後日談 光り輝く旅路

一ノ瀬正樹は、静かな日曜日の朝、庭の植木に水をやりながら、遠い空を見上げていた。


一年前のあの悪夢のような日々を、正樹が忘れることはない。一人息子の湊が、大学でのいわれなき中傷と捏造されたスキャンダルによって、すべてを奪われたあの日々。家には昼夜を問わず嫌がらせの電話が鳴り響き、見知らぬ誰かが書いた湊への罵詈雑言がネットの海を埋め尽くしていた。


「お父さん、湊からメールが来たわよ」


居間から弾んだ声で呼びかけてきたのは、妻の佳代子だ。正樹は慌ててジョウロを置き、手を拭きながら家の中へ駆け込んだ。


佳代子が差し出したスマートフォンの画面には、美しい海外の風景写真とともに、簡潔だが温かみのある言葉が添えられていた。


『父さん、母さん。元気にしていますか。こちらの研究所も新しいプロジェクトが軌道に乗り、ようやく少し時間が取れるようになりました。二人の結婚記念日に合わせて、北欧の旅行券を手配したから、たまにはゆっくり羽を伸ばしてきてください。僕は変わらず元気にやっています。また連絡します。 湊より』


正樹は、込み上げてくる熱いものを堪えるように、何度もその短い文章を読み返した。


一年前、湊が「僕はもう一ノ瀬湊として生きることはできない」と言い残して家を出た時、正樹は自分の無力さを呪った。息子が潔白を訴え、科学的な根拠を並べて説明してくれた時、親である自分たちだけは信じていた。だが、世間の猛火から息子を守り抜く術を持たなかった。


あの時、湊の瞳に宿っていたのは、絶望ではなく、この世界そのものへの「冷めた決別」だった。


その後、藤堂という学生の捏造が暴かれ、世間の風向きが手のひらを返したように変わった。大学の幹部たちが土下座せんばかりの勢いで謝罪に来たこともある。湊の内定を取り消した会社が、卑屈な笑みを浮かべて「ぜひ息子さんと連絡を取らせてほしい」と詰め寄ってきたこともあった。


正樹は、それらすべてを玄関先で追い返した。


「息子は、あなたたちに殺されたんです。今さら謝罪だの利益だのと言って近づかないでいただきたい」


あの日、正樹が彼らに向けた言葉は、親としての唯一の抵抗だった。湊の名誉が回復したところで、彼が負った傷が消えるわけではない。湊が自分の名前すら捨てて遠い場所へ行ってしまった事実に、変わりはないのだから。


しかし、湊は死んでいなかった。彼は「ハル・サトウ」という新しい翼を手に入れ、自分たちを裏切った世界を、遥か高みから見下ろす存在へと成長していた。


「湊、本当に立派になったわね。……あの子、あんなにひどい目に遭ったのに、私たちのことだけは、ずっと気にかけてくれて」


佳代子が目尻を拭いながら微笑む。

湊は、自分を陥れた連中には徹底して冷酷だった。一切の謝罪を受け入れず、一切の情けをかけず、彼らが自滅していくのをただ淡々と眺めていた。だが、自分たち両親にだけは、以前と変わらない、いや、以前よりもずっと細やかな愛情を注いでくれている。


「……湊は、自分が守るべきものと、捨てるべきものを、あの地獄の中で決めたんだろうな」


正樹は呟き、湊が送ってくれた航空券の予約確認書を見つめた。

それは、湊が自分の実力で勝ち取った、莫大な報酬の一部なのだろう。


数日後。

正樹と佳代子は、湊が手配してくれた一等車の座席に座り、空港へと向かっていた。

駅の売店には、湊……いや「ハル・サトウ」の特集が組まれた科学雑誌が並んでいる。


『世界を救う若き天才、ハル・サトウの軌跡。日本で見捨てられた才能が、海外で開花した理由とは』


そんな見出しが躍っている。

正樹はそれを一部買い求め、車内でゆっくりとページをめくった。

そこには、かつての「一ノ瀬湊」よりも、ずっと精悍で、確固たる自信に満ちた息子の姿があった。


その雑誌の隅に、湊の短いインタビューが掲載されていた。

『あなたが成功した背景には、何があると思いますか?』という問いに対し、彼はこう答えている。


『私を裏切り、事実を歪めた人々への復讐心はありません。ただ、私を信じ、最後まで味方でいてくれた大切な人たちに、私が正しい場所にいることを証明したかった。それだけが私の原動力です』


正樹は、その一行に救われる思いがした。

湊は、自分たち親のために、あそこまで上り詰めたのだ。

「自分を信じた親の判断は間違っていなかった」と証明するために。


空港に着くと、湊の秘書だという誠実そうな日本人男性が待っていた。


「一ノ瀬様、お待ちしておりました。ハル・サトウ様より、お二人の旅が最高のものになるよう、全力を尽くせと申し付かっております。現地での移動、宿泊、すべて私どもがサポートさせていただきます」

