社会人の彼女が「学生の君とは世界が違う」と職場の先輩と浮気していた。俺は感情を殺して証拠を集め、二人まとめて社会的に抹殺する
@flameflame
第一話 違和感と確信
夜の帳が下りた東京の街並みは、無数の光の粒によって煌びやかに彩られている。金曜日の夜、新宿駅東口の喧騒はピークに達していた。行き交う人々は皆、一週間の労働から解放された安堵感と、これから始まる週末への期待感で浮き足立っているように見える。
そんな人波の中で、俺、相沢翔太(あいざわ しょうた)は、ショーウィンドウに映る自分の姿を何気なく確認した。襟付きのシャツにジャケット、特に奇抜さのない大学生らしい格好だ。就職活動を終え、第一志望だったIT企業の内定を勝ち取ってから数ヶ月。卒論の目処も立ち、精神的にも時間的にも余裕ができた俺にとって、金曜日の夜は特別な意味を持っていた。
それは、社会人一年目である彼女、佐々木玲奈(ささき れな)と過ごす貴重な時間だからだ。
スマホの画面を点灯させ、時刻を確認する。約束の時間は十九時。現在は十九時十五分。
「少し、遅れてるな……」
独り言が白い息となって冬の夜空に消える。以前の玲奈なら、五分前には待ち合わせ場所に到着して、俺の姿を見つけるなり小走りで駆け寄ってきたものだ。けれど、彼女が広告代理店という華やかな業界に就職してからは、遅刻が常習化していた。「仕事が長引いちゃって」「先輩に捕まっちゃって」。そんな謝罪の言葉を聞くたびに、俺は「社会人は大変なんだな」と自分を納得させてきた。
Mine(マイン)のトーク画面を開く。『ごめん、ちょっと遅れる! 先に着いてて!』という短文が送られてきたきり、既読がつかない。
サークル時代の玲奈は、もっと丁寧なメッセージを送る子だった。俺への気遣いに溢れ、スタンプ一つ選ぶのにも時間をかけているような、そんな愛らしさがあった。けれど最近の彼女のメッセージは、まるで業務連絡のように素っ気ない。
忙しいんだ。彼女は今、必死に大人の階段を登っている最中なんだ。学生気分の抜けない俺が、些細なことで不満を漏らしてはいけない。そう自分に言い聞かせ、俺は冷え切った手をポケットに突っ込み、ひたすら彼女を待ち続けた。
「翔太! ごめん、待った?」
雑踏の中から聞き慣れた声がした。顔を上げると、改札の方からこちらへ向かってくる玲奈の姿が見えた。
「ううん、大丈夫だよ。お疲れ様、玲奈」
俺は笑顔を作って彼女を迎える。しかし、近づいてくる彼女の姿を見て、俺の笑顔は一瞬だけ強張ったかもしれない。
今日の玲奈は、俺の知らない香水を纏っていた。甘く、どこか挑発的な香り。メイクも以前より濃くなり、口紅の色は鮮烈な赤。そして何より、彼女が肩から提げているブランド物のバッグは、新卒の給料で気軽に買えるような代物ではなかったはずだ。
「……そのバッグ、新しいやつ?」
歩き出しながら何気なく尋ねると、玲奈は誇らしげにバッグを撫でた。
「ああ、これ? 可愛いでしょ。この前、仕事で成果出したご褒美に自分で買っちゃった。やっぱり、クライアントと会うのに安物は持てないしね」
「へえ、すごいな。玲奈、頑張ってるんだね」
「まあね。学生の時とは違うから。身だしなみも仕事のうちっていうか、セルフブランディング? そういうのが大事なの」
セルフブランディング。聞き慣れないカタカナ語を流暢に操る彼女の横顔は、どこか自信に満ち溢れていると同時に、俺を突き放すような冷たさを孕んでいるように見えた。
俺たちが向かったのは、学生時代から記念日によく利用していたイタリアンレストランだ。路地裏にある隠れ家的な店で、味は確かだし、何より落ち着いた雰囲気が気に入っていた。予約名を告げ、奥のテーブル席に通される。
「懐かしいな、ここ。半年ぶりくらいかな」
