後日談 知性の墓標
国立大学理学部の学部長室には、重苦しい湿り気を帯びた沈黙が停滞していた。
窓の外には、例年と変わらず美しく咲き誇る桜が風に舞っている。しかし、その華やかさとは対照的に、部屋の中にいる男たちの顔は、死人のように土気色をしていた。
「……信じがたい。これほどの損失を、我々はどう説明すればいいのだ」
学部長である大河内は、震える手でタブレット端末を握りしめていた。画面に映っているのは、権威ある国際学術誌のトップページだ。そこには、かつてこの学部の三年生だった「一ノ瀬湊」が、別名義である「ハル・サトウ」として発表した最新論文が掲載されていた。その内容は、世界のエネルギー産業の勢力図を一変させるほどの破壊力を持った、次世代ポリマーによる光子制御技術の完成を告げるものだった。
「経済学部や法学部の連中は、まだ事の重大さを分かっていない。ネット上の炎上騒ぎが収まれば、大学の評価も元に戻ると思っている。……だが、理系は違う。我々は、たった一人の学生を追い出したのではない。わが大学の、いや、この国の今後五十年の科学的地位をドブに捨てたのだ」
大河内の隣で、事務局長の佐々木が苦々しく、しかし絶望的な口調で言葉を継いだ。
「それだけではありません、学部長。今朝、主要な提携企業三社から、共同研究の中止と寄付金の引き揚げについて正式な通達が届きました。理由は一様に『倫理的な信頼の欠如』。一ノ瀬氏が所属するステラ・ラボが発表した、わが大学への永久拒絶声明を重く受け止めた結果でしょう。……事実上の、兵糧攻めです」
大河内は、胃の奥が焼け付くような痛みに襲われた。
一年前、あの騒動が起きた時、彼は「学生同士のトラブルに深入りすべきではない」という消極的な態度を貫いた。藤堂駿という、有力な実業家の息子が関わっていたこともある。捏造された写真がネットで拡散され、一ノ瀬湊への非難が嵐のように吹き荒れた際、大学側は「調査中」という名目で彼を放置し、世間のバッシングという名の暴力に無防備なまま晒し続けた。
そして、彼が耐えきれずに退学届を持ってきた時、大河内は内心で安堵したのだ。これで厄介払いができた、騒ぎは収束に向かうだろう、と。
「……あの日、一ノ瀬君は私の目の前で言ったんです。『この写真は偽造です。ピクセルの整合性を見ればわかります』と。彼は最後まで、感情ではなく事実に基づいて潔白を訴えていた。……それを私は、理屈で逃げるな、誠意を見せろと、精神論で切り捨てた」
大河内の脳裏に、あの日の一ノ瀬湊の瞳が蘇る。絶望でもなく、怒りでもなく、ただ「無能な観測者」を憐れむような、底冷えのする静かな瞳。彼はあの瞬間、この大学という組織そのものを、自身のデータから「不要な変数」として切り捨てたのだ。
「学長からは、一ノ瀬氏との和解のために全力を尽くせと命じられていますが……」
佐々木が溜息をつきながら、分厚い書類を机に置いた。
「ステラ・ラボの顧問弁護士からは、既に十回以上の面会拒否通告が届いています。メッセージは常に同じです。『ハル・サトウ氏は、過去の知性なき集団との対話を、人生の資源の無駄遣いと考えている』。……彼らにとって、我々はもはや対等な人間ですらない。ただの、排除されたバグのような扱いですよ」
その時、廊下から数人の学生が騒ぐ声が聞こえてきた。理学部の学生たちだ。
「おい、見たか? 別の国立大の物理学科に、ステラ・ラボから多額の資金提供が決まったらしいぞ。……いいよな、あっちの大学は。うちは『天才を追い出した無能大学』って世界中で笑われてるのに」
「一ノ瀬の件、まだ引きずってんのかよ。……まあ、俺らもあの時、SNSで拡散するの楽しんでたけどさ。あんな化け物になるなんて思わないじゃん」
学生たちの無責任な会話が、大河内の鼓膜を鋭く突く。
この大学に残されたのは、自分の保身しか考えなかった教職員と、目先の娯楽のために同級生を泥に沈めた、想像力に欠ける学生たち。そんな腐敗した土壌で、今後どのような研究成果が生まれるというのか。
大河内は立ち上がり、ふらつく足取りで事務局長と共に、かつて一ノ瀬湊が所属していた実験室へと向かった。
実験室の中は、当時と変わらない機材が並んでいる。しかし、湊が好んで座っていた一角だけは、不思議と時が止まったような、冷ややかな静寂が漂っていた。
