後日談 藤堂家崩壊
藤堂グループ本社の最上階。重厚なマホガニーのデスクを前に、藤堂正臣(とうどう まさおみ)は、震える手でタブレット端末の画面を見つめていた。画面には、かつて自分の自慢の息子であったはずの駿が、薄汚れた警察署の廊下を項垂れて歩く姿が、ニュースサイトのトップ記事として掲載されていた。
「なぜだ……。教育も、人脈も、将来の椅子も、全てを与えてきたはずなのに」
正臣は深く椅子に背を寄せて、天井を仰いだ。彼の人生は、常に計算と勝算に満ちたものだった。一代で地方の不動産業を全国区のグループ企業へと押し上げた自負がある。その成功の象徴こそが、容姿端麗で、学業も優秀、誰もが羨むエリートの道を歩んでいた長男の駿だった。
だが、その完璧なはずの歯車は、たった一人の「名もなき大学生」を陥れたという愚行によって、無残にも粉砕された。
秘書がノックもそこそこに部屋に入ってきた。その青ざめた表情が、事態がさらに悪化していることを告げていた。
「代表、失礼いたします。……蒼空マテリアル、および提携先の数社から、正式な契約解除の通知が届きました。理由は『コンプライアンス上の懸念』。それから、メインバンクからも緊急の呼び出しが入っております」
「……そうか。やはり、そこまで来たか」
正臣の声は掠れていた。藤堂家が築き上げてきた信頼は、砂の城のように崩れ去ろうとしていた。世間は、一人の天才を組織的に追い詰めた藤堂駿という男の背後に、グループ全体の体質を見ているのだ。
「駿に会わせてくれ。警察の接見室でいい」
「……いえ、それが、駿様は現在、精神的な錯乱を理由に医療施設への移送が検討されているとのことです。面会は一切拒否されており、弁護士に対しても『一ノ瀬さえいなければ』という呪詛を繰り返すばかりで、対話にならないそうです」
正臣は、拳を握りしめた。
自分の息子がそこまで愚かだったとは、認めがたい事実だった。単なる嫉妬。それだけの理由で、未来のノーベル賞候補とも目される男を貶め、挙句の果てに自分たちの首を絞めた。
「一ノ瀬湊……。調べさせた、例のステラ・ラボの件はどうなった」
「……最悪の結果です。ステラ・ラボ側は、ハル・サトウ氏の強い意志により、我がグループとの一切の対話を拒絶しています。私設秘書を通じて『過去の負債を清算するつもりはない。ただ、自らの重みで崩れ去るのを見守るだけだ』との伝言がありました。これは事実上の、宣戦布告ですらない無視……。完全に、視界の外に置かれています」
正臣は、吐き気を覚えた。
自分たちがどれだけ金を積もうが、頭を下げようが、相手はそれを受け取る必要すらない。彼らは、藤堂グループという巨大企業が、自分たちの「知性」という圧倒的な暴力によって、勝手に自滅していく様子を、高みの見物で眺めているのだ。
その夜。正臣は、駿がかつて使っていた自室にいた。
最高級の家具、並べられたトロフィー、そして棚には、駿がかつて湊から奪い取った女性、佐伯結衣との仲睦まじい写真が飾られていた。
正臣はその写真を手に取り、床に叩きつけた。
「女一人、プライド一つ守るために、家柄を捨てたか……!」
彼は写真に写る結衣の笑顔を憎んだ。だが、それ以上に、その女の浅はかな同情に縋り、偽りの勝利に浸っていた自分の息子の脆弱さが許せなかった。藤堂家という血筋は、もっと冷徹で、もっと計算高いものであるべきだった。
しかし、冷静になって考えれば、正臣自身もまた、駿の報告を鵜呑みにしていた。駿が「大学で目障りな奴を一人、片付けた」と笑って話した時、正臣は「世渡りも実力のうちだ」と、それを黙認したのだ。一人の若者の人生がどうなろうと、藤堂家の繁栄に寄与するならば構わないと。
その代償が、これだ。
藤堂グループの株価は、連日のストップ安を記録していた。ネット上では、駿の過去の非道な行いだけでなく、グループ企業の過去の不祥事までが掘り返され、炎上の火の手は収まる気配がない。