メニューを広げながら俺が言うと、玲奈は店内をぐるりと見回し、少しだけ鼻を鳴らした。
「そうだっけ? なんか、思ったより狭く感じるね。天井も低いし」
「え? ……そうかな。落ち着くと思うけど」
「んー、まあ学生にとってはいい店なんじゃない? でもさ、最近連れてってもらう店とか、もっと内装もゴージャスで、夜景が見えるのが当たり前だからさ。感覚が麻痺しちゃってるのかも」
彼女は悪気なさそうに笑いながら、メニューを閉じた。その言葉の端々に、「学生の君とは見ている世界が違う」というマウントが見え隠れする。俺は胸の奥にざらりとした不快感を覚えたが、それを表情には出さずに水を一口飲んだ。
「そういえば、仕事はどう? 忙しそうだけど」
話題を変えようと話を振る。すると、玲奈のスイッチが入ったように饒舌になった。
「もう大変だってば! うちの部署、クライアントが無茶ぶりばっかりしてくるし。でもさ、直属の高田先輩がすっごい優秀な人でさ。私がミスしても、一瞬でカバーしてくれるの。この前も、プレゼン資料の手直しを深夜まで手伝ってくれて……」
高田。その名前を聞くのは、今日で何度目だろうか。ここ一ヶ月、玲奈との会話には必ずと言っていいほど、この「高田先輩」という名前が登場する。仕事ができて、顔も広くて、新人教育に熱心な先輩。玲奈の話を聞く限り、非の打ち所がない人物のようだ。
「へえ、いい先輩なんだね」
「うん、すごい人だよ。ハイブランドの着こなしもさりげないし、美味しいお店もたくさん知ってるし。昨日の飲み会でもさ、高田先輩が全部奢ってくれて。『お前らは将来への投資に使え』なんて言ってさ。かっこよくない?」
玲奈は目を輝かせながら語る。その表情は、俺に向けていたものとは明らかに違う、憧れと熱を帯びたものだった。俺は内心面白くなかったが、嫉妬深い男だと思われたくなくて、曖昧に相槌を打つことしかできなかった。
「翔太もさ、社会人になったらそういうスマートさ、身につけたほうがいいよ? 学生ノリのままじゃ、絶対通用しないから」
「……善処するよ」
運ばれてきたパスタをフォークで巻き取りながら、俺は苦笑いする。玲奈は俺を心配してくれているのかもしれない。だが、その言葉はまるで「今のあなたは未熟で頼りない」と言われているようで、パスタの味が砂のように感じられた。
俺たちは付き合って三年になる。大学のサークルで出会い、真面目で芯の強い彼女に惹かれて告白した。彼女も俺の冷静さや優しさを好きだと言ってくれたはずだ。
しかし、彼女が社会に出たこの半年で、二人の関係性は微妙に、だが確実に歪み始めていた。彼女にとって俺はもう「頼れる彼氏」ではなく、「世間知らずの年下の男の子」になってしまったのだろうか。
会計の時、俺が財布を出そうとすると、玲奈は「あ、いいよ」とスマホを取り出そうとしたが、すぐに手を引っ込めた。
「やっぱり、翔太が出してくれる? 今月ちょっとカード使いすぎちゃって。高田先輩たちとの付き合いもあるし、美容代もバカにならなくてさ」
「ああ、うん。もちろん」
俺は何も言わずにカードを出し、支払いを済ませた。金を出させること自体は構わない。学生とはいえ、俺もバイトでそれなりに貯金はある。ただ、彼女が「先輩との付き合い」を優先し、俺とのデート代を出し渋るような態度を見せたことに、小さな失望を感じてしまったのだ。
店を出て、俺たちは俺のマンションへと向かった。明日は土曜日だ。今夜は泊まっていく約束になっている。
夜道を並んで歩く。以前なら自然と繋いでいた手は、今は互いのポケットの中に収まったままだ。その距離感が、物理的な距離以上にもどかしい。
「ねえ、玲奈」
「ん?」
「最近、なんか変わったね」
思わず口をついて出た言葉に、玲奈は怪訝そうな顔をした。
「変わったって、何が?」
「いや、なんていうか……大人っぽくなったというか」
