祝辞を読んだ親友へ。十七年分の「家族ごっこ」の請求書を送ります。

@flameflame

第一話 幸福のバグ

乾いたタイピング音だけが、深夜のオフィスに響き渡っていた。


東京都港区に本社を構えるIT企業「ネクスト・スフィア」。そのシステム開発部フロアは、デスマーチとも呼べる繁忙期をようやく抜け出し、嵐の後のような静けさに包まれていた。窓の外には、残業の疲れを嘲笑うかのようなきらびやかな東京の夜景が広がっている。


「よし……これで最終テスト、パスだ」


俺、相沢匠(あいづき たくみ)は、Enterキーを強めに叩き、椅子の背もたれに深く体重を預けた。数ヶ月に及んだ大規模金融システムの刷新プロジェクト。その責任者としての重圧からようやく解放された瞬間だった。四十二歳という年齢には堪える激務だったが、ディスプレイに表示された「ALL GREEN」の文字を見ると、心地よい疲労感が全身を駆け巡る。


「お疲れ様です、部長! いやぁ、さすが相沢さんだ。あのバグを土壇場で特定するなんて、人間デバッガーですか?」


背後から大げさな声をかけてきたのは、同期であり、部下でもある真島洋平だった。缶コーヒーを二本持ち、一本を俺のデスクに置く。人懐っこい笑顔と、少し軽い口調。入社以来十七年、俺の隣にはいつもこいつがいた。


「よせよ洋平。お前がクライアントの無茶振りを捌いてくれなきゃ、コードを書くどころじゃなかった。感謝してるよ」

「へへっ、よせやい。俺は相沢部長の忠実な騎士(ナイト)ですからね。……それにしても、これで来期からの昇進も確定だな。執行役員も夢じゃないんじゃないか?」


洋平は自分のデスクに腰掛け、プルトップを開けながらニヤリと笑う。俺たちは新卒入社の同期だ。技術一本槍で出世街道を走ってきた俺と、営業的な立ち回りでチームを支える洋平。タイプは違うが、互いに足りない部分を補い合う、まさに戦友だった。俺が今の地位にいられるのも、洋平という右腕がいてこそだ。


「昇進なんてまだ早いよ。それより、今週末は久しぶりに家族サービスができそうだ。麗子も結衣も、ずっと待たせてたからな」

「おー、愛妻家! 麗子ちゃんも幸せもんだよなぁ。旦那は仕事ができる上に、浮気ひとつせず直帰するんだから。俺なんて先週、キャバクラの領収書がバレて嫁に半殺しにされたばっかりだぜ」

「お前なぁ……いい加減にしないと愛想尽かされるぞ」


苦笑いしながらコーヒーを啜る。洋平のこういう軽薄なところは昔から変わらないが、根は悪い奴じゃない。俺の結婚式では友人代表としてスピーチをしてくれ、涙ながらに「こいつを幸せにしないと俺が許さない」と叫んでくれた熱い男だ。


「ま、相沢家は安泰だよな。翔太くんも高校生だっけ? 優秀なんだろ?」

「ああ、翔太は理系に進みたいらしい。最近は俺の専門書を勝手に読んでるよ。結衣はまだ小学生だから甘えん坊だけどな」

「へぇ、蛙の子は蛙か。優秀なエンジニアの遺伝子は争えないねぇ。……羨ましいよ、本当に」


洋平の言葉の端々に、微かな、本当に微かな棘のような響きを感じた気がしたが、俺はそれを疲労のせいだと片付けた。時計を見ると、時刻は二十三時を回ろうとしている。


「さて、帰るか。洋平、お前も無理するなよ」

「おう、俺はもう少し残務処理してから帰るわ。お疲れ、部長!」


洋平に見送られ、俺はオフィスを後にした。エレベーターホールで静かに息を吐く。

仕事は順調。信頼できる部下がいる。そして帰るべき家がある。

俺の人生は、完璧に「実装」されていた。致命的なエラーなど存在しない、美しいソースコードのように。



自宅の最寄り駅に着く頃には、日付が変わる直前になっていた。

郊外の閑静な住宅街。その一角に建つ二階建ての注文住宅が、俺の城だ。三十五年のローンはまだ残っているが、この家の灯りを見るだけで、どんな疲れも吹き飛ぶ。


玄関の鍵を開け、「ただいま」と小声で呟く。みんな寝ているだろうと思っていたが、リビングのドアを開けると、暖かなオレンジ色の照明の下、妻の麗子がソファで編み物をしていた。