数日後。正臣は、自宅の庭園で、かつての友人を迎えていた。
地元の有力者であり、政界にも顔が利く男だ。正臣はプライドを捨て、土下座せんばかりの勢いで助力を求めた。
「頼む、このままでは先祖代々の土地まで手放さなくてはならない。駿は切り捨てる。あいつはもう、私の息子ではない。だから、グループだけは……」
友人は、冷めた目をして正臣を見下ろしていた。
「正臣。お前はまだ分かっていないようだな。今回の件は、単なるスキャンダルじゃない。お前の息子が手を出したのは、この国の、いや世界の『未来』そのものだ。一ノ瀬湊という男がもたらす富は、お前のグループの総資産の何百倍にもなる。そんな男を、一時の感情で潰そうとした一族に、誰が味方すると思う?」
「……しかし、私たちは知らなかったんだ! 駿が独断でやったことで……!」
「それを証明できるか? お前たちは彼が大学を去った後も、自分の人脈を使って彼を就職市場から排除しようとしただろう。蒼空マテリアルへの圧力も、お前の息がかかっていたと聞いている。……いいか、一ノ瀬氏は、それを全て記録していたそうだ。彼のような理詰めの男を敵に回して、勝てるはずがないだろう」
友人は立ち上がり、振り返ることもなく去っていった。
正臣はその場にへたり込み、枯れた芝生を握りしめた。
一ノ瀬湊は、何もしていなかった。
彼はただ、自分の才能を証明し、世界に認められただけだ。
ただそれだけで、藤堂家が築き上げてきた全てが、汚物のように扱われ、社会から排除されていく。
「復讐……。これこそが、本当の復讐か」
自分の手を汚す必要さえない。
ただ、圧倒的な正しさと、圧倒的な価値を示し続ける。
そうすれば、嘘と虚栄で塗り固められた藤堂家のような存在は、勝手にその重力に耐えられなくなって自壊する。
数か月後、藤堂グループは事実上の倒産に追い込まれた。
正臣は、全ての役職を解かれ、広大な屋敷も、コレクションの車も、全てを債権者に明け渡した。
残されたのは、古びた賃貸アパートの一室と、多額の借金。
そして、かつて「勝ち組」と自称していた自分への、冷ややかな視線だけ。
正臣は、安酒の瓶を握りしめ、テレビのニュースを見た。
画面には、ステラ・ラボの新しい支部が海外に設立されたというニュースが流れている。湊は、より広い世界へと、その翼を広げていた。
「駿……。お前は、本当に、とんでもないものを捨てたんだな」
正臣は、震える声で呟いた。
あの時、駿が一ノ瀬湊を友として迎え、その才能に敬意を払っていれば。
藤堂グループは今頃、この世紀の大発明のパートナーとして、世界最高の栄華を誇っていたはずだった。
だが、現実は違った。
一人の若者の嫉妬が、一族の命脈を断った。
一人の女性の裏切りが、崩壊の引き金を引いた。
そして、その全てを論理的に見越し、自分たちの居場所をこの世から「消去」したのが、あの一ノ瀬湊という青年だったのだ。
正臣は、酒を煽り、暗い部屋の隅で膝を抱えた。
テレビの中の湊は、あの日と変わらない、静かで澄んだ瞳で遠くを見つめていた。
その視線の先には、藤堂正臣も、駿も、結衣も、もう誰一人として映っていない。
真実が明らかになった時、そこに彼はもういなかった。
そして、彼がいなくなった後の世界で、自分たちは、永遠に償いきれない後悔の重みに耐えながら、泥水を啜って生きていく。
「おしまいだ……。藤堂家は、終わったんだ……」
暗闇に、正臣の慟哭が響いた。
だが、その声は、壁を越えて誰かに届くことはなかった。
かつての栄光も、誇りも、全ては一ノ瀬湊という名の「正論」の前に、塵となって消えていったのだから。
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