後日談 技術の空、堕ちる時
「……何ということだ。我々は、一体どれほどの損失を被ったのだ」
蒼空マテリアル本社の役員会議室。重厚な空気の中に、社長である木下の絞り出すような声が響いた。木下の視線の先には、一枚の調査報告書と、そして現在世界中の科学ニュースでトップを飾っている一人の青年の写真がある。
ハル・サトウ。今や、次世代の光子制御ポリマーの父として、ノーベル賞に最も近いと目される若き天才。しかし、木下をはじめとするこの部屋の人間全員が知っている。彼の本当の名は、一ノ瀬湊。一年前、この会社が「倫理的問題」を理由に、内定を無情にも取り消した一人の学生であったことを。
「人事部長、説明したまえ。なぜ彼を、一ノ瀬湊を、我が社は手放した。いや、排斥したのだ」
木下の鋭い視線が、人事部長の佐藤に向けられた。佐藤は脂汗を流し、手元の資料を震える指で押さえながら、消え入りそうな声で答えた。
「……申し訳ございません。当時は、ネット上での炎上が凄まじく、彼に関する捏造された証拠が極めて『それらしく』出回っておりました。当時の担当者は、SNS上での自社ブランドへの批判を恐れ、リスク回避を最優先にしたとのことです。また、彼が潔白を訴えた際も、その説明が非常に論理的、専門的すぎて、当時の人事担当が『理屈で逃げている』と誤認してしまったことも原因の一つかと……」
「理屈で逃げている? 科学者が理屈を述べて何が悪い!」
木下が机を叩いた。その衝撃で、高級なクリスタル灰皿が小さく跳ねた。
「我々はマテリアルの専門企業だ。真実が、データがどこにあるかを見極めるのが仕事だろう。それを、どこの誰が書いたかもわからぬSNSの書き込みや、三流サークルの内輪揉めを信じて、金の卵どころかダイヤモンドの原石を自ら泥の中に投げ捨てたというのか」
会議室に集まった役員たちは、一様に俯いた。彼らもまた、一年前はその決定を「賢明な危機管理」として承認した側だったからだ。当時、一ノ瀬湊という個人を守るために、会社の看板をリスクにさらす価値などないと、全員が冷徹に判断した。その結果、自分たちが今、どれほどの巨大な富と名声を他国に、そして競合他社に奪われたのかを痛感していた。
ステラ・ラボが開発した「フォトニック・スイッチング・ポリマー」。この技術があれば、通信速度は飛躍的に向上し、エネルギー効率はこれまでの常識を覆すレベルで改善される。もし一ノ瀬湊が予定通り蒼空マテリアルに入社していれば、この特許は全て我が社のものになり、今後数十年にわたる圧倒的な覇権を約束されていたはずだったのだ。
「……先ほど、ステラ・ラボに対して、正式に謝罪と協力要請のメールを送りました。私が直接現地へ赴き、当時の過ちを謝罪し、改めて厚遇での採用、あるいは技術提携の提案を行いたいと」
佐藤の言葉に、木下は力なく首を振った。
「無駄だろうな。……実は、既に返信が来ている。特定のルートを通じて、ハル・サトウ氏本人からの伝言だ」
木下は、タブレットを操作し、一通の短い英文を日本語に翻訳して画面に表示した。
『私は、データよりも感情を、真実よりも保身を優先する組織とは、いかなる化学反応も起こさない。私がかつて提示した潔白というデータは、あなたがたによって既に「破棄」された。破棄されたデータが復元されることはない。……さようなら、化石のような組織の方々』
冷徹で、一点の情けもない断絶の言葉。それを見た役員たちは、言葉を失った。
一ノ瀬湊という男は、感情的に怒っているのではない。ただ、合理的な判断として「この会社と関わる価値はない」と結論づけたのだ。それが何よりも残酷であり、何よりも取り返しのつかない拒絶であることを、彼らは理解した。
「社長……まだ諦めるのは早いです。彼をハメた藤堂家を叩き、大学側の責任を追及することで、我が社は彼の味方であったという姿勢を見せれば……」
一人の役員が食い下がったが、木下はそれを冷ややかな目で見据えた。
「君は、まだ自分が彼に見下されていることに気づかないのか。彼は、藤堂だの大学だのという、矮小な人間たちの復讐になど興味はない。彼が見ているのは、もっと先の未来だ。……彼を泥に沈めたのは藤堂という小悪党だが、その泥を踏みつけたのは我々だということを、彼は忘れていない」
その時、佐藤のスマートフォンが激しく鳴った。広報部からの緊急連絡だった。
「社長……大変です。ハル・サトウ氏が、我が社のライバル企業である海外のマテリアル最大手と、包括的な独占提携を結んだと発表しました。……さらに、その声明の中で彼はこう付け加えました。『私が最も信頼を置いていた母国の企業が、私の存在を「ゴミ」として扱ったことに、深い感謝を捧げる。おかげで私は、より高い価値を認めてくれる広い世界へ飛び出す決意ができた』と」
