後日談 残された亡霊たち

国立大学の卒業式を間近に控えた三月。かつて華やかな喧騒に包まれていたはずの学生ラウンジは、まるでお通夜のような静寂に支配されていた。


「……なあ、聞いたか。結局、内定先から連絡が来たよ。例の件について詳しく話を聞きたいってさ」


コーヒーカップを握る手が震えているのは、経済学部の四年、田中だ。彼は一年前、あのイベントサークル「ブライト」で、誰よりも声高に一ノ瀬湊を罵倒していた中心メンバーの一人だった。


「俺もだよ。二次面接まで順調だったのに、急に『大学での活動実績について調査が必要になった』って言われて……。どう考えても、あの動画のせいだよな」


向かい側に座る佐藤も、顔面を蒼白にしている。二人の視線の先、スマートフォンの画面には、YourTubeで拡散され続けている一本の動画が映し出されていた。それは、かつて湊が糾弾されていた部室での隠し撮り映像だ。


映像の中の自分たちは、事実を確認しようともせず、藤堂が用意した薄っぺらな捏造写真を根拠に、湊に向かって「消えろ」「サイコパス」と嘲笑を浴びせている。その醜悪な「正義感」に酔いしれた顔が、高画質で世界中に晒されているのだ。


「あの時は、藤堂さんが言うなら間違いないって、みんな思ってたじゃないか。一ノ瀬だって、あんな風に理屈ばっかり並べるから、余計に怪しく見えたんだよ。俺たちは悪くない、騙されただけなんだ」


田中の言葉は、虚しくラウンジに響いた。一年前、彼らは湊を追い詰めることを一種の娯楽として楽しんでいた。優秀で鼻につく理系の秀才が、自分たちが用意した「物語」によって失脚していく様。その支配感こそが、彼らが求めていた快楽だった。


しかし、その代償はあまりにも重かった。


藤堂駿が逮捕され、捏造が明るみに出た直後、サークル「ブライト」は大学側から公認を取り消された。それだけではない。ネット上の有志たちによって、映像に映っていたメンバー全員の氏名、SNSのアカウント、果ては就職内定先までもが特定され、デジタルタトゥーとして刻み込まれた。


「……結衣ちゃんはどうしてる?」


佐藤が思い出したように尋ねた。湊の元恋人であり、今回の騒動の最大のヒロイン……いや、最大の「加害者」と言い換えられる女性のことだ。


「結衣ちゃんなら、とっくに休学して実家に引きこもってるよ。たまにTwotterで目撃情報が出るけど、見る影もなく痩せて、ずっと下を向いて歩いてるってさ。……あいつ、湊くんに何度も謝罪のメールを送ったらしいけど、全部ブロックされて、最後には弁護士から通告書が届いたんだって。『今後一切の接触を禁じる。これ以上の執着はストーカー行為とみなす』って。徹底してるよな」

「……いつだってあいつは徹底してたよな。感情じゃなくて、事実でしか動かない」


二人は重い溜息をついた。彼らが最も恐れているのは、湊からの直接的な復讐ではなかった。湊が自分たちを「存在しないもの」として扱い、自分たちがどれほど悲惨な状況に陥ろうとも、微塵の興味も示さないという、究極の無関心だった。


かつて自分たちが彼を「消去」したつもりでいたが、実際には湊によって、自分たちの「まともな未来」が消去されていたのだ。


その時、ラウンジに設置された大型モニターが、海外発の経済ニュースを報じ始めた。


『ステラ・ラボ代表、ハル・サトウ氏が、若手研究者のための大規模な奨学金財団を設立。総額は数百億円規模……』


画面に映し出された湊は、あの日、部室で土下座を強要されていた時とは別人のような、圧倒的なオーラを纏っていた。彼は流暢な英語で、未来の科学技術への投資について熱弁を振るっている。


「……あいつ、本当に遠くへ行っちゃったんだな」


田中が、乾いた笑い声を漏らした。

自分たちが狭いキャンパス内で、誰がカーストの頂点だの、誰の女が可愛いだのという低俗な争いに興じていた間、湊は孤独の中で、世界を塗り替えるための準備を進めていた。


自分たちは湊の人生において、単なる「エラー値」に過ぎなかったのだ。それも、一度デバッグしてしまえば、二度と読み込まれることのない、不要なログ。


「なあ。俺たち、これからどうすればいい? 卒業したって、どこも雇ってくれない。履歴書にこの大学の名前を書くたびに、あの事件を思い出される。……一生、このレッテルを背負って生きていくのか?」


佐藤の問いに、答えられる者は誰もいなかった。

かつて彼らが湊に投げつけた「言葉」という石は、今、巨大な隕石となって自分たちの頭上に降り注いでいる。


そこへ、一人の後輩が通りかかった。かつて「ブライト」に入りたがっていた、大人しい一年生だ。


「あ、田中さん。……あの、これ、落としましたよ」


後輩が差し出したのは、かつて「ブライト」が作成した、昨年の新歓パーティーのパンフレットだった。表紙には、満面の笑みで肩を組む藤堂とメンバーたち。そして、その隅っこで、結衣に寄り添って少し照れくさそうに笑う湊の姿があった。


