第二話 調査開始と黒い実態
翌朝、俺は重い瞼をこすりながら目を覚ました。隣で寝ていたはずの玲奈の姿はもうない。リビングの方から、ドライヤーの音が微かに聞こえてくる。俺はベッドの上で大きく伸びをし、昨夜の出来事が夢ではなかったことを再確認した。
胸の奥に鉛が詰まったような重苦しさがある。だが、不思議と頭の中は澄み渡っていた。昨夜、高田という男からの通知を見た瞬間に沸き上がった激情は、一晩寝かせたことで冷たく硬質な決意へと変質していた。
リビングに行くと、玲奈はすでにメイクを終え、鏡の前で念入りに髪を整えていた。
「あ、翔太おはよ。ごめんね、起こしちゃった?」
「ううん、大丈夫。今日、早いんだね」
「うん、休日出勤だからね。クライアントとの打ち合わせが朝イチであるの」
玲奈はくるりと振り返り、小悪魔的な笑みを浮かべた。その表情には、一点の曇りもない。嘘をついているという罪悪感すら感じていないのだろうか。それとも、社会人としての「演技力」が向上したとでも思っているのだろうか。
「そっか。大変だね、休みの日まで」
俺は冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、コップに注ぎながら平静を装って答えた。
「本当だよー。でも、これも将来のためだしね。高田先輩も来るって言ってたし、頑張らなきゃ」
また出た。高田先輩。
昨夜のMINEの通知が脳裏をよぎる。『玲奈の肌、マジですべすべで気持ちよかった』。その言葉が反芻されるたびに、胃のあたりが焼けるように熱くなる。だが、俺は水を一気に飲み干し、その熱を無理やり鎮火させた。
「行ってきます。翔太も、ゼミの資料作り頑張ってね」
玲奈は俺の頬に軽くキスをし、慌ただしく玄関を出て行った。
バタン、という扉の閉まる音が、俺と彼女の世界を隔てる境界線のように響いた。
俺は洗面所で顔を洗い、鏡の中の自分と対峙した。目の下に薄くクマができている。
「さて、始めるか」
俺はスマホを取り出し、一件の連絡先に電話をかけた。呼び出し音が三回鳴ったところで、眠たげな声が応答した。
「……もしもし? 翔太? 朝っぱらからなんだよ、珍しいな」
「悪い、洋介。今から会えないか。重要な話があるんだ」
電話の相手は、大学の親友であり、情報工学部の三島洋介だ。ネットリテラシーが高く、情報の収集・分析に関してはプロ顔負けのスキルを持っている。俺が唯一、腹を割って話せる相手だ。
「重要って……まさか、内定取り消しとかじゃないだろうな」
「違う。もっと個人的で、厄介な話だ」
俺の声音の深刻さを察知したのか、洋介の声から眠気が消えた。
「分かった。いつものカフェでいいか? 一時間後に行く」
一時間後、大学近くのカフェの奥まった席で、俺は洋介と向かい合っていた。
休日の午前中ということもあり、店内はまばらだ。俺は周囲に人がいないことを確認してから、昨夜の出来事を淡々と話した。玲奈の態度の変化、怪しい行動、そして決定的だったスマホの通知内容について。
洋介は黙ってブラックコーヒーを啜りながら聞いていたが、俺が話し終えると、深くため息をつき、呆れたように天井を仰いだ。
「マジかよ……あの玲奈ちゃんがねえ。サークルの時はあんなに翔太一筋って感じだったのに」
「社会の荒波に揉まれて、価値観が変わったんだろうな。俺は『子供』に見えるらしい」
「子供はお前じゃなくて、向こうの方だろ。バレないと思ってるあたりが浅はかすぎる」
洋介はノートパソコンを開き、手慣れた様子でキーボードを叩き始めた。
「で、どうするんだ? ただ別れるだけじゃ腹の虫が治まらないって顔してるぞ」
「ああ。感情的に問い詰めてもシラを切られるだけだ。確実な証拠を集めて、相手が言い逃れできない状況を作りたい。それに……」
俺は言葉を切り、少し躊躇ってから続けた。
「相手の男、高田って奴についても調べたい。ただの浮気相手ならまだしも、なんか引っかかるんだ。玲奈の金遣いが荒くなってるのも、そいつの影響かもしれない」
「なるほどな。敵を知り己を知れば百戦危うからず、か。オーケー、協力するよ。友達の頼みだし、何よりそういうゲスな野郎は俺も大嫌いだ」
洋介はニヤリと笑い、俺に画面を向けた。
「まずは基本中の基本、SNSの特定からいこうか。玲奈ちゃん、Ousta(アウスタ)やってるよな?」
「ああ、本垢は知ってる。でも最近は更新頻度が減ってるんだ」
「そこが怪しいな。承認欲求の塊みたいなタイプが、急に発信をやめるわけがない。承認欲求の吐き出し口を別に作ったと考えるのが自然だ」
洋介の指が高速で動く。
玲奈の誕生日、あだ名、出身地、好きなブランド名。それらを組み合わせ、様々なパターンで検索をかけていく。
