第三話 騙される女、搾取する男

金曜日の朝、空は突き抜けるような青空だった。絶好の行楽日和だ。皮肉なことに、俺の心の中は台風の前のような重苦しい気圧に支配されていたが、表情だけは穏やかな彼氏を演じていた。


「じゃあ、行ってくるね! 研修所、山奥だから電波悪いかも。返信遅れたらごめんね」


玄関先でキャリーケースを引く玲奈は、まるで遠足に行く小学生のように浮き足立っていた。研修という名目にしては、彼女の服装は派手すぎる。オフショルダーのニットに、体のラインが出るタイトスカート。そして足元には、先日「仕事用」と言って新調したハイヒール。どう見ても、これからビジネスの研修を受ける人間の格好ではない。


「うん、気をつけて。無理しないでね」

「ありがとう! お土産買ってくるから楽しみにしてて」


玲奈は満面の笑みで俺に手を振り、マンションの廊下をカツカツとヒールを鳴らして去っていった。その背中を見送りながら、俺は胸ポケットに入れたスマホを強く握りしめた。


お土産、か。

彼女が持ち帰ってくるのは、温泉饅頭なんかじゃない。俺への裏切りという名の最悪の土産だ。そして俺が彼女に用意しているのは、破滅という名の最高のギフトだ。


玲奈の姿が見えなくなると、俺はすぐに部屋に戻り、準備していた機材をバッグに詰め込んだ。黒いキャップを目深に被り、マスクをする。変装としてはベタだが、遠目には誰だか分からないだろう。


マンションの下に降りると、見慣れたシルバーの軽自動車が停まっていた。助手席の窓が開き、洋介がニヤリと笑う。


「よお、探偵さん。準備はいいか?」

「ああ。頼む」


俺が乗り込むと同時に、洋介はアクセルを踏み込んだ。


「GPSの反応は?」


俺は手元のタブレットを確認する。画面上の地図には、赤い点が一つ、点滅しながら移動している。

玲奈が持っていったキャリーケース。その内張りの隙間に、俺は昨晩、コインサイズの高性能GPSロガーを忍ばせておいた。充電は一週間持つタイプだ。


「今は高速に乗ったな。方向からすると……箱根か、熱海あたりか」

「研修所が温泉地にあるなんて、ホワイト企業だなあ」


洋介が皮肉っぽく笑う。


「ああ、真っ黒な目的のためのな」


車内には重苦しい空気が流れるはずだったが、洋介の軽口と、これから真実を暴くという高揚感が、不思議と俺の心を落ち着かせていた。


二時間後。

予想通り、GPSの信号は箱根の高級温泉旅館で停止した。

俺たちは少し離れたコインパーキングに車を停め、徒歩で旅館の入り口が見える位置まで移動した。観光客で賑わう通りだが、平日の昼間ということもあり、若いカップルは目立つ。


「いたぞ」


洋介が小声で鋭く言った。

旅館のエントランス。そこに、タクシーから降り立つ二人の男女がいた。

一人は玲奈。そしてもう一人は、写真で見た通りの男、高田裕也だ。


実物の高田は、写真よりもさらに胡散臭かった。

季節外れに日焼けした肌、テカテカ光る整髪料で固めた髪。イタリア製の高級スーツを着崩しているが、サイズが合っていないのか、どこか安っぽく見える。手首にはギラギラと主張する金色の腕時計。


「うわぁ……あんなのがいいのかよ。趣味悪いな」


洋介が顔をしかめる。俺も同感だった。だが、玲奈はその男の腕に自分の腕を絡ませ、幸せそうに上目遣いで何かを囁いている。

その光景を見た瞬間、俺の中で何かが冷たく凍りついた。


カシャ、カシャ。


俺は望遠レンズ付きのカメラで、二人が腕を組んで旅館に入っていく姿を連写した。顔がはっきりと写っている。これだけでも不貞の証拠としては十分だが、俺たちの目的はそれだけじゃない。


「チェックインしたな。部屋までは追えないが、夕食時がチャンスだ」


俺たちは近くの喫茶店に入り、作戦を練り直すことにした。

洋介がノートパソコンを開く。


「移動中に調べたんだけどさ、高田の被害者の会の人から返信が来たぞ」


洋介が見せてくれた画面には、TwotterのDM画面が表示されていた。相手は『S』という匿名のアカウントだ。


『突然のご連絡失礼します。高田裕也について情報を集めているとのことですが、私は彼に三百万円騙し取られました。手口はいつも同じです。最初は羽振りの良さを見せて安心させ、肉体関係を持った後に「起業の資金が足りない」「会社のトラブルで口座が凍結された」と言って金を借ります。借用書は作ってくれません』


文面を読み進めるにつれて、俺の拳に力が入る。


『彼は、相手の女性のクレジットカードを作らせてキャッシングさせたり、消費者金融に行かせたりもします。「二人の将来のためだ」「すぐに倍にして返す」という甘い言葉を信じないでください』