「……ここですね」
佐々木が指差したのは、湊が退学する直前まで整理していた棚だった。そこには、彼が使い古した一冊の実験ノートが、まるで忘れ形見のように残されていた。本来であれば、退学時に本人が持ち帰るか、大学側で処分されるべきものだ。
大河内は震える手で、そのノートを開いた。
そこには、緻密で美しい数式と、実験結果に対する極めて冷静な考察が、びっしりと書き込まれていた。
ノートの最後の方、騒動が激化していた時期のページをめくると、そこには一箇所だけ、数式以外の言葉が記されていた。
『事実は、観測者の主観によって歪められるべきではない。しかし、人間という不完全な装置を前提にするならば、真実は孤独の中にしか存在し得ない』
その言葉は、湊がこの大学で見つけた唯一の「結論」だった。
大河内は、ノートを閉じて強く目を瞑った。
彼は今になって、自分がどれほどの重罪を犯したのかを痛感していた。
教育機関としての大学の役割は、真理を追求する若者の翼を広げることであって、それを折り、泥沼に叩き落とすことではない。だが、この大学は、藤堂駿という権力への忖度と、SNSという実体のない世論の圧力に屈し、真理そのものを排斥したのだ。
「事務局長。……わが大学の今年の志願者数は、どうなっている」
「……昨年度比で四割の減少です。特に理学部の志願者は激減しています。優秀な層ほど、わが大学の倫理観と研究環境を疑問視し、他大学へ流出している。……このままでは、あと数年で学問的な水準を維持できなくなります」
佐々木の声は、もはや葬儀の弔辞のようだった。
湊が発明した新技術は、ステラ・ラボを通じて世界中に提供され始めている。だが、その恩恵を授かるリストの中に、わが大学の名前はない。最新の機材、潤沢な研究資金、そして何より、世界を変える発見に立ち会うという誇り。その全てを、この大学は永遠に失ったのだ。
「学部長、藤堂駿の件ですが……。ご実家から、再度の情状酌量の嘆願書が届いています。一ノ瀬氏が刑事告訴の手を緩めないため、このままでは実刑が免れないと」
「……捨て置け」
大河内は、吐き捨てるように言った。
「藤堂家も、その息子も、自業自得だ。彼らが一人の青年の未来を奪った報いを受けるのは当然のこと。だが、本当に償うべきは、それを許容した我々だ。……私は今日、辞表を出すことにする。佐々木君、君も覚悟しておきなさい」
大河内は、窓の外の桜を見上げた。
一年前、あの木の下を、一ノ瀬湊はどんな思いで通り過ぎたのだろうか。
全てを奪われ、名誉を汚され、信じていた恋人にも裏切られ。
そんな彼が、たった一人で北の果てへと向かい、そこから世界を塗り替えるための知性の剣を研ぎ澄ませていた。
その凄まじい精神力と、裏打ちされた圧倒的な才能。
そんな「本物」を、自分たちは「理屈っぽい」「可愛げがない」という下らない尺度で測り、捨て去った。
夕刻。
大学の正門前では、マスコミのヘリコプターが旋回していた。
ハル・サトウが、ノーベル賞の最有力候補として海外の権威ある賞を受賞したという報が入ったのだ。
「取材はお断りだ……。我々に、彼について語る資格など一文字もない」
大河内は、門をくぐり、一人で大学の敷地を出た。
背後にある白亜の学舎が、今は巨大な墓標のように見えた。
駅へと続く道すがら、彼はスマートフォンの画面を眺めた。
SNSでは、湊の過去を掘り起こした有志たちが、この大学の当時の対応を今もなお執拗に叩き続けている。
『一ノ瀬氏の才能を見抜けず、クズの藤堂を擁護した無能大学のリストはこちら』
『学問の府ではなく、嫉妬と捏造の府』
デジタルタトゥーは、湊に対してだけでなく、この大学に対しても深く刻まれていた。
真実が明らかになった時、そこに彼はもういなかった。
そして、彼がいなくなった後の荒野に、自分たちは永遠に留まり続け、過去の過ちという名の亡霊に追われ続ける。
大河内は、歩みを止め、遠い北の空を仰いだ。
そこには、自分たちの手の届かない、冷徹で美しい知性の極北がある。
一ノ瀬湊は、もう二度と振り返ることはない。
彼にとって、この大学での三年間は、人生という壮大な実験における、一つの「失敗した対照実験」に過ぎないのだから。
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