本当は「俺のこと、見下してないか?」と聞きたかった。だが、そんなことを言えば喧嘩になるのは目に見えている。せっかくの週末を台無しにしたくないという事なかれ主義が、俺の口を重くさせた。
「ふふ、そりゃそうでしょ。毎日揉まれてるんだから。翔太も早くこっち側に来なよ。見える景色、全然違うからさ」
彼女は勝ち誇ったように笑った。その笑顔に、俺が好きだった頃の面影を探そうとしたが、街灯の逆光でよく見えなかった。
マンションに着き、部屋に入る。暖房をつけ、コートをハンガーにかける。玲奈は慣れた様子でソファに座り込み、ため息をついた。
「はー、疲れた。やっぱりヒールは足に来るわ」
「シャワー、先に浴びる? お湯張りしておくよ」
「うん、ありがと。翔太ってそういうとこ、気が利くよね。主夫向きかも」
褒め言葉のつもりなのかもしれないが、どこか棘がある。俺は黙って給湯器のスイッチを押し、バスタオルを用意した。
しばらくして、玲奈はバスルームへと消えていった。シャワーの音が聞こえ始める。
リビングには静寂が戻った。俺はソファに腰を下ろし、テレビのリモコンを手に取ったが、画面をつける気にはなれなかった。頭の中を巡るのは、今日の玲奈の言動ばかりだ。
高田先輩。ハイブランド。セルフブランディング。こっち側の世界。
(俺が考えすぎなのかな……)
環境が変われば人も変わる。彼女は新しい環境に適応しようと必死なだけかもしれない。俺がもっと大人になって、彼女の変化を受け止めるべきなのだろうか。
そう自問自答していた時だった。
ブブッ。
ローテーブルの上に置かれた玲奈のスマホが、短く震えた。
画面が点灯し、ポップアップ通知が表示される。
普段なら、他人のスマホなど見ない。プライバシーを尊重するのは当然の礼儀だ。だが、この時の俺は、まるで何かに吸い寄せられるように、その画面に目をやってしまった。もしかしたら、虫の知らせというやつだったのかもしれない。
Mineの通知バナー。そこに表示されていた名前は、『高田先輩(会社)』。
ああ、またあの先輩か。業務連絡だろうか。こんな時間に大変だな。
そう思って視線を逸らそうとした瞬間、通知のプレビューに表示された文章が、俺の網膜に焼き付いた。
『昨日は最高だったよ。玲奈の肌、マジですべすべで気持ちよかった』
ドクン、と心臓が大きく跳ねた。
全身の血液が一気に冷たくなるような感覚。視界が急速に狭まっていく。
見間違いか? いや、確かにそう書いてあった。
業務連絡? 違う。これは、明らかに、一線を越えた男女の会話だ。
『玲奈の肌、マジですべすべで気持ちよかった』
その一文が、頭の中で何度もリフレインする。昨日は飲み会だと言っていた。高田先輩が奢ってくれたと言っていた。その「飲み会」で、一体何があったというのか。
ブブッ。
再びスマホが震える。追撃のメッセージだ。
『あの写真、見るたびに興奮するわ(笑)。次は会社の会議室でスリル味わってみる?』
俺の思考は、驚くほど冷静に、その言葉の意味を分解していった。
写真? 興奮する? 会議室で?
状況証拠としては十分すぎる。いや、これはもう「証拠」そのものだ。
俺の手が震えそうになるのを、無意識に左手で抑え込んだ。
怒りで叫び出しそうになる衝動が喉元までせり上がってくる。今すぐバスルームに乗り込み、彼女を問い詰めたい。スマホを突きつけて、「これはどういうことだ」と怒鳴り散らしたい。
だが、俺の理性が、冷水を浴びせられたように鋭く警告を発した。
――待て。今ここで感情的になっても、何の解決にもならない。
俺の性格は、昔から損得勘定が働くタイプだ。感情よりも論理を優先する。経済学部で学んだゲーム理論やリスクマネジメントの考え方が、骨の髄まで染み付いている。
今ここで問い詰めれば、彼女はどう出る?
