第四話 最後の晩餐

決戦の金曜日。俺の部屋には、食欲をそそる香ばしい匂いが漂っていた。

キッチンでフライパンを揺する俺の手つきは、いつになく軽やかだった。ジュウジュウと音を立てて焼けているのは、合い挽き肉を使ったハンバーグだ。デミグラスソースの濃厚な香りが鼻腔をくすぐる。


これは、玲奈の好物だ。

付き合い始めた当初、俺が初めて手料理を振る舞った時に「お店のより美味しい!」と目を輝かせて食べてくれたメニュー。それ以来、記念日や彼女が落ち込んでいる時には必ず作ってきた、俺たちの思い出の味だ。


だが今夜、この料理が持つ意味は全く異なる。

これは「最後の晩餐」だ。

裏切り者への手向けであり、俺たちの三年間の関係に終止符を打つための、儀式のようなものだった。


ピンポーン。


インターホンが鳴る。約束の十九時きっかりだ。

俺は火を止め、手を拭いてから玄関へ向かった。ドアスコープを覗く必要はない。そこに立っているのが誰か、俺は痛いほど知っている。


「おかえり、玲奈」


ドアを開け、俺はいつも通りの笑顔で彼女を迎えた。


「ただいま、翔太。……うわあ、いい匂い! 今日ハンバーグ?」


玲奈は玄関に入ってくるなり、鼻をクンクンと鳴らした。その表情は明るいが、どこか作り物めいている。目の下にはコンシーラーで隠しきれないクマがあり、視線はわずかに泳いでいる。


「うん。久しぶりに食べたがってたと思ってさ。仕事、お疲れ様」

「ありがとー。もう、今週は本当に地獄だったよ。あ、これ、コンビニで買ってきたビール。今日は飲まないとやってられない!」


彼女はビニール袋を掲げて見せた。その仕草の端々に、微細な焦燥感が見て取れる。

無理もない。俺と洋介の調査によれば、彼女は今日、午後半休を使って消費者金融の無人契約機に入っていったはずだ。そしてその足で銀行へ行き、指定された口座――高田が用意した借名口座へ、二百万円を振り込んだことが確認されている。


人生初の借金。それも、恋人には内緒で作った多額の負債。

平気な顔をしていられるはずがない。彼女のハイテンションは、不安を押し殺すための空元気だ。


リビングに入り、彼女はソファにバッグを放り投げた。そのバッグは、高田から貰った(と思い込んでいる)あのブランド物だ。


「さ、ご飯にしよ! お腹ペコペコなんだ」

「ああ、すぐ出すよ。座ってて」


俺はキッチンに戻り、皿に盛り付けを始めた。

ふっくらと焼けたハンバーグに、艶やかなデミグラスソースをかける。付け合わせのポテトとブロッコリー。完璧な見た目だ。

この温かい家庭料理と、彼女が今日犯した冷たい過ち。そのコントラストが、俺の復讐心を静かに、しかし激しく燃え上がらせる。


「はい、お待たせ」

「わあ、美味しそう! いただきまーす!」


テーブルに向かい合って座る。玲奈はビールを開け、喉を鳴らして飲んだ。そしてハンバーグを口に運び、「んんー! 最高!」と声を上げた。


「翔太のハンバーグ、やっぱ世界一だよ。胃袋掴まれるってこういうことだよね」

「そう言ってもらえると嬉しいよ。……でも、最近はもっといいもの食べてるんじゃないの?」


俺は何気なく尋ねた。ナイフとフォークを動かす手が、一瞬だけ止まるのを見逃さなかった。


「え? ……そ、そんなことないよ。会社の飲み会とかは居酒屋ばっかりだし。やっぱり家庭料理が一番落ち着くよ」

「そっか。良かった」


嘘だ。

お前は先週、箱根の高級旅館で懐石料理を食い、昨日は高田とフレンチに行っていたはずだ。SNSの裏垢には『やっぱり一流の味は違う。舌が肥えちゃう(笑)』なんて書いていたくせに。


俺は淡々と食事を進めた。玲奈は饒舌だった。今週の仕事がいかに大変だったか、上司がいかに無能か、そして「信頼できる先輩」がいかに自分を支えてくれているか。

その「先輩」のために今日借金をしてきたことなど、おくびにも出さない。


「……でね、その先輩が言うの。『君には無限の可能性がある』って。私、もっと頑張ろうって思ったんだ」


ビールのおかげか、玲奈の頬は赤く染まり、口調は熱を帯びていた。

俺は静かに箸を置き、彼女の目を真っ直ぐに見つめた。


「玲奈」

「ん? 何?」

「大事な話があるんだ」


俺の声のトーンが変わったことに気づいたのか、玲奈はキョトンとした顔でグラスを置いた。


「え、何? 改まって。……もしかして、就職祝いのおねだり?」


茶化すように笑う彼女に対し、俺は表情を崩さなかった。

テーブルの下から、一冊のクリアファイルを取り出す。厚みのある、黒いファイルだ。

それをテーブルの中央、食べ終わった皿の横に置いた。


「……何これ?」

「開けてみて」


玲奈は怪訝そうな顔でファイルに手を伸ばした。

表紙をめくる。

一枚目に入っているのは、先週の箱根旅行の写真だ。旅館の入り口で、高田と腕を組んで笑っている玲奈の姿。そして、チェックインカウンターで身を寄せ合っている鮮明なショット。


