第3話 甘い罠とハニートラップ
◇◆◇
ホテルのラウンジ。
窓の外には、勇樹が誇らしげに語っていた湾岸のタワーマンション群が見える。
対面に座る麻衣は、高級なティーカップを持つ指先を微かに震わせていた。
「亮介くん……本当に、亮介くんなのね。全然、雰囲気が変わっちゃって……」
「10年も経てばね。君も、相変わらず綺麗だ」
嘘ではない。かつての純朴さは消えたが、
今の彼女には「金で塗り固めた虚飾の美しさ」と、
その裏に隠しきれない「寂寥感」があった。
俺はそれを、丁寧に指先でなぞるように言葉を紡ぐ。
「勇樹から聞いたよ。幸せに暮らしているって。
あいつ、社内でもエース級の活躍で、奥さんのことをいつも自慢している」
「……自慢? あいつが?」
麻衣の口元が自嘲気味に歪んだ。
案の定だ。勇樹のような男にとって、
妻は自分を引き立てるためのアクセサリーに過ぎない。
家では傲慢に振る舞い、外では愛妻家を演じる。
そのギャップが、彼女の心をどれほど削ってきたか、容易に想像がつく。
「亮介くん、あなたは知らないのよ。あいつ、結婚してからずっと……。
私を家政婦か、自分の所有物みたいにしか思ってない。
最近なんて、帰りも遅いし、酒呑んだって隠そうともしないの」
「信じられないな。俺だったら、君をそんな風には扱わない」
俺はテーブル越しに、そっと彼女の手を包み込んだ。
彼女は一瞬驚いたような顔をしたが、拒絶はしなかった。
むしろ、救いを求めるように俺の手を握り返してきた。
(チョロいな。10年前と変わっていない)
寂しさに付け入れば、この女は簡単に堕ちる。
かつて勇樹が俺にしたように。
◇◆◇
俺は、勇樹には決して教えない「裏のアカウント」を彼女に教えた。
「何かあったら、いつでも連絡して。俺は、君の味方だから」
その日から、麻衣からの連絡が止まらなくなった。
勇樹への不満、孤独、そして過去の「後悔」
『あの時、亮介くんを選んでいればよかった』
そんな甘ったるい、そして虫のいい言葉が画面を埋め尽くす。
俺はそれを冷淡に眺めながら、着実に「証拠」を積み上げていった。
彼女が勇樹の愚痴をこぼす音声、彼が家庭を顧みない証拠、
そして、俺に縋る彼女の姿。
これらはすべて、後で勇樹を絶望させるための「弾丸」になる。
◇◆◇
一方で、会社での勇樹は、俺が仕掛けた「特大の餌」に完全に食いついていた。
「佐川さん! 例の地権者の件、片付いたよ! 君の言う通り、あの裏ルートを使ったら、反対派の急先鋒だった連中がコロッと態度を変えた。これで今期の予算は大幅に達成だ!」
勇樹は執務室で、高価なウイスキーのグラスを掲げた。
彼が使った「裏ルート」とは、俺が用意したペーパーカンパニーを通じた、事実上の贈賄工作だ。表面上は「コンサルティング料」として処理されているが、精査すれば一発でアウトになる代物。
「さすがですね、高橋次長。
これで部長の椅子も、その先の取締役も夢じゃありません」
「ああ! 10年前、ある男の彼女を奪った時も思ったが、俺はやっぱり『持ってる』男なんだよな。ああいう地味な奴には回ってこないチャンスが、俺には向こうからやってくる」
勇樹は酔いに任せて、ついに禁句を口にした。
俺が「亮介」だと気づいていないからこその、無防備な告白。
彼は、俺の目の前で、俺の人生を奪ったことを「武勇伝」として語ったのだ。
「……そうですね。あなたは本当に、多くのものを手に入れました」
俺はグラスを傾け、琥珀色の液体越しに彼を見据えた。
「でも、手に入れたものが多ければ多いほど、
失う時の恐怖は大きい。……そう思いませんか?」
「ははは! 何を縁起でもないことを。俺が失敗するはずがないだろう?」
勇樹は俺の肩を強く叩き、笑い飛ばした。
その笑顔が、引きつった絶望に変わるまで、あとわずか。
◇◆◇
その夜。
俺は、ある「女性」にメールを送った。
勇樹が現在、
進行形で浮気をしている相手——帝都不動産の受付嬢、
『高橋次長は、君との結婚なんて考えていない。
奥さんと別れる気もない。証拠を見せてあげようか?』
俺の手元には、麻衣から送られてきた「勇樹との仲睦まじい(フリをした)写真」と、勇樹が麻衣を「最高の妻だ」と対外的にアピールしている音声データがある。
復讐は、一方向からでは足りない。
家庭(麻衣)、会社(プロジェクト)、そして愛人(香織)。
三方向から同時に発火させ、退路を断つ。
10年かけた特大プロジェクト。
導火線には、すでに火がついている。
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