「……完全にクロだな」


俺は低い声で唸った。


「ああ。しかも、こいつの言う『会社のトラブル』ってのも怪しい。裏で会社の経費を使い込んでるって噂もある。多分、その穴埋めを女たちにさせてるんじゃないか?」


洋介の推測は的を射ている気がした。

高田は、ただの女好きの浮気男ではない。女性を食い物にする寄生虫だ。そして今、その標的になっているのが玲奈だ。


「玲奈は、まだ金を貸してないと思うか?」

「分からない。だが、あのバッグや最近の羽振りの良さを見るに、まだ『餌付け』の段階かもしれない。もしそうなら、今回の旅行が『収穫』のタイミングだろうな」


俺は窓の外、旅館の方角を睨みつけた。

玲奈、お前は本当に馬鹿だ。

俺を裏切って選んだ相手が、こんな男だなんて。


「夕食の時間まで待機だ。奴らが動き出したら、俺たちも動く」


日が傾き、温泉街に灯りがともり始める頃、俺たちは再び旅館の近くに潜んでいた。

高級旅館といっても、夕食後に外へ飲みに出る客は多い。高田のような見栄っ張りな男なら、旅館の懐石料理だけでは満足せず、近くの洒落たバーにでも繰り出すはずだ。


読みは当たった。

午後八時過ぎ。浴衣姿ではなく、再び私服に着替えた二人が旅館から出てきた。

玲奈は頬を赤らめ、少し千鳥足だ。すでに部屋で酒を飲んだのだろう。高田はそんな玲奈の腰に手を回し、エスコートするふりをして体を密着させている。


二人は、少し奥まった路地にある隠れ家風のダイニングバーに入っていった。

俺たちも少し時間を置いてから入店する。店内は薄暗く、ジャズが流れている。幸い、ボックス席が多く、顔を合わせずに近くの席を確保できそうだ。

二人が通されたのは、窓際の半個室のような席。俺たちはそのすぐ裏手の席に陣取った。背もたれが高く、こちらの姿は見えないが、声はよく聞こえる。


俺はバッグから高性能のICレコーダーを取り出し、隙間から二人の席に向けてセットした。さらに、スマホの録音アプリも起動する。


「高田先輩、このお店素敵ですね! さすが先輩、詳しい!」


玲奈の甲高い声が聞こえる。完全に酔っ払っている。


「だろ? ここのオーナーとは古い付き合いでさ。東京からわざわざ通ってるんだ」


高田の声は、聞いていて虫唾が走るほど気取っていた。オーナーと知り合い? 嘘に決まっている。入店した時、店員はマニュアル通りの対応しかしていなかった。


グラスがぶつかる音がして、乾杯の合図。

しばらくは他愛のない会話が続いた。会社の愚痴、上司の悪口、そして玲奈の仕事ぶりを褒めちぎる高田の言葉。


「玲奈ちゃんは本当に筋がいいよ。今の部署じゃ才能を持て余してる。俺が独立したら、一番に引き抜きたいな」

「えっ、本当ですか!? 嬉しい……私、先輩についていきます!」

「ああ。俺たちなら、もっと大きなことができる。世界を変えられるよ」


薄っぺらい夢物語に、玲奈は心酔しきって相槌を打っている。

そして、酒が進み、空気が緩んだタイミングで、高田が切り出した。


「実はさ……玲奈ちゃんにだけ、話しておきたいことがあるんだ」


声のトーンが下がる。演技がかった深刻な声音だ。


「え、何ですか? 改まって」

「俺の独立の話なんだけど……実は、ちょっとしたトラブルがあってね。前の共同経営者に裏切られて、資金を一時的に持ち逃げされちゃったんだ」


出た。DMにあった通りの手口だ。俺は洋介と顔を見合わせ、息を殺した。


「えっ、大丈夫なんですか!?」

「うん、弁護士を入れてるから取り戻せるのは確実なんだけど、時間がかかるんだ。でも、今動いているプロジェクトの着手金が、来週までにどうしても必要でさ……」


高田は大きなため息をついた。


「このままだと、俺の夢が潰えちゃうんだ。玲奈ちゃんと一緒に作るはずの未来も……」

「そんな……私に何かできることはありませんか?」


玲奈の声が震えている。焦りと、彼を助けたいという使命感が混ざった声だ。


「いや、玲奈ちゃんに迷惑はかけられないよ。俺一人でなんとかする。……たとえ、闇金に手を出してでも」

「闇金!? ダメです、そんなの危ないです!」

「でも、銀行の融資は時間がかかるし、カードも限度額がいっぱいで……あと二百万、二百万あれば、全てがうまくいくのに」


二百万。大学生や新社会人にとっては大金だが、人生が終わるほどの額ではない。絶妙な設定だ。


沈黙が落ちる。玲奈が迷っているのが気配で分かる。


「……私、貯金そんなにないし……」

「分かってる。玲奈ちゃんのお金を使おうなんて思ってない。ただ……信用、かな」

「信用?」

「玲奈ちゃんの名義で、一時的に借りることはできないかな? もちろん、返済は俺がやる。来月には資金が戻ってくるから、利子をつけて一括で返すよ。絶対に迷惑はかけない」

