偽りの告白、期限切れの恋。全てを壊した僕が、五年後に君を許す理由。
@flameflame
第1話 期限切れの幸福
図書室の窓から差し込む西日が、宙を舞う埃を黄金色に染め上げていた。
放課後の静寂。本の匂い。そして、ページを捲る乾いた音だけが響くこの場所は、僕、天宮駆(あまみや かける)にとって唯一の聖域だった。
少なくとも、三ヶ月前までは。
「ねえ、駆くん。ここの漢字、なんて読むの?」
甘い花の香りと共に、右腕に柔らかい感触が押し付けられる。
視線を落とすと、そこには学年一、いや、この高校始まって以来の美少女と名高い一ノ瀬玲奈(いちのせ れな)がいた。
少し色素の薄い茶色の瞳が、上目遣いに僕を見つめている。制服のリボンは少し緩められていて、そこから覗く白い鎖骨に思わずドキリとして視線を逸らした。
「……『躊躇(ちゅうちょ)』だよ。迷って決心がつかないこと」
「あ、そっか! さすが駆くん、物知りだねー」
玲奈は悪戯っぽく笑うと、さらに体を寄せてくる。彼女の体温が、制服越しに伝わってくる。
心臓の音がうるさい。全身の血が沸騰するような感覚。
僕のような、クラスの端っこで息を殺して生きている「陰キャ」の図書委員と、カーストの頂点に君臨する陽キャグループの姫。
どう考えても接点などないはずの二人が、こうして寄り添っている。
三ヶ月前のあの日、彼女が突然僕を呼び出し、「好きです、付き合ってください」と顔を真っ赤にして告げてきた時は、何かのドッキリだと本気で思った。
周囲を見渡し、カメラを探し、あるいは新手のいじめかと身構えた。
けれど、彼女の瞳は真剣そのもので、震える手で僕の袖を掴んでいたのだ。
『私、図書室で本を読んでる天宮くんのこと、ずっと見てたの』
その言葉が、灰色の高校生活を送っていた僕の世界を、一瞬にして極彩色に変えた。
付き合い始めてからも、夢心地は続いている。
彼女は僕の趣味を否定せず、一緒に本を読み、僕の好きな地味な喫茶店にも文句一つ言わずに着いてきてくれた。
陽キャ特有の派手な遊びを押し付けることもなく、僕の歩幅に合わせてくれる。
「駆くん? どうしたの、ぼーっとして」
「いや……なんでもないよ。ただ、幸せだなと思って」
僕が素直な気持ちを口にすると、玲奈は一瞬きょとんとして、それから花が咲くように破顔した。
「もう、駆くんったら。急に恥ずかしいこと言わないでよ」
彼女は照れ隠しのように僕の肩を軽く叩く。その仕草一つ一つが、僕の胸を締め付けるほどに愛おしい。
僕は彼女の手をそっと握り返した。細くて、折れそうなほど華奢な指。
この手を、ずっと離したくない。
卒業しても、その先も、ずっと。
本気でそう思っていた。
自分には不釣り合いな幸福だということは分かっている。
クラスメイトたちの「なんであいつが」「一ノ瀬さんも物好きだな」という陰口も聞こえている。
それでも、彼女が隣にいてくれる事実だけで、僕はどんな雑音も耐えられた。
ブブブッ、ブブブッ。
静寂を切り裂くように、机の上に置かれた玲奈のスマートフォンが振動した。
画面が明るくなり、通知が表示される。
『MINE』のポップアップ。
玲奈の表情が、一瞬で凍りついた。
さっきまでの蕩けるような笑顔が嘘のように消え、顔色が蒼白になる。
握っていた手が、びくりと震えた。
「……玲奈?」
僕が声をかけると、彼女はハッとしたように表情を作り直し、慌ててスマホを裏返した。
「あ、ご、ごめんね。友達から。ちょっと急ぎの用事みたい」
「そうなんだ。大丈夫? 返信しなくて」
「う、うん。あとでいいの。それより、今日はもう帰らなきゃ。門限、厳しくなっちゃって」
彼女の声音には、隠しきれない焦燥感が滲んでいた。