「誤解だ」「先輩の冗談だ」「酔っ払って送ってきただけ」と言い逃れをするだろう。あるいは、「勝手にスマホを見た」と俺を責め立て、論点をすり替えるかもしれない。
確実な証拠がなければ、彼女はシラを切る。そして、裏で証拠を隠滅し、俺を悪者に仕立て上げるだろう。相手は口のうまい広告代理店の男と、それに感化された女だ。
俺に必要なのは、感情の爆発ではない。
奴らが言い逃れできないほどの、完璧で、残酷なまでの「事実」だ。
俺は深く息を吸い込み、肺の空気をすべて入れ替えるようにゆっくりと吐き出した。
心拍数を強制的に下げる。表情筋を緩め、怒りを心の奥底にある冷凍庫へと放り込む。
スマホの画面が消灯し、再び黒い鏡に戻った。そこに映る俺の顔は、自分でも驚くほど無表情だった。
「……なるほど、そういうことか」
小さな呟きが漏れる。
玲奈の変化。上から目線の態度。金遣いの荒さ。デートのドタキャン。
すべての点と点が、一本の醜悪な線で繋がった。
彼女は俺を見下していたのではない。俺を騙し、裏切ることで、優越感に浸っていたのだ。あるいは、罪悪感を消すために、俺を「価値のない男」だと自分に言い聞かせていたのかもしれない。
ガララ、とバスルームの扉が開く音がした。
「あー、さっぱりした! 翔太、お湯加減ちょうどよかったよ」
バスタオルで髪を拭きながら、玲奈がリビングに戻ってくる。蒸気で火照った頬、無防備な部屋着姿。数分前まで愛おしいと思っていたその姿が、今は薄汚れたものに見える。
俺はゆっくりと顔を上げた。
口角を上げ、目尻を下げ、いつもの「優しい彼氏」の仮面を被る。
「それはよかった。仕事で疲れてるだろうから、ゆっくり温まるといいよ」
声は震えなかった。
俺の演技力に、自分自身で感心するほどだ。
「うん! あ、そうそう。明日なんだけどさ、急に休日出勤になっちゃって。お昼過ぎには帰らなきゃいけないんだ」
玲奈がスマホを手に取りながら、悪びれもせずに言う。
休日出勤。嘘だ。きっと、その「高田先輩」との密会があるのだろう。
「そっか、大変だね。社会人は休みもなくて」
「本当だよー。翔太も覚悟しておいたほうがいいよ?」
彼女はスマホの画面を確認し、一瞬だけ表情を強張らせたが、すぐに何事もなかったかのように振る舞った。おそらく、高田からのメッセージを見たのだろう。
俺は心の中で、冷たく嗤った。
行ってくればいい。その「休日出勤」とやらに。
俺はその間に、お前たちが地獄に落ちるための準備を始めさせてもらうから。
俺の中で、何かが完全に壊れ、そして再構築された。
愛は憎しみに変わるというが、今の俺にあるのは憎しみですらない。
あるのは、裏切り者に対する冷徹な執行猶予と、制裁への渇望だけだ。
「じゃあ、俺も明日はゼミの資料作りでもするかな」
「うん、偉い偉い。頑張ってね、学生さん」
玲奈が俺の頭を子供扱いするように撫でる。
その手に触れられた瞬間、俺の背筋に悪寒が走ったが、俺は笑顔を崩さなかった。
これが、俺たちの終わりの始まりであり、俺の復讐劇の幕開けだった。
俺はもう、ただの優しい彼氏ではない。
お前と、お前の間男を社会的に抹殺するための、観測者だ。
窓の外では、いつの間にか冷たい雨が降り始めていた。
俺たちの関係が、泥のように崩れ去っていくのを予兆するかのように、雨音は静かに、しかし確実に強くなっていった。
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