「……すみません、息子がご迷惑をおかけして」


正樹が恐縮して頭を下げると、秘書は首を振って微笑んだ。


「いえ、とんでもございません。佐藤先生……ハル様は、私たちの誇りです。彼のおかげで救われる命が世界中にあります。そんな素晴らしい方を育てられたご両親にお会いできて、光栄です」


その言葉に、正樹は胸が熱くなった。

かつては「犯罪者の親」として後ろ指を指されたこともあった。近所の視線に耐えきれず、買い物に行くのすら躊躇った時期もあった。しかし、湊は自分たちの誇りを取り戻してくれた。


飛行機が離陸し、雲の上に出る。

正樹は窓の外に広がる真っ青な空を眺めながら、佳代子の手をそっと握った。


「佳代子、俺たちは、本当に幸せ者だな」

「ええ……本当に。湊が帰ってきたらたくさんお礼を言いましょうね」

「そうだな。……いや、あいつはきっと、『理屈に合わないからお礼なんていいよ』って笑うかもしれないが」


二人は顔を見合わせて笑った。

その笑顔には、もう過去の陰りは一切なかった。


同じ頃、湊がかつて通っていた大学の周辺では、藤堂駿が借金の取り立てに追われ、佐伯結衣が虚ろな目で湊の幻影を追い続けていた。彼らは永遠に明けない夜の中に閉じ込められ、自らが犯した過ちの重みに喘いでいる。


だが、正樹と佳代子の周りには、湊が作り出した「新しい世界の光」が満ち溢れていた。

湊が贈ってくれたのは、単なる航空券ではない。

彼ら夫婦が、これからの人生を前を向いて歩んでいくための、揺るぎない「光」そのものだった。


北欧のホテルに到着した夜、正樹のスマートフォンにビデオ通話が入った。

画面に映ったのは、白衣を脱ぎ、リラックスした表情の湊だった。


「父さん、母さん。無事に着いたみたいだね。ホテルの料理はどうかな?」

「ああ、湊。最高だよ。景色も綺麗だし……本当にありがとう」


正樹が声を詰まらせると、湊は少し照れくさそうに、かつての少年のような笑みを浮かべた。


「……僕は、二人をあんな目に遭わせたことを、今でも申し訳ないと思っているんだ。だから、これからはもっと親孝行をさせてほしい。僕にはもう、過去のしがらみなんて何もない。ただ、二人が笑って過ごしてくれれば、それが一番なんだ」


湊の言葉は、以前の刺すような鋭さは消え、穏やかな慈しみに満ちていた。

彼は、自分を傷つけた世界を切り捨てることで、本当に大切なものだけを守る力を手に入れたのだ。


「湊、あなたは私たちの自慢の息子よ。……身体にだけは気をつけるのよ」


佳代子の言葉に、湊は力強く頷いた。


「分かってる。次は、僕が住んでいるこの街にも招待するよ。ここは空が広くて、とても静かなんだ。父さんたちも気に入ると思う」


通話を終えた後、正樹はバルコニーに出て、北欧の夜空に輝くオーロラを見上げた。

幻想的な光のカーテンが、夜空を彩っている。


あの日、湊が部室で独り、すべてを失った夜。

正樹は息子と二人で、暗い公園で缶コーヒーを飲んだことを思い出した。


『父さん、僕は間違っていないよね』

『ああ、お前は間違っていない。父さんが保証する』


あの時の言葉が、今のこの光に繋がっている。

湊は、自分の正しさを証明し、自分たちを救ってくれた。


正樹は深く息を吸い込み、冷たく澄んだ空気を胸に溜めた。

隣で佳代子が、オーロラの美しさに感嘆の声を上げている。


自分たちの息子は、世界を救う英雄になった。

だが、正樹にとっては、英雄であることよりも、湊が自分自身を取り戻し、こうして笑い合えることの方が、何千倍も、何万倍も価値がある。


「……さあ、明日も早い。ゆっくり休んで、明日は街を散策しよう」


正樹は佳代子の肩を抱き、温かい部屋の中へと戻った。

二人の旅は、まだ始まったばかりだ。

そして、湊と共に歩む新しい人生も、これからずっと続いていく。


不器用で、理屈っぽくて、誰よりも誠実な息子。

彼が切り開いた未来の先で、正樹と佳代子は、これまでの苦労をすべて洗い流すような、穏やかな幸福の中にいた。


息子を信じて、本当によかった。

正樹は心の中で何度もそう反芻しながら、安らかな眠りについた。


その夢の中には、かつての放課後、幼馴染と笑い合っていた湊ではなく、自分の信じる道を堂々と突き進み、多くの人々に光を届ける、立派な一人の男の姿があった。

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