門限なんて聞いたことがない。いつもなら、下校時刻ギリギリまでこの図書室で過ごすのが日課だったはずだ。
でも、深く追求して彼女を困らせたくなかった。
僕のような冴えない男と付き合ってくれているだけで奇跡なのだから、彼女の事情を最優先にするのは当然だ。
「分かった。じゃあ、今日はここで解散しようか」
「ごめんね、駆くん。……また明日ね」
玲奈は逃げるように荷物をまとめ、足早に図書室を出て行った。
去り際、彼女が一度だけ振り返り、僕に向けた視線。
それはいつもの愛情に満ちたものではなく、どこか怯えているような、縋るような、見たこともない弱々しいものだった。
あの時、もっと強く引き止めていれば良かったのだろうか。
いや、どちらにせよ結果は同じだったのかもしれない。
運命の歯車は、とっくに狂い始めていたのだから。
一人残された僕は、彼女の残り香が漂う図書室で、しばらく呆然としていた。
窓の外はすでに茜色から群青色へと変わりつつある。
片付けをして帰ろうと鞄を持ち上げた時、ふとポケットの軽さに気づいた。
「あれ……イヤホンがない」
昨日、玲奈に「この曲、駆くん絶対好きだよ!」と勧められたバンドの新曲を聴くために買ったばかりのワイヤレスイヤホン。
高価なものではないが、彼女との話題作りのために必死でバイトして買ったものだ。
どこに置いたっけ。
記憶を巻き戻す。
5限目の体育の後、着替える時に制服のポケットから出して、教室の机の中に入れたままだった気がする。
「……取りに行くか」
溜息をつき、僕は図書室を出た。
廊下はすでに静まり返っている。運動部の掛け声も遠くに聞こえるだけで、校舎内は静寂に包まれていた。
僕の教室は2階の奥、2年A組だ。
階段を降り、薄暗くなりかけた廊下を歩く。
上履きが床を叩く音が、やけに大きく響く。
教室に近づくにつれて、話し声が聞こえてきた。
誰か残っているのか。
日直だろうか。
それとも、僕と同じように忘れ物を取りに来た生徒だろうか。
近づくにつれて、その声の主が誰なのか、おぼろげながら分かってきた。
低く、威圧的な男の声。
そして、今にも泣き出しそうな、か細い女の声。
心臓が嫌なリズムで跳ねた。
聞き覚えがありすぎる。
女の声は、さっき別れたばかりの玲奈の声だ。
そして男の声は、クラスの中心人物であり、陽キャグループのリーダー格、合田拓海(ごうだ たくみ)のものだった。
なぜ、二人が一緒にいる?
玲奈は「急ぎの用事」と言って帰ったはずだ。
それに、拓海は玲奈の元カレだという噂を聞いたことがある。
玲奈は拓海の話になるといつも口を閉ざすし、僕もあえて触れないようにしていた。
足が止まる。
教室のドアは少しだけ開いていて、そこから漏れる光が廊下に鋭い線を描いている。
僕は息を殺し、壁に背を預けて中の様子を伺った。
盗み聞きなんて趣味は悪い。すぐに飛び出して声をかけるべきだ。
でも、二人の会話の内容が、僕の足を釘付けにした。
「……で? いつまで続けるつもりなんだよ、あんな陰キャとの茶番劇」
拓海の嘲笑混じりの声。
頭を殴られたような衝撃が走った。
茶番劇?
「拓海くん、お願い。もうやめさせて……。私、もう限界だよ」
玲奈の懇願するような声。
震えている。泣いているのかもしれない。
「はあ? 何言ってんの? 最初にお前が言ったんだろ。『あの地味な図書委員、私が落としてみせる』ってよぉ」
「ちが、違う! それは拓海くんたちが……!」
「うるせえな。俺たちがけしかけたとしても、乗ったのはお前だろ? 『罰ゲーム』とはいえ、一ヶ月も付き合えば十分じゃん。なんで三ヶ月も経ってんのに別れてねえんだよ」
罰ゲーム。
その単語が、鋭利な刃物となって僕の心臓を抉った。
罰ゲーム?
僕への告白が?
あの笑顔が?
一緒に過ごした時間が?
全部、遊びだったのか?
