になりたいか、よく分かったからな」


表面的なステータスや金、見栄。そんなもので着飾った人間がいかに脆く、醜いか。

誠実に生きること、人を裏切らないことの価値がいかに重いか。

高い授業料だったが、社会に出る前にそれを学べたのは収穫だったかもしれない。


「相変わらずのポジティブシンキングだな、お前は」

「これからは自分のために生きるさ。就職までの残り時間、有意義に使わないとな」


その時、カランコロンとドアベルが鳴り、新しい客が入ってきた。


「あ、いらっしゃいませー!」


店員の明るい声。

入ってきたのは、女性二人組だった。そのうちの一人が、ふとこちらを見て足を止めた。


「あれ? 相沢先輩?」


聞き覚えのある、鈴を転がしたような声。

振り返ると、そこには妹の高校時代の友人で、よく家に遊びに来ていた一ノ瀬舞(いちのせ まい)が立っていた。

清楚な白のワンピースに、薄いカーディガン。派手さはないが、清潔感があり、見ているだけで心が洗われるような雰囲気を持った子だ。


「……一ノ瀬さん? 久しぶりだね」

「やっぱり先輩だ! お久しぶりです! え、こんなところで会えるなんて」


彼女はパッと花が咲いたような笑顔を見せた。

その笑顔には、玲奈のような「計算」や「媚び」は一切ない。純粋な喜びだけが溢れていた。


「あ、もしよかったらご一緒してもいいですか? ちょうど席も空いてなさそうですし……」


彼女は少し遠慮がちに、頬を染めて提案してきた。

俺は洋介を見た。彼は「行けよ」と言わんばかりにニヤリと笑い、親指を立てた。


「……ああ、もちろん。俺たちで良ければ」


俺は椅子を引いて彼女を招き入れた。

舞が隣に座ると、ふわりと石鹸のような優しい香りがした。

玲奈のつけていた、鼻をつくような高級香水とは違う、自然で温かい香り。


「先輩、少し痩せました? 就活、大変だったんですか?」

「まあ、色々あってね。でも、もう終わったよ。全部ね」

「そうですか。お疲れ様でした! あ、私、先輩の話もっと聞きたいです」


彼女の瞳が、真っ直ぐに俺を映している。

そこには、俺という人間そのものへの興味と、好意の色が見えた。

「学生だから」とか「内定先がどこか」とか、そんな条件付きの評価ではない。ただの「相沢翔太」を見てくれている目だ。


俺の胸の奥で、凍りついていた何かがゆっくりと溶け出し、温かい血が通い始めるのを感じた。


テーブルの上で、俺のスマホがブブッと震えた。

画面には『Mine新着メッセージ:玲奈』の文字。

通知バーに表示された文章は、『ごめんなさい、助けて、死にたくない』という悲痛な叫びだった。


俺は迷わず、その通知をスワイプして消去した。

そして、設定画面を開き、彼女のアカウントを「ブロック」リストに入れた。


これで、本当に終わりだ。


俺は顔を上げ、隣でメニューを見ている舞に話しかけた。


「ねえ、一ノ瀬さん」

「はい?」

「この店のオムライス、美味しいんだ。良かったら一緒に食べない?」

「え、いいんですか? 嬉しい! 私、オムライス大好きなんです!」


彼女が笑う。俺もつられて笑う。

窓の外、空は茜色から群青色へと変わり始めていた。

夜が明ければ、また新しい朝が来る。

俺の人生の、本当の第一章は、ここから始まるのだ。

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