「あ、匠さん。おかえりなさい」


麗子が顔を上げ、花が咲くような笑顔を向ける。四十歳になった今でも、彼女の美しさは変わらない。いや、年齢を重ねたことで、しっとりとした色気が増しているようにさえ感じる。出会った頃と同じ、手入れの行き届いた長い黒髪。白い肌。そして俺だけに向ける、慈愛に満ちた瞳。


「起きててくれたのか。遅くなってごめん」

「ううん、プロジェクトが終わる今日くらい、起きて待ちたかったの。お疲れ様」


彼女は立ち上がり、俺のスーツの上着を受け取ると、慣れた手つきでハンガーにかける。その何気ない動作一つ一つに、十七年間の積み重ねを感じる。

テーブルの上には、ラップのかかった夕食と、俺の好物の出し巻き卵が置かれていた。


「ビール、飲む? それともお風呂先にする?」

「少し話したいから、ビールをもらおうかな」


着替えてソファに座ると、麗子がよく冷えたビールとおつまみを運んできた。隣に座る彼女から、ふわりと甘い香りが漂う。結婚当初から変わらない、彼女愛用のシャンプーの香りだ。


「やっと終わったよ。これでしばらくは早く帰れる」

「本当? よかったぁ。結衣がね、パパと遊園地に行きたいってずっと言ってたのよ。翔太も、口には出さないけど、進路のことであなたに相談したそうだったし」

「そうか、翔太ももうそんな時期か。あいつ、最近背が伸びて、俺より高くなったんじゃないか?」

「ふふ、そうね。足も長いし、顔も小さいし。……匠さんには似てないかもね、スタイルは」


麗子は悪戯っぽく笑う。俺は平均的な日本人体型だが、翔太はモデルのようにスタイルが良い。


「俺に似なくてよかったよ。中身が似てくれれば、それでいい」

「中身は似てるわよ。真面目で、一つのことに集中すると周りが見えなくなるところとか。……そういうところ、私、大好きよ」


麗子がそっと俺の肩に頭を乗せてくる。俺は彼女の肩を抱き寄せ、その体温を感じた。

幸せだ。心からそう思う。

仕事での成功、部下からの信頼、そして愛する妻と子供たち。

俺は、この幸せを守るためなら何でもできる。この平穏な日々が、いつまでも続くと信じて疑わなかった。

そう、あの日までは。



その「バグ」が発覚したのは、プロジェクト完了から一週間後の金曜日のことだった。

俺は定時で退社し、かつての同僚が立ち上げたベンチャー企業のオフィスへ顔を出していた。技術顧問としてのアドバイスを求められていたためだ。場所は新宿。若者と欲望が渦巻く、眠らない街。


打ち合わせは想定より早く終わり、時刻は二十時過ぎ。

直帰するには少し早いし、このまま帰って家族と夕食を囲むのもいいな、と考えながら、俺はネオンが輝く雑踏の中を駅に向かって歩いていた。

金曜の夜ということもあり、街は解放感に浸る人々で溢れかえっている。客引きの声、笑い声、けたたましい電子音が混ざり合い、一種のトランス状態のような熱気を生み出していた。


ふと、人混みの向こうに、見覚えのある後ろ姿を見つけた。


(……あれ?)


上品なベージュのトレンチコート。緩く巻かれた栗色の髪。そして、その腰に手を回している、グレーのスーツの男。

一瞬、見間違いだと思った。

だが、その男の背格好、歩き方の癖、そして何より、右肩にかけている使い込まれたビジネスバッグ。あれは、俺が三年前の誕生日に贈ったブランドものだ。


「洋平……?」


心臓がドクン、と大きく跳ねた。

洋平の隣にいる女性。彼女がふと横を向き、洋平に向かって艶然と微笑んだその横顔を見て、俺の思考は完全に停止した。


麗子だ。

間違いようがない。俺の妻、相沢麗子だ。


なぜ?

今日は「高校時代の友人と食事会に行く」と言っていたはずだ。

なぜ洋平がいる?

なぜ洋平は、あんなに馴れ馴れしく麗子の腰に手を回しているんだ?

なぜ麗子は、俺にも見せたことがないような、とろけるような瞳で洋平を見つめているんだ?