「え……?」


玲奈の動きが止まった。

時が止まったかのように、彼女は写真を見つめたまま硬直した。

顔から血の気が引いていくのが分かる。赤らんでいた頬が、みるみるうちに蒼白になっていく。


「何これ……どういうこと……?」


震える声で彼女が呟く。


「先週の金曜日だね。『会社の研修』って言ってた日だ。随分と楽しそうな研修だね、箱根の温泉旅館で」


俺は冷静に追い打ちをかける。

玲奈は慌ててページをめくった。

次に出てきたのは、Mineのトーク画面のスクリーンショットだ。俺が最初に見た『肌がすべすべで気持ちよかった』という高田からのメッセージから、二人が交わした卑猥なやり取り、そして俺を『ガキっぽい』と嘲笑する会話の数々。


「なんで……翔太、スマホ見たの!?」


玲奈が顔を上げ、俺を睨みつけた。

驚きよりも先に、怒りが来たか。予想通りの反応だ。自分の罪が露見した時、人はまず「プライバシーの侵害」を盾にして攻撃に転じる。


「見たよ。通知が来てたからね。でも、それだけじゃない」


俺は顎でファイルをしゃくった。

玲奈は指を震わせながら、さらにページをめくる。

今度は、高田の裏垢の投稿と、ネットから拾ってきた画像の比較検証資料だ。そして最後に、高田の被害者の会が集めた、詐欺の手口と被害額のリスト。


「……嘘。何これ、全部嘘だよ!」


玲奈が叫び、ファイルをテーブルに叩きつけた。


「あの写真は合成でしょ!? それに、このリストだって……裕也さんがそんなことするわけない! 彼は優秀なビジネスマンなのよ!」

「裕也さん、か」


俺は冷ややかに笑った。


「名前で呼ぶくらい親密なんだね。合成じゃないよ、玲奈。その写真は俺と洋介が現地に行って撮ったものだ。動画もあるけど、見る?」


スマホを取り出し、画面を向ける。

旅館の前で、高田にキスをする玲奈の動画。再生ボタンを押すと、幸せそうな二人の姿が動き出した。

玲奈は言葉を失い、口をパクパクとさせた。


「……つけてたの? ストーカーみたい。気持ち悪い!」

「ストーカー? 自分の彼女が浮気してるかもしれないと思って事実確認をするのがストーカーか? お前が誠実だったら、俺だってこんなことしなかった」

「だって……だって翔太が子供っぽいから! 私の話全然聞いてくれないし、学生気分で頼りないし! だから……大人の余裕がある人に惹かれただけじゃない!」


開き直った。

自分の非を認めるどころか、俺のせいにしようとしている。

俺は深くため息をついた。


「大人の余裕、ねえ。……その男、ただの詐欺師だぞ」

「違う! 裕也さんは今、独立のために頑張ってるの! 一時的に資金繰りが苦しいだけで、成功すれば倍になって返ってくるのよ!」

「ああ、その『資金繰り』の話か」


俺はテーブルに肘をつき、指を組んだ。


「今日、借りてきたんだろ? 二百万」


その言葉が出た瞬間、玲奈の瞳が極限まで見開かれた。

呼吸が止まったかのような静寂が落ちる。

なぜ知っているのか。誰にも言っていないはずなのに。そんな恐怖が彼女の顔に張り付いている。


「な、なんで……」

「GPSだよ。お前のキャリーケースに入れておいた。今日、お前が消費者金融と銀行をハシゴしてたのは全部把握してる」

「さ、最低……! 犯罪じゃない!」

「お前らがやってることの方がよっぽど犯罪に近いけどな。いいか玲奈、目を覚ませ。高田の『独立』なんて話は全部嘘だ。あいつは会社の経費を使い込んで、その穴埋めにお前の金を使うつもりなんだよ。いや、もう使われた後か」

「嘘よ! 翔太は何も知らないくせに! 裕也さんは私を信じてくれたの! 二人の未来のために投資してって!」


玲奈は涙目になりながら叫ぶ。

洗脳に近い状態だ。自分が見下していた「子供の彼氏」の言うことよりも、「理想の王子様」の甘い言葉を信じたいのだ。認めてしまえば、自分が騙された愚かな女だと確定してしまうから。