血の気が引いていく。指先が冷たくなる。
現実感が急速に遠のいていく中で、聴覚だけが異常に鋭敏になっていた。
「もう……十分でしょ? 彼、すごく良い人なの。私のこと大切にしてくれて……だから、もう傷つけたくないの」
「あーあー、出たよ偽善者ぶったセリフ。良い人? あんな根暗でキモい奴のどこが良いんだよ。お前、まさか本気で惚れたわけじゃねえよな?」
拓海の声が低く、ドスの利いたものに変わる。
机を蹴るような大きな音が響いた。
「ち、違う……! そうじゃないけど……」
「なら証明しろよ」
「え……?」
「今ここで言えよ。あいつのこと、どう思ってるか。俺たちへの報告、まだ聞いてねえんだけど?」
教室の中には、他にも数人の気配があった。
クスクスと下品な笑い声が漏れてくる。
拓海の取り巻き連中だ。
彼らは最初から、このショーを楽しんでいたのだ。
僕というピエロが、身の程知らずな恋に浮かれる様を。
「ほら、早くしろよ玲奈。お前の親父の会社、どうなっても知らねえぞ?」
「……っ! それはズルいよ……!」
「ズルくねえよ。お前が俺の言うこと聞けばいいだけの話だろ? それとも、あの写真、ネットにばら撒かれたい?」
「やめて! それだけは……!」
脅し。
明らかに異常な関係性。
玲奈は弱みを握られているのか。
なら、助けなきゃいけない。
今すぐにドアを開けて、拓海を殴り飛ばして、玲奈を連れて逃げるべきだ。
頭では分かっている。
彼氏として、男として、それが正解だ。
でも、体が動かなかった。
「罰ゲーム」という言葉の呪いが、僕の四肢を縛り付けていた。
もし、脅されているとしても。
告白自体が嘘だったという事実は変わらない。
最初から、僕は笑い者だったのだ。
「……言えよ。天宮駆は、ただのゴミだって」
拓海が楽しそうに急かす。
沈黙が落ちた。
重苦しい、永遠のような数秒間。
僕は心のどこかで期待していた。
玲奈なら、「違う」と言ってくれると。
「彼は大切な人だ」と叫んでくれると。
たとえそれが嘘でも、演技でもいいから、僕を否定しないでくれと。
しかし、その願いは無慈悲に打ち砕かれた。
「……うん。……キモい、よ」
蚊の鳴くような、けれどはっきりとした玲奈の声。
「聞こえねえよ。もっとはっきり言え」
「……駆くんのことなんて、好きじゃない! あんな陰キャ、付き合ってるだけで鳥肌が立つわ! ……これで満足!?」
玲奈の声は、最後の方は半ば叫びのようだった。
教室の中から、爆発的な笑い声が上がった。
「ギャハハハ! 聞いたか今の! 『鳥肌が立つ』だってよ!」
「マジウケるー! 天宮の奴、今頃家でニヤニヤしてんじゃね?」
「一ノ瀬さんも女優だねえ。あそこまで猫かぶれるなんて尊敬するわ」
拓海の満足げな声が響く。
「よーし、合格。じゃあ今日は解放してやるよ。でも分かってるよな? 明日からも上手くやれよ。飽きるまで飼ってやれ、あの雑種犬を」
僕は震える手でスマートフォンを取り出し、録音停止ボタンを押した。
いつの間にか起動していたボイスレコーダー。
そこに記録されたのは、僕の初恋の死亡証明書だった。
ドアの隙間から見えた玲奈の顔。
彼女は両手で顔を覆って泣き崩れていた。
それが悔し涙なのか、罪悪感なのか、あるいは演技の続きなのか、今の僕には判断がつかない。
いや、どうでもよかった。
「キモい」
「好きじゃない」
「鳥肌が立つ」
その言葉だけが、壊れたレコードのように脳内でリフレインしている。
どんな事情があろうと、彼女は僕を切り捨てた。
自分の保身のために、僕の尊厳を踏みにじった。
僕の中で、何かがパチンと弾け飛ぶ音がした。
熱かった体が、急速に冷えていく。
悲しみ? 違う。
絶望? それも少し違う。
湧き上がってきたのは、ドス黒く、粘着質な、昏い感情。
今まで生きてきて一度も抱いたことのない、明確な殺意に近い憎悪。
僕は音を立てないように、ゆっくりと後ずさりをした。
イヤホンなんてどうでもいい。
もっと重要なものを、僕は手に入れたのだから。
廊下を引き返しながら、僕は無意識に口元を歪めていた。
ガラスに映った自分の顔は、泣いているようにも、笑っているようにも見えた。
そうだ。
これは罰ゲームだ。
でも、誰が誰に罰を与えるゲームなのか。
ルールを決めるのは、これからは僕だ。
「……飽きるまで飼ってやるよ、お前らを」
誰もいない廊下で、僕は誰に聞かせるでもなく呟いた。
その声は、自分でも驚くほど冷たく、乾いていた。
教室からはまだ、彼らの楽しげな笑い声が聞こえている。
笑っていればいい。今のうちは。
僕という「陰キャ」が、どれだけ執念深いかを知るまでは。
ポケットの中のスマートフォンを強く握りしめる。
画面の向こうには、玲奈とのツーショット写真が待ち受けとして設定されたままだ。
幸せそうに笑う彼女の顔。
その全てが、今はただのグロテスクな模様にしか見えなかった。
僕は踵を返し、夕闇の迫る校舎を後にした。
足取りは重いが、迷いはなかった。
明日から、僕は演じる。
何も知らない、哀れで幸せなピエロを。
彼らの首にかけたロープを、じわりじわりと締め上げる、その瞬間まで。
空を見上げると、一番星が白く輝いていた。
あの日、玲奈と見上げた星空。
綺麗だねと笑い合った記憶。
それら全てを、僕は記憶のゴミ箱へと放り込んだ。
復讐の幕が上がる。
観客はいない。
役者は揃った。
シナリオは、僕が書く。
さあ、地獄のようなパーティーの始まりだ。
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