「まさか……」


俺の足は、意思とは無関係に二人を追っていた。

距離はおよそ十メートル。雑踏に紛れ、彼らは俺の存在になど微塵も気づいていない。二人はまるで十代のカップルのように体を密着させ、耳元で何かを囁き合い、クスクスと笑い合っている。


(きっと、偶然会っただけだ。いや、相談事か何かで……)


必死に正常性バイアスを働かせようとする俺の理性を、次の瞬間、現実が無慈悲に粉砕した。


二人が足を止めたのは、派手な装飾が施された建物の前だった。

「HOTEL Silky」

極彩色に光る看板。休憩三千円、宿泊八千円。

いわゆる、ラブホテルだ。


俺は息を呑んで物陰に身を隠した。心臓の音がうるさすぎて、周囲の喧騒がかき消されるほどだ。

嘘だろ。嘘だと言ってくれ。

洋平は俺の親友だ。麗子は俺の最愛の妻だ。

そんな二人が、どうして。


二人は入り口の前で一瞬だけ立ち止まり、周囲を警戒するように視線を巡らせた。その手慣れた仕草に、俺の背筋に冷たいものが走る。初めてではない。明らかに、常習者の動きだ。

そして、洋平が麗子の背中に手を添え、エスコートするように自動ドアの中へと消えていった。


俺はその場に立ち尽くしたまま、動くことができなかった。

胃の底から、熱い鉛のようなものがせり上がってくる。吐き気だ。

視界がぐにゃりと歪む。

十七年間の信頼が、愛情が、思い出が、音を立てて崩れ落ちていく幻聴が聞こえた。


「……は、はは」


乾いた笑いが漏れる。

俺はスマホを取り出した。震える指で「MINE」を開き、麗子とのトーク画面を表示する。

『今日は遅くなるから、先に寝ててね。愛してるわ』

一時間前に送られてきたメッセージ。末尾には、可愛らしいハートのスタンプ。


「愛してる、か……」


画面の光が、網膜を焼くように眩しい。

俺は深く息を吸い込み、冷たい夜の空気を肺いっぱいに満たした。

混乱する頭の片隅で、プログラマーとしての俺の別人格が、氷のように冷徹な声で囁き始める。


――エラーを検知しました。

――原因を特定し、バグを排除する必要があります。


吐き気をねじ伏せ、俺はスマホのカメラアプリを起動した。

そして、二人が消えていったホテルの入り口と、まだそこに残る二人の残像を焼き付けるように、シャッターを切ることはしなかった。

ここで写真を撮っても、まだ「決定的証拠」には弱い。二人が出てくるところ、あるいはもっと直接的な証拠が必要だ。


俺は震えが止まらない手をポケットに突っ込み、近くの喫茶店に入った。

席に座り、ブラックコーヒーを注文する。

苦い液体を喉に流し込みながら、俺はノートパソコンを開いた。

画面には、会社のサーバー管理画面ではなく、自宅に設置してあるNAS(ネットワークHDD)のアクセスログ解析ツールが表示されている。


俺は知っている。麗子のスマホは、自宅のWi-Fiに接続した際、自動的に写真やデータをNASにバックアップする設定になっていることを。俺が「家族の思い出を消さないために」と構築したシステムだ。

だが、それだけではない。俺は職業柄、セキュリティにはうるさい。自宅のネットワークを通過するパケットは、すべてログとして記録されている。


「……デバッグの時間だ」


俺の指がキーボードを叩く。

怒りで打ち震える指先とは裏腹に、入力されるコマンドは正確無比だった。

まずは、麗子の行動履歴(GPSログ)と、洋平の行動パターンを照合する。

「MINE」の暗号化されたバックアップデータの復元も試みる必要があるだろう。通常の手段では見られない「非表示フォルダ」や「削除されたメッセージ」こそが、真実を語るはずだ。


一分一秒が経過するごとに、俺の中の「夫」としての感情が死んでいき、「技術者」としての冷酷さが鎌首をもたげていく。

十七年。

洋平が言った「蛙の子は蛙」という言葉が、呪いのように脳裏に蘇る。

翔太は、俺に似ていない。

麗子は、結婚当初から洋平と知り合いだった。


パズルのピースが、最悪の形で組み合わさろうとしている。

もし、もしもその仮説が正しければ。

これは単なる浮気ではない。俺の人生そのものを否定する、極大の悪意によるハッキングだ。


モニターの光に照らされた俺の顔は、きっと能面のように無表情だっただろう。

だが、その奥底では、ドロドロとした黒いマグマが渦を巻いていた。

絶対に許さない。

俺の人生を冒涜した代償は、骨の髄までしゃぶり尽くして支払わせてやる。


俺は静かにエンターキーを叩いた。

復讐という名の、長い長いプロジェクトが幕を開けた。

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