「本垢のフォロワー欄にはいない……となると、別垢か。最近フォローした怪しいアカウントを洗うか、あるいはハッシュタグ検索で……ビンゴ」
開始からわずか十分足らず。洋介が指差した画面には、鍵のかかっていない一つのアカウントが表示されていた。
ユーザー名は『R_Secret_Life』。プロフィール画像は顔を隠しているが、見覚えのある玲奈の後ろ姿だ。そして、投稿されている写真の数々に、俺は息を呑んだ。
「これ……全部、最近の写真か?」
そこには、俺の知らない玲奈の日常が赤裸々に綴られていた。
高級焼肉店の網の上で焼かれる肉。『先輩にご馳走になりました♡ #大人のデート #社会人最高』。
夜景の見えるバーでの乾杯写真。『学生くんには分からない世界。教えてくれてありがとう #秘密の関係』。
そして、昨日俺に見せびらかしていたあのブランドバッグの写真もあった。『仕事のご褒美! ……って彼氏には言ったけど、実は先輩からのプレゼント♡ 優しすぎて泣ける』。
「……ははっ」
乾いた笑いが漏れた。
俺があのバッグを褒めた時、彼女は「自分で買った」と誇らしげに言っていた。俺はそれを信じ、彼女の努力を認めようとした。だが実際は、不倫相手からの貢ぎ物を彼氏に見せつけ、優越感に浸っていただけだったのか。
「エグいな。これ、完全に翔太のこと馬鹿にしてるじゃん」
洋介が同情とも軽蔑ともつかない声で言う。
「ああ、そうだな。でも、これで確信が持てた。昨日の『飲み会』も嘘。今日の『休日出勤』も嘘だ」
俺の中で、玲奈に対する最後の情けのようなものが、音を立てて崩れ落ちていくのを感じた。怒りを通り越して、あまりの浅ましさに憐れみすら覚える。
「さて、次は本丸だ。この『先輩』のアカウントを特定する」
洋介は玲奈の裏垢のフォロワー欄を開いた。フォロワーは数人しかいない。その中に、『Y_Takada_FA』というアカウントがあった。FAは彼女の会社、フロンティア・エージェンシーの略だろう。
クリックすると、こちらは鍵がかかっていなかった。投稿数は多い。
俺たちはその内容を一つずつ確認していった。
一見すると、仕事のできるビジネスマンのアカウントだ。
『今月も目標達成。部下が育ってくれて嬉しい』
『クライアントと会食。銀座の鮨はやはり格別だ』
『週末は愛車でドライブ。リフレッシュも仕事のうち』
写真には高級時計、外車(のハンドル部分だけ)、高級料理が並んでいる。典型的な「成功者アピール」のアカウントだ。
「こいつが高田か……。胡散臭いな」
「ああ。なんか、違和感がある」
洋介が眉をひそめた。
「何が?」
「写真の画質とか、撮り方とかさ。これ、自分で撮ったやつじゃなくて、ネットから拾ってきた画像っぽくないか? 画質がバラバラだし」
洋介は高田の投稿画像を一枚保存し、Googleの画像検索にかけた。
数秒後、検索結果が表示される。
「ほら見ろ。この寿司の写真、有名なグルメブログからの転載だ。こっちの時計の写真も、海外の販売サイトからの拾い画」
俺は絶句した。
玲奈が憧れ、心酔している「優秀でリッチな高田先輩」。その正体は、ネットの画像を拾ってきて自分の生活のように偽装する、見栄っ張りの虚飾男だったのか。
「虚言癖か? それとも詐欺師か?」
「もっと調べてみる。Twotterの方でも名前検索してみるわ」
洋介はTwotterを開き、『高田裕也』『フロンティアエージェンシー 高田』などのワードで検索をかけた。
すると、検索結果の上位に不穏なツイートが並んだ。
『@Warning_Sagi 拡散希望。高田裕也という男に注意してください。結婚をちらつかせて金を借りたまま逃げます』
『株式会社フロンティア・エージェンシーの高田、寸借詐欺の常習犯です。被害者の会立ち上げ準備中』
『#高田裕也 #詐欺 #女性蔑視 複数の女性と同時に付き合って、貢がせては捨てるクズ』
画面をスクロールする手が止まらない。
出てくるわ出てくるわ、被害報告の山。
具体的な手口も書かれていた。「最初は高級なプレゼントで信用させ(実は別の女性から騙し取ったもの)、徐々に『起業資金が必要』『親の手術費』などの理由で金を無心する」というものだ。
俺の背筋に冷たいものが走った。
「おい、これ……玲奈が貰ったバッグも」
「十中八九、別の女から巻き上げたものか、あるいは偽物だろうな。で、玲奈ちゃんを信用させた後、骨の髄までしゃぶり尽くすつもりなんだろう」
俺は頭を抱えた。
玲奈は浮気をしているだけじゃない。詐欺師のカモにされ、犯罪の片棒を担がされかけているのかもしれない。あるいはもう、手遅れなのかもしれない。
「どうする、翔太? これはもう、ただの痴話喧嘩のレベルじゃないぞ。警察沙汰になってもおかしくない」
洋介の問いかけに、俺は少しの間、沈黙した。
玲奈を助けるべきか?