田中はそのパンフレットを奪い取るように受け取ると、震える手でそれをぐちゃぐちゃに丸めた。


「……こんなもの、もう見たくない」

「田中さん、顔色が悪いですよ。何かあったんですか? ネットでは、一ノ瀬さんの成功で大学の知名度が上がって嬉しい、なんて言ってる人もいますけど」


何も知らない後輩の無邪気な言葉が、田中の心を鋭く抉った。

知名度。確かに、この大学の名前は世界中に知れ渡った。だが、それは「天才・一ノ瀬湊を育てた大学」としてではなく、「天才を虐げて追い出した、愚かな凡人たちの巣窟」としてだ。


後輩が去った後、田中は丸めたパンフレットをゴミ箱に叩きつけた。


「……もし、あの時」


佐藤がぽつりと呟いた。


「もし、藤堂さんが写真を持ち出した時、俺たちが『これはおかしい』って一言でも言っていれば。あいつの理屈を、『難しい』って切り捨てるんじゃなくて、ちゃんと聞こうとしていれば……。今頃、俺たちは自慢の友人の成功を、シャンパンでも開けて祝えてたはずなのに」


その言葉は、最も残酷な「もしも」だった。

成功者の友人として、光の中にいたはずの自分たち。

だが現実は、薄暗いラウンジの隅で、届くはずのない内定通知を待ち続ける、社会的な亡霊だ。


田中はスマートフォンのMINEを開いた。かつて数百人のメンバーがいた「ブライト」のグループトーク。今は退会者が続出し、残っているのは、お互いの不幸を慰め合うこともできない、数人の「加担者」たちだけだ。


最後に残された投稿は、三ヶ月前の、誰かの弱々しい一言だった。


『誰か、湊くんに連絡取れる人いない? 本当に、本気で謝りたいんだ。このままだと、俺、死ぬしかないよ』


その投稿には、誰からも返信がついていなかった。

謝罪。彼らが今更求めているのは、湊への償いではなく、自分たちが救われるための免罪符だ。そんな下卑た本心を、湊が見抜かないはずがない。


湊は、彼らを許さない。

だが、復讐もしない。

ただ、彼らの存在を、自分の高潔な人生というプログラムから完全にデリートした。


「……行こうぜ。ここにいても、何も変わらない」


田中が立ち上がった。その背中は、以前の自信満々なものとは程遠く、まるで老人のように丸まっていた。


ラウンジの外に出ると、初夏の陽光が容赦なく彼らを照らした。

キャンパスの掲示板には、新入生を勧誘する新しいサークルのポスターが並んでいる。そこにはもう、「ブライト」の名前はない。


自分たちが必死に守ろうとした「居場所」は、最初から幻のようなものだった。一人の誠実な人間を犠牲にして成り立つような場所が、永続きするはずがなかったのだ。


ふと、田中は大学の正門へと向かう結衣の姿を見かけた。

久々に見た彼女は、以前の面影がないほどやつれ、うつろな目で地面を見つめて歩いていた。彼女の手には、湊へ宛てたものだろうか、何通目かも分からない手紙が握られている。


彼女は正門の前で立ち止まり、門の向こう側に広がる空を仰いだ。

そこには、自分たちを置き去りにして加速し続ける、湊の住む世界へと繋がる空があった。


結衣は、一歩も門の外へ出ることができず、その場で泣き崩れた。

誰も彼女を助けようとはしなかった。通りかかる学生たちは、関わり合いを避けるように彼女を迂回していく。かつて「結衣ちゃんを守る会」を自称していた男たちも、今は自分の保身に必死で、彼女のことなど見向きもしない。


「……因果応報、か」


田中は自嘲気味に呟き、結衣から目を逸らして歩き出した。


彼らが選んだ「その場の空気」という名の狂気は、結果として自分たちの人生を窒息させた。

真実から目を逸らし、強い者に媚び、一人の潔白を笑いものにした報い。


湊は今、新しい技術で世界中の人々に水を届け、エネルギーを届け、希望を届けている。

一方で自分たちは、誰からも必要とされず、誰からも信用されず、ただ過去の罪に怯えながら、細々と息を繋いでいく。


一ノ瀬湊がいなくなった世界で、彼らは初めて、自分たちの「空っぽな正体」を突きつけられたのだ。


田中のポケットで、スマートフォンのバイブが鳴った。

恐る恐る画面を見ると、母親からの着信だった。


「……もしもし、母さん」


『あんた、また会社から断られたって本当? お父さんも、もうあんたの面倒は見られないって言ってるわ。近所の人たちも、あのネットの動画を見て……。もう、この街にはいられないわよ』


母親の泣き声が、スピーカー越しに突き刺さる。

田中は言葉を失い、ただ電話を切った。


彼にはもう、帰る場所もなかった。


ふと、空を見上げると、一機の飛行機が白い雲を引いて、北の方角へと飛んでいくのが見えた。

あの中には、輝かしい未来を掴み取ろうとする人々が乗っているのだろう。

そしてその未来を作っているのは、自分たちが泥に突き落とした、あの不器用で理屈っぽい、誠実な青年なのだ。


田中は、膝から崩れ落ちた。

コンクリートの熱さが、手のひらに伝わってくる。


「ごめん……ごめん、一ノ瀬……。俺が、俺たちが、間違ってたんだ……」


その謝罪は、誰の耳にも届くことなく、夏の風に攫われて消えた。


真実が明らかになった時、そこに彼はもういなかった。

そして、彼がいなくなった世界に残されたのは、自分たちの犯した罪という名の、永遠に明けない夜だけだった。

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