いなり広告社と街の不思議

永丘ひろ

第一話 洋食屋のウサギ

ep.0 モーニングルーティン

 稲葉美玲いなばみれいの朝


 目覚ましが鳴る少し前に、稲葉美玲いなばみれいは目が覚めた。

 ラジオをつけて、コミュニティFMを流す。春で晴れていると誰かが歌っていた。知らない曲だけれども、好きかもしれないと美玲みれいは思った。


 キッチンに立つと、ご飯の炊けるいい匂いがした。手早く朝食を作ると、姿勢を正して食べはじめる。

 ラジオから、ローカルニュースが流れてきた。

 新しいパン屋がオープンしたという話題。スコーンが人気だと、パーソナリティが楽しそうに話している。

 食べ終わったら食器を洗う。ラジオは天気予報に切り替わっていた。今日は一日、安定した天気らしい。


 美玲みれいは、ひかえめな化粧をした。鏡を使う時間は短い。ベージュのショーツとブラの位置を直し、黒いストッキングを履いた。クローゼットから、昨日と大差のないブラウスとスカートを選んだ。


 マンションを出て、勤務先の小さな広告代理店「いなり広告社」まで歩く。

 雑居ビルの二階にあるオフィスに着き、鍵を開けた。今日も一番早い出社だ。電気をつけ、簡単に掃除をする。

 次は掃除道具を持ってビルの屋上へ行く。

 屋上には、小さなお稲荷いなりさんがまつられている。お稲荷さんの掃除は、社長から頼まれている仕事の一つだ。

 ほこらの周りを掃きながら、狛狐こまぎつねを毎日見ていると、どこか可愛く感じる。時々表情が変わっている気もするが、きっと気のせいだと思う。

 一通り終えたあと、手を合わせる。

 信じているわけではないが、ただ、そうするのが日課になっていた。


 美玲みれいがオフィスに戻り、パソコンを立ち上げると、給湯室から人の気配がした。たぶん結城ゆうきさんがコーヒーを淹れているのだろうと思った。

 まもなく、他の社員たちも出社してくる。


 ◇ ◇ ◇


 結城迅ゆうきじんの朝


 目覚ましが鳴った瞬間に、結城迅ゆうきじんは目が覚めた。

 音が部屋へ染み込む前に、身体が起き上がっている。ベッドを降り、カーテンを開けると、朝の光が差し込んだ。


 学部生の頃から一人暮らしをしているマンションは分譲の高層階で、やけに天井が高い。

 光の中で、整い過ぎた顔立ちがあらわになる。長いまつ毛、通った鼻筋、線の細いあご。


 そのまま、広い寝室でトレーニングをはじめた。ストレッチを終え、腕立てふせに移る。

 細身に見える身体には、しなやかな筋肉が乗っていた。

 腹筋、背筋、スクワット。額にうっすら汗がにじみ、首筋にも汗がつたう。


 トレーニングを終えると、じんは呼吸を整え、静かに立った。

 次は、もう一つの鍛錬たんれんだ。じんが何もない空間に手を伸ばすと、青い光を帯びた霊刀れいとうが現れた。

 その刀をゆっくりとかまえ、踏みこむ。相手をイメージした形稽古かたげいこだ。動きは正確で美しい。

 刀を止め、最後に一振り。刀は粒子となって消え、部屋は静けさを取りもどした。


 じんの肩書きは大学院生だが、それは名ばかりだった。情報技術専攻で実験がないこともあり、研究室に顔を出す回数はかなり少ない。

 マスターは取ったが就職もせず、モラトリアムの延長線上に今の在籍がある。自覚はあるし、開き直ってもいた。


 今日はバイトの日だ。いなり広告社。小さな広告代理店で、なんでも屋じみた仕事を請け負っている。じんにとっては、大学よりよほど現実的な居場所だった。

 シャワーを浴び、身支度みじたくを整える。清潔なシャツに袖を通し、ボタンをはめる指先が、白く長かった。


 じんがいなり広告社に着くと、オフィスの鍵は開いていたが、誰もいなかった。

 美玲みれいさんが屋上で稲荷いなりの掃除をしているのだろうと思った。

 不用心だとは思うが、目くじらを立てても仕方がない。

 じんは給湯室で一杯分の豆をコーヒーメーカーに入れかけたところで考え直した。

 コーヒーサーバーに、たっぷりのコーヒーがゆっくりと満たされていくのをながめていた。


 ◇ ◇ ◇


 境透子さかいとうこの朝


 目覚ましが鳴った。境透子さかいとうこは、セットした音楽がサビに入るまで少しだけ時間をかけてから、ようやく身体を起こした。


「目覚ましの音よげ」


 起きることが、透子とうこにとって朝の山場だ。それさえ越えれば、あとは自分のペースになる。


 壁の大きな鏡に映る自分を見た。黒地に白のボーダーが入ったワンピース型のパジャマだ。

 生地が柔らかく落ちるので、立つときれいに見える。買ってよかった一枚だ。


 カーテンを半分だけ開けると、朝の光が床をなぞり、ソファと観葉植物の影を落とした。


 キッチンに立ち、お湯を沸かす。茶缶を開け、CTCのアッサムを多めにポットに入れた。ミルクティーが朝の定番だ。

 昨日買ったスコーンに、苺ジャムとバターを罪悪感を感じるぐらいのせた。

 スコーンのかけらのまじった一口の紅茶が上あごにれた瞬間、透子とうこは身震いした。


 頭の中に映像が割り込んだのだ。くさりのような影にとらわれたエプロン姿の若い女性。シャッターに閉ざされた暗い室内。

 透子とうこは紅茶をもう一口飲んだ。紅茶の熱さが、現実に引きもどす。


「見えちゃったな」


 透子とうこはつぶやいた。


 スマホで天気を確認する。今日は晴れ。それだけで、服選びのテンポが一段上がった。

 クローゼットの前で少し考えてから、春らしい色のワンピースとジャケットを選ぶ。ネックレスとピアスは派手めに。鏡の前でくるりと一回転した。


「うん、いい感じ」


 化粧のベースは薄く、眉を整え、まつ毛に少しだけ手を入れる。口元はうるおいたっぷりに仕上げた。


 小さな広告代理店でグラフィックデザイナーをしている透子とうこは、いつも荷物が多めだ。仕事用のトートバッグをF2のスケッチブック、ペンケース、iPadが重くしている。

 忘れ物がないか確認してから、ドアノブに手をかけた。


 ヒールの音が、マンションの廊下にリズムを刻む。透子とうこは会社へ向かった。


 ―――

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