「お前の浮気相手は詐欺師だ」と教えてやれば、彼女は目を覚ますだろうか。
いや、今の彼女は高田に心酔しきっている。俺が何を言っても「嫉妬乙」「先輩を侮辱しないで」と反発するだけだろう。むしろ、俺の警告を高田に伝え、高田が証拠を隠滅して逃亡する可能性すらある。
それに、彼女は俺を裏切った。
俺の信頼を踏みにじり、見下し、あざ笑った事実は消えない。
詐欺師に騙されているからといって、彼女の罪が消えるわけではないのだ。
俺の中で、冷徹な計算式が弾き出された。
「……助けない」
俺は静かに言った。
「え?」
「今の玲奈に何を言っても無駄だ。それに、俺には彼女を助ける義理はもうない。彼女が選んだ道だ、最後まで責任を取ってもらう」
「お前……本気か?」
「ああ。ただし、黙って見過ごすわけじゃない。高田の悪事も、玲奈の裏切りも、全て白日の下に晒す。その上で、二人まとめて社会的に抹殺する」
俺の言葉に、洋介は少し驚いたような顔をしたが、すぐにニヤリと笑った。
「いいねえ、ゾクゾクするよ。昔からお前、怒らせると一番怖いタイプだったもんな」
「最高の褒め言葉だよ。で、洋介。頼みがある」
「なんだ?」
「このTwotterの被害者の人たちとコンタクトを取りたい。高田の余罪をもっと掘り下げて、確実に追い詰める材料が欲しいんだ」
「了解。裏垢を使ってDM送ってみる。それと、高田の会社での評判もネットの掲示板とかで洗ってみるよ。多分、社内でも怪しまれてるはずだ」
「頼む。俺はその間に、物理的な証拠を押さえる」
「物理的な証拠?」
「ああ。OustaやMINEのスクショだけじゃ弱い。決定的な現場の写真と、会話の録音が欲しい」
俺はスマホのカレンダーアプリを開いた。
来週の金曜日、玲奈は「会社の泊まりがけの研修がある」と言っていた。
もちろん、そんな研修が存在しないことは、ネットでフロンティア・エージェンシーの年間スケジュールを確認すればすぐに分かる嘘だった。
「来週の金曜日、決戦だ。GPSロガーと、高性能なボイスレコーダーが必要になる」
「お任せあれ。秋葉原の専門店知ってるから、一緒に買いに行こうぜ」
洋介がパソコンを閉じる音が、作戦開始の合図のように響いた。
カフェを出ると、外は冷たい風が吹いていたが、俺の心は不思議と熱かった。
それは復讐への情熱というよりは、これから始まる「狩り」への高揚感に近いものだった。
「学生くんには分からない世界」か。
玲奈、お前の言う通りだ。俺には分からないよ。
自分の彼氏を騙し、詐欺師に騙され、偽りのブランド品で着飾って喜ぶ、そんな愚かな世界は。
だから俺は、お前たちを俺の土俵に引きずり込む。
論理と証拠と、法的な制裁が支配する、冷たくて残酷な現実という土俵に。
俺は空を見上げた。鉛色の雲の切れ間から、微かに光が差し込んでいる。
嵐の前の静けさは終わりを告げた。
これから始まるのは、一方的な蹂躙だ。
「さあ、まずは証拠固めといこうか」
俺は洋介と共に、人混みの中へと歩き出した。その足取りは、ここ数ヶ月で一番軽かった。
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