会議室に、絶望的な沈黙が広がった。
これは単なる内定取り消しの不始末ではない。蒼空マテリアルという企業が、世界中から「天才を虐げ、才能を理解できない無能な集団」として公にラベリングされた瞬間だった。株価は既に取引開始から暴落を始めており、主要な取引先からは「倫理観の欠如した企業との取引継続は困難」という問い合わせが相次いでいる。
「……終わったな。我が社のブランドも、未来も」
木下は、窓の外に広がる東京のビル群を眺めた。かつては、この街の頂点に君臨し続ける自信があった。しかし、たった一人の青年の、たった一度の誠実な訴えを無視した報いが、今、巨大な津波となって会社を飲み込もうとしている。
佐藤は、一年前の採用面接の記録を、今一度見返していた。
そこに記された評価シート。
【一ノ瀬湊:評価S。専門知識、論理的思考、革新性において群を抜いている。ただし、やや協調性に欠ける面があり、組織の調和を乱す恐れあり。】
「組織の調和……。そんな下らない言葉で、我々はこの男を縛り、そして捨てたのか」
佐藤は、自分の手のひらを見つめた。
あの日、一ノ瀬湊が内定取り消しの通知を受け取りに来た際、佐藤は彼に冷たく言い放ったのだ。
『君のような問題のある学生を雇うリスクを、我が社が負う理由はないんだよ。社会に出るなら、もう少し上手くやることを学びなさい』
あの時、湊は怒りもせず、ただ静かにこう言った。
『分かりました。佐藤さん、あなたは今、ご自分の判断で会社の未来を一つ、永久に毀損させました。その計算が正しいかどうか、数年後に再確認されることをお勧めします』
当時の佐藤は、負け惜しみだと鼻で笑った。
だが、湊は負け惜しみなど言っていなかった。
彼はただ、数式を解くように、必然的に訪れる未来を予言していただけだったのだ。
「佐藤……君は、辞表を書きなさい。私も責任を取って退く。だが、それで済む問題ではないだろう」
木下は重い腰を上げた。
「これからは、我が社が一ノ瀬湊という名に怯えながら、衰退していく日々が始まる。……彼が世界の中心で光を浴びるたび、我々は自分たちの愚かさを、株主から、社員から、そして世間から永遠に問い続けられることになる」
会議室を出る役員たちの背中は、まるで敗残兵のようだった。
かつて自分たちが「リスク」だと切り捨てた青年は、今や自分たちが手も足も出せない「絶対的な審判者」として君臨している。
一週間後、蒼空マテリアルの株価は上場来の最安値を更新した。
創業以来の危機。リストラの嵐が吹き荒れ、優秀な技術者たちは次々と競合他社へ、そして一ノ瀬湊が支援する新しい研究所へと流出していった。
会社の中庭に立つ、創業者たちの銅像が、どこか皮肉げに彼らを見下ろしている。
かつては「技術の蒼空」と謳われた名門企業が、たった一人の「理屈っぽい青年」を信じることができなかったがために、その空を失い、深い泥の中へと沈んでいく。
その一方で、ステラ・ラボから新しいニュースが届く。
「ハル・サトウ、海水の淡水化コストを百分の一にする新素材を発表。水不足に悩む国々へ無償で技術提供」
世界中の人々が彼を「救世主」として称える。
その輝かしい功績が語られるたび、注釈として、日本の企業が彼をいわれなき罪で切り捨てたというエピソードが、笑い話のように引用される。
『一ノ瀬湊を捨てた会社、蒼空マテリアル』
その不名誉な名前は、湊の功績が歴史に刻まれる限り、永遠に消えることはない。
彼を認めなかったこと、彼を裏切ったこと。
その報いは、金銭的な損失よりも遥かに深く、魂を削り続ける後悔として、残された者たちを苦しめ続ける。
真実が明らかになった時、そこに彼はもういなかった。
彼は、自分を拒絶した古い世界をただ置き去りにして、誰も辿り着けない高みへと、一人で登り切ってしまった。
佐藤は、誰もいなくなった人事部のオフィスで、湊の履歴書をシュレッダーにかけた。
だが、紙が細断される音を聞きながら、彼は知っていた。
どれだけ物理的な証拠を消そうとも、自分が「最高傑作」をゴミ箱に放り込んだという事実は、死ぬまで自分を呪い続けるということを。
「……すまなかった、一ノ瀬君」
その呟きも、空調の音に消されるだけ。
彼の謝罪が届くことは、もう二度とない。
湊にとって、この会社は、既に計算から除外された、無価値な「ゼロ」なのだから。
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