シックデイ

真花

シックデイ

 朝に起きて知らない場所にいると言うことはない。寝る前に見た景色がそのまま部屋にある。目覚ましは最大級の音量が出る奴を選んでいるし、起きるべき時間の三十分前から光照射器は働いている。毎日同じ時間に睡眠薬を飲んで、同じ時間に床に着き、部屋の湿度を一定に保ち、ちゃんと暗くて、他の人はいない。目覚ましのベルが鳴るまではとても静かだし、寝る四時間前からはカフェインを摂らない。風呂に入るのも寝る直前にはならないようにしている。アルコール? 飲む訳ないでしょう。生活を一定に保つために飲み会や夜の遊びは一切しないし、夜はテレビもつけない。

 そこまでして、起きられる確率は100パーセントにならない。確率的に朝の自分が存在していることが本当に嫌で、脳の中に気まぐれな蟲を飼っているみたいで、そいつは僕の社会生活の成立の首根っこを常に掴んでいる。駆除しようにも捕まえることが出来ないし、いっそ脳ごと潰してしまえば楽になるのだろうけど、それをすると僕自体も終了してしまう。だから仕方なく外堀を埋められるだけ埋める。若い、手段を選ばなくなる前はもっと起きられる確率が低かった。でももう大人だから、なりふり構わず外堀を埋めた。確率はかなり上がった。仕事が回るくらいにはなった。

 でも、年に何回かだけダメな日がある。もちろん体の具合が悪い日もあるけど、それで説明が出来ない「起きられない日」がある。シックデイと言うしかない、確率が僕をいじめる日だ。今のところの努力ではシックデイをなくすことが出来ていない。でもこれ以上何を眠るために捧げろと言うのだ。正確には起きるためか。アイデアは全部試したし、ネットで調べるだけじゃなく専門家の意見だって聞いた。ないんだよ、これ以上。でもだからと言ってシックデイを受け入れることが、出来ない。

 朝に起きて違うのは僕の感覚だ。眠い、のではない。だるい。それよりももっと強いのが心が動かない感じだ。ほとんどの日ならちょっとの気合いで起き上がれる。そのちょっとの気合いが出ない。出ないどころか混沌とした闇が胸の中にあってその中に陽性の感情とか意志とか意欲とかが全部ずぶずぶと流砂に呑まれるように沈んで行って、すぐになくなってしまう。僕は空っぽだし、考えること自体が上手くいかない。若いときはそのまま停滞して、死ぬのかな、とか思いながら時間を捨てるばかりだった。でも今はたくさんの努力のせいかギリギリ動けて、職場に連絡をすることはする。体調不良としか言いようがないけど、本当はシックデイだ。いや、シックデイも体調不良に含まれるのかな。なんとか連絡を入れても僕の状態は変わらない。布団から動けないし、思考力はほぼないし、何かを休んだ分だけすると言う発想にもならない。ただ布団の上でだるさと、何もない自分とに耐えるだけ。

 数時間経つと、闇が埋まるのか、考えたり何かをしたりしようとすることがやっと出来始める。でもだからと言って外出をしたり、心を動かしたりが出来る訳じゃない。結局布団に戻って回復するのを待つ。そのとき頭の中にあるのは自分がアンコントローラブルである事実だけで、それに魂がゾリゾリと擦り減らされる。何度も何度も同じことを考える。僕はダメな奴だ。僕はもう仕事に行けないのだ。このまま社会的に死ぬのだ。

 五時になるとその呪縛がほどけ始める。もうどう転んでも今日の仕事をすることはないからなのか、時間が十分に回復に充てられたせいなのか、理由は分からない。やっと、活動らしい活動を始めようと思える。ずっと一日あった緊張が緩み始める。スマホを手に取って、鳴らす。恋人はすぐに出た。五時が節目なのは恋人と連絡が取れる時間になるからかも知れない。

「どうしたの?」

「今日、仕事に行けなかった。シックデイだと思う」

「ずっとちゃんと行ってたんだから、いいじゃない、たまには。仕方ないよ」

「もうダメなんじゃないのかな。このまま仕事行けなくなっちゃって、終わるんだ」

「何言ってるのよ。これまでだって次の日からちゃんと行ってたじゃない」

「僕はダメな人間なんだ」

「ただ朝起きられないだけでしょ?」

「その起きられないってのだけで、社会生活は詰むんだよ。だからそうならないように非常な努力をしてる。なのに、シックデイが来る」

「起きられないだけで、君の価値は決まらないよ」

「価値以前に、存在しないのだから、舞台に上がっていない」

「舞台に上がれば君は魅力的だよ。たくさんがんばって、他の全部の日に仕事に行っているんだから胸を張っていいよ。誰だって体調の悪い日はあるんだよ。それと同じだよ。ちゃんと連絡はしたんでしょう?」

「連絡はした。ちょっと遅くなったけど」

「ならルールは守ってるよ。そんなに自分を責める必要はないから」

「みんなが何て言うか」

「誰だって休むでしょう? 迷惑をかけたなら明日ちゃんとフォローすればいい。そんなに悪く言う人なんていないでしょう? そんなに周りと関係悪いの?」

「そんなことはないけど」

「前に休んだときはどうだった?」

「心配してくれた。でも体調不良としか言えない。だるくて、とは言うけど」

「それで十分な誠意だよ。他の人が休むときにフォローをすればいいだけだよ。ほら、大丈夫だから」

「そうかな」

「今日はしっかり、せっかく休んだんだからゴロゴロして、明日に備えなよ。ね、一日なら問題ないから、明日はちゃんと行って、行けば今の不安は払拭されるから」

「明日行けば、か。もし行けなかったら?」

「行ける。シックデイは二日続いたことはないから」

「確かに」

「私が保証する。君は大丈夫。但し、今日をそのためにちゃんと使うなら」

「分かった。そうする。……僕はダメじゃない?」

「ダメじゃない。シックデイがあることは厄介だけど、対処でかなり減らせてはいるけど、それは存在していて、でも、他の全部をちゃんとやっているんだから、ダメじゃない」

「ダメじゃない」

「そうよ。ダメじゃない」

「……分かった。ダメじゃない僕にするために今日を使うよ」

「うん。よかった」

 電話を切ればまた一人切り。カーテンを開ける。太陽が沈むのを嫌がってオレンジ色の悲鳴を上げている。僕の頬が同じ色に染まって、小さな悲鳴がそこから聞こえる。惑わされないで今日を使わなくてはならない。恋人の言葉が奥まで届くまでに空は真っ暗になった。シックデイが終わる、気配がする。僕はいつもの僕に戻っていく。少しずつ自分がダメだと言う思考が溶けていき、明日にはやれるよと思え始める。夜が適正に夜になる。

 今日もいつもの時間に寝る。起きるためにたくさんの装備をしながら。


(了)

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