「そうか。そこまで言うなら、もういいよ」


俺はすっと立ち上がった。


「別れよう、玲奈」


その言葉は、俺が思っていたよりもずっと軽く、そして清々しく響いた。


「……え?」

「当然だろ。浮気をして、俺を裏切って、詐欺師に入れ込んで借金まで作った。これ以上付き合う理由がどこにある?」

「ま、待ってよ。別れるなんて……そんな急に」


玲奈が慌てて俺の腕を掴もうとするが、俺は冷たく振り払った。


「急じゃない。お前が浮気を始めた半年前から、こうなることは決まってたんだ」

「でも……でも、嫌だよ! 私、翔太のこと嫌いになったわけじゃないの! ただ、ちょっと魔が差しただけで……」


どの口が言うのか。

散々俺を馬鹿にしておきながら、いざ捨てられるとなると縋り付く。その浅ましさに、吐き気がした。


「魔が差した? 違うな。お前は自分の意思で選んだんだ。高田という『キラキラした世界』を。なら、最後までそっちの世界で生きていけばいい」

「ごめんなさい、謝るから! もう会わないから! だから許して……!」


玲奈が泣き崩れる。だが、その涙は俺への愛からではない。自分の保身と、独りになる恐怖からの涙だ。


「許さないよ。一生な」


俺は冷酷に告げた。


「それと、この部屋の契約、来月で切るから」

「えっ!?」

「俺の名義だし、家賃も俺が多めに出してたよな。俺は実家に戻るか、別のところを借りる。お前は出て行ってくれ」

「そんな……私、行くところなんてないよ! 実家になんて帰れないし……」

「高田のところに行けばいいだろ? 『女神』なんだろ? きっと助けてくれるさ」


皮肉を込めて言うと、玲奈は絶望的な表情で首を横に振った。無意識のうちに理解しているのだ。高田が金のない女を相手にするような男ではないことを。


「あ、そうだ。最後に一つプレゼントがある」


俺はスマホを操作し、ある送信ボタンを押した。


「今、お前の会社の人事部とコンプライアンス室宛てにメールを送った」

「……は?」

「内容は、高田の経費流用の証拠と、お前との社内不倫の事実、そしてお前を利用した寸借詐欺の告発文だ。証拠データもたっぷり添付しておいたよ」


玲奈の口が半開きになり、全身がガタガタと震え出した。


「な、何して……会社にバレたら……私……」

「クビになるかもな。高田は確実にアウトだ。まあ、お前も共犯者みたいなもんだし、仲良く二人で責任を取りなよ」

「取り消して! 今すぐメール取り消してよ! お願い、人生終わっちゃう!」


玲奈が俺の足元に縋り付き、絶叫する。

だが、俺の心は氷のように冷たかった。


「終わらせたのはお前だ、玲奈。俺じゃない」


俺は彼女を見下ろした。

かつて愛した女の、見るも無惨な姿。

ブランドバッグも、香水も、メイクも、今の彼女を飾る役には立たない。ただの、借金を背負った惨めな裏切り者がそこにいるだけだ。


「今日はもう遅いから、俺が近くのホテルに泊まる。明日の朝までに荷物をまとめて出て行け。鍵はポストに入れておけよ」

「翔太、待って! 行かないで! 私、二百万どうやって返せばいいの!? ねえ!」

「知るかよ。高田に『投資』したんだろ? 配当が来るのを待ってればいいじゃないか」


俺はバッグを掴み、泣き叫ぶ玲奈を部屋に残して玄関を出た。

重い鉄の扉を閉める。

「翔太ーッ!!」という悲鳴のような叫び声が聞こえたが、鍵をかけるとそれも遠くなった。


廊下を歩き出す。

夜風が頬に当たる。

不思議なくらい、体が軽かった。

胸のつかえが取れ、呼吸がしやすい。


(終わった……いや、これからか)


俺の手元には、まだ切り札が残っている。

会社への通報は第一段階だ。これからは、Twotterでの拡散と、被害者の会との連携による法的措置が待っている。

玲奈と高田が味わう地獄は、まだ入り口に過ぎない。


俺はスマホを取り出し、洋介にMINEを送った。

『終わった。計画通りだ』


すぐに既読がつき、スタンプが返ってくる。親指を立てた「グッド」のスタンプ。


俺は夜空を見上げた。

都会の空には星は見えないが、俺の心には一点の曇りもない晴れやかな空が広がっていた。

ハンバーグの味はしなかったが、これからの人生で一番美味い酒が飲めそうな気がした。


「さようなら、玲奈。元気でな」


俺は一度も振り返ることなく、エレベーターのボタンを押した。

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