「え、でも……借金なんて……」

「借金じゃないよ、投資だ。二人の未来への投資。俺のこと、信じられない?」


高田の声が、甘く、絡みつくように低くなる。


「信じてます! でも……」

「玲奈ちゃん。俺はね、君とならどんな困難も乗り越えられると思ってる。これは二人で乗り越える最初の試練なんだ。それとも、あの学生の彼氏みたいに、リスクを恐れて何もしないまま終わる人生がいい?」


ここで俺を引き合いに出すか。

俺の心臓がドクリと鳴った。怒りではない。呆れと、そして確信だ。

玲奈は、この言葉で落ちる。


「……分かりました。私、先輩の力になりたいです」


予想通りの答えだった。

「学生の彼氏とは違う」という優越感。そして「悲劇のヒーローを救うヒロイン」という役割に酔った彼女は、自ら地獄への片道切符を掴み取ったのだ。


「ありがとう、玲奈ちゃん! 愛してるよ。君こそが俺の女神だ」

「私も……愛してます、裕也さん」


チュッ、というリップ音が聞こえる。

俺は静かにICレコーダーの停止ボタンを押した。

決定的な証拠が取れた。不貞行為の証拠だけでなく、詐欺未遂、あるいは恐喝に近いやり取りの一部始終。


「……行こうか」


俺は洋介に目配せし、音を立てないように席を立った。

会計を済ませ、店を出る。夜風が火照った体に冷たく突き刺さる。


「撮れたな、バッチリ」


洋介が興奮気味に囁く。


「ああ。これで言い逃れはできない。不倫だけなら民事だが、詐欺となれば刑事事件だ。会社もただじゃ済まない」

「しかし、玲奈ちゃんもチョロいな……。あんな古典的な手口に引っかかるなんて」

「彼女は『特別』になりたがっていたからな。その欲望をうまく利用されたんだ」


俺たちは駐車場に戻り、車に乗り込んだ。

エンジンをかけ、東京への帰路につく。

助手席で流れる夜の景色を見ながら、俺は目を閉じた。


玲奈を救いたいという気持ちは、もう完全に消え失せていた。

今の彼女は、被害者であると同時に、俺を裏切った加害者であり、そして詐欺師の共犯者になろうとしている愚者だ。


二百万を借りさせる? させればいい。

その借金は、彼女が背負うべき「勉強代」だ。

社会は甘くない。学生の俺を見下していた彼女に、本当の社会の厳しさ――信じた相手に骨までしゃぶられる恐怖を、身を持って知ってもらおう。


「翔太、これからどうする? すぐに通報するか?」


運転席の洋介が尋ねる。


「いや、まだだ。泳がせる」


俺は冷徹に答えた。


「え? なんでだよ。早くしないと、玲奈ちゃんが借金しちまうぞ」

「借金契約が成立してからの方が、高田の罪は重くなる。それに、俺が別れを切り出す時に、借金の事実があった方が、玲奈も俺にすがりついてくる余裕がなくなるだろう」

「お前……鬼だな」

「鬼になったのは、あいつらだ」


俺はスマホを取り出し、Oustaの裏垢を開いた。

数分前に投稿されたばかりの写真がある。

バーのカクテルグラス越しに、高田の手が写っている写真。

キャプションにはこう書かれていた。


『二人で大きな夢を叶える約束。彼を支えられるのは私しかいない。覚悟決めた! #運命の人 #新しい人生』


新しい人生か。

ああ、その通りだ。お前の人生は、これから劇的に変わる。

ただし、お前が思い描いているようなキラキラしたものではなく、泥沼のような借金と、社会的信用の喪失に塗れた人生にね。


「来週の金曜日だ」


俺は呟いた。


「え?」

「来週の金曜日、あいつが借金の手続きを終えた頃を見計らって、最後の晩餐を開く。そこで全てを終わらせる」

「分かった。それまでに、俺の方でも高田の会社の裏帳簿とか、もう少し探ってみるよ。ここまで来たら、徹底的にやろうぜ」

「ああ。頼む」


車は深夜の高速道路を疾走する。

俺の心は、かつてないほど澄み渡っていた。

迷いはない。情けもない。

あるのは、執行の日を待つ死神のような、静かな使命感だけだった。


玲奈、楽しんでおけよ。

その「大人の恋愛」ごっことやらを。

エンドロールは、もうすぐそこまで来ているんだから。

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