15年を経た隣人
ジロギン2
15年を経た隣人
このアパートに住み始めてから四日が経った。入居前に想像していた以上に、とても暮らしやすい。
不動産屋で紹介されたときは、良い物件だと思えなかった。築年数が四十年を超えている二階建ての木造オンボロアパートで、間取りは1Kと狭い。それでもこの部屋に住もうと決めたのは、家賃が月五万二千円と、東京二十三区内の住宅とは思えないほど格安だったからだ。この金額なら、給料が低い新卒の僕でも無理なく払えて、食事や遊びにお金を回せる。
それと、昔から父に「帰ってきて寝るだけの家にお金をかけるのは馬鹿らしい。その分、さまざまな経験にお金を使え」と、口酸っぱく言われてきた。この部屋に住むという決断には、父からしつこいほど何度ももらったありがたい教訓も、確実に影響している。
やはりベストな家とは言えないが、実際に住んでみてわかったメリットもある。今は両隣の部屋も真下の部屋も空室らしい。だから騒音に悩まされることも、物音を立てないよう気を配る必要もない。それから、徒歩圏内にスーパーとコンビニがあって、最寄駅までは歩いて十分程度という好立地。隠れた当たり物件を引けたようである。
大学を卒業して就職するのをきっかけに、地元の北海道を離れて上京した。当時は不安なことばかりだったが、第一関門と呼ぶべき住まい選びは成功したと言って良いだろう。あとは住めば都だ。この部屋での暮らしも、仕事も、
僕の
三度目のインターホンが鳴った。来訪者は、そう簡単に帰るつもりはないらしい。あるいは、僕が部屋の中にいることに気づいているのかもしれない。熱唱が扉の外にまで響いていたとしたら、その可能性もある。居留守を使ってやり過ごすことは難しそうだ。
渋々と玄関へ向かい、ドアスコープを覗く。見知らぬ男が立っていた。年齢は四十歳前後といったところだろうか。坊主頭で口髭を生やしている。異様に白い顔色に、落ち
男はドアスコープに視線を向け、にやにやと笑みを浮かべた。何だか不気味だ。できれば対面したくないが、僕が扉に近寄る気配や音は伝わってしまっただろう。
インターホンのボタンに右手を伸ばす男。また
「突然すみません。
男はしゃがれた低い声でそう言った。
空室だった隣に住むのか……。少し残念だ。隣室に面している壁の厚みは、ベニヤ板を二、三枚重ねた程度だと思う。この町田という男の生活音が聞こえるようになり、うるさく感じることが増えるだろう。こちらも音に気を遣わなければならなくなる。さっきみたいに歌いながら掃除をするなんてことはできない。挨拶を返すより先に、そんな気持ちが僕の心の中に浮かび上がってきた。
幸いなのは、隣人となる町田さんが見た目に反して丁寧な性格をしていそうなところか。今の時代、引越しの挨拶をする人なんてほどんどいないと聞く。礼儀を重んじるタイプの人なのだろう。こういう人ならば、物音を立てて迷惑をかけてしまったとしても、しっかり謝ればトラブルになりにくそうだ。そもそも、多少の騒音なら許容してくれるかもしれない。僕の実家は一戸建てだったから、集合住宅での暮らしは初めてだ。だからこそ、ニュースでよく見る騒音トラブルを心底怖いと感じ、自分は巻き込まれたくないと警戒していた。けれど、隣人が彼ならば過剰に心配する必要はなさそうである。
つい考え込んでしまったが、ふと我に返る。声をかけられたのに、いつまでも黙ったままの僕もまた不気味だ。町田さんのことを言えない。あわてて、「そうでしたか。ご丁寧にどうも」と、簡単に返事をする。
「私、この辺りの土地鑑が全くなくて。東京で暮らすのも初めてなんです。なので、いろいろとお聞きすることがあるかもしれません。ご迷惑をおかけすると思いますが、そのときはご容赦を」
そう続ける町田さん。ここまで身の上話をする必要があるのだろうか、と疑問に感じてしまうほど丁寧だ。見た目や体臭で警戒してしまったが、町田さんは「尋常ではないほど良い人」なのかもしれない。外見は悪いけれど実害はない、ゴキブリのような人間。
それに、彼も僕と同じく東京の外から来たようだ。地元を離れてからの僕は、人と話すことといえば会社の同僚との事務的な会話くらい。少し寂しい気持ちを感じていた。おそらく町田さんも、数日もすれば僕と同じような寂しさを感じることになるだろう。ならば、今のうちから良い関係性を築いておいて、気さくに話ができるご近所さん同士になっておくのも悪くはない。
「こちらこそ、よろしくお願いします。あの、どちらから引越して来られたんですか?」
町田さんのバックグラウンドに踏み込む質問をしてみる。もしかしたら思わぬ地雷を踏んでしまうかもしれないが、こういう深い質問をしなければ、心の壁はなかなか取り除けず仲良くなれない。それくらいのことは、二十二年というまだまだ短い僕の人生を通してでも充分に理解できている。
町田さんは嫌な顔をせず、「北海道です」と答えた。まさか僕と同じ地元だとは。未知の土地で同郷の士に会えたことで、テンションが上がる。地元トークで盛り上がれそうだ。なおさら、関係を作っておきたい。
「僕も北海道なんですよ! 北海道のどこですか? 僕は
と、さらに切り込んでみた。
「私は
町田さんが口にした網走。確かに北海道内の市ではあるが、僕は一度も行ったことがない。ほとんど縁のない地域だ。北海道は広いから、こういうこともある。
「網走……あの、網走監獄がある……」
網走に関する知識を何とか絞り出してみたが、失礼だったかもしれないと、すぐに後悔した。「監獄がある場所」なんて聞こえが悪い。その地域に住んでいた人からすれば、良い気分にはならないだろう。「犯罪者が大勢いる地域だ」と、差別的な言われ方をされたも同然なのだから。
町田さんを不快な気持ちにさせてしまったかと思い、「あっ、すみません」と訂正しようとした。だが、想像と違って彼は声のトーンを上げる。
「そうそう、網走監獄にいたんですよ、私。昨日出所して、親戚が経営している会社で雇ってもらえることになって、会社の近くに住むことになりました。この部屋も、その親戚が手配してくれたんです」
網走監獄にいた……? ということは、町田さんには何らかの前科があるのだろうか。いや、まだわからない。
「あっ、あれですか? 網走監獄でお勤めされていたってことですかね?」
「ええ。お務めしていました。たった十五年で出てこられたのは、運が良かったですね」
食い違いが起きている気がする。僕が考えている「網走監獄にいた」と、町田さんが言う「網走監獄にいた」は、たぶん別物だ。彼は監獄にぶち込まれ、臭い飯を食っていた元服役囚……。そうに違いない。
心の壁を取り除き、良好な関係性を築くには深い質問をするべき。それは間違いない。しかしこの男に対しては、これ以上質問をするべきではないと、僕の勘がささやいている。恐ろしい事実が発覚しそうだ。「十五年で出てこられた」という言葉からして、この男は相当重い罪を犯しているはず……心の壁どころか、物理的な壁の向こう側にいてほしい人間。
早く話を切り上げたいところだが、引き留めたのは僕のほうだ。この会話を上手く終わらせる言葉が見つからない。選んだ言葉によっては……僕は……どうすればいい……?
そう悩んでいると、町田さんが先に口を開いた。
「初対面でこんなことを言うのは忍びないんですけど、うるさくしないでほしいんですよね。次やったら、私、十五年じゃ出てこられないと思うので。それでは、よろしくお願いします。気持ち良さそうに歌っていたところ、失礼しました」
町田さんは大きな声で僕にそう言うと、左隣の二○二号室の中へと姿を消した。
引越しの挨拶というのは建前。あの男の目的は、「今度やかましい音を立てたらどうなるかわかっているな?」と警告することだったのだ。
ゆっくり、音を立てないように、僕は扉を閉める。そして声が出ないよう
<了>
15年を経た隣人 ジロギン2 @jirogin_2
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