第6話 新しい朝

一ノ瀬湊が大学を去ってから、一年が経とうとしていた。


季節は巡り、キャンパスの桜は満開の時を終え、若葉が眩しい初夏の兆しを見せている。例年であれば、新しい生活に胸を躍らせる新入生たちの活気に溢れる時期だが、今年のこの大学には、どこかどんよりとした停滞感が漂っていた。


理学部の掲示板の前では、数人の学生が力なく溜息をついていた。


「……また不採用だよ。これで十社目。面接に行くとさ、必ず聞かれるんだ。『君の大学の理学部、例の事件で有名だよね』って。皮肉たっぷりに言われるのが一番きつい」

「俺もだよ。あの一件以来、この大学の理系は『倫理観の欠如した学生を育てる場所』っていうレッテルを貼られちまった。藤堂とかいうクズがやったことなのに、なんで俺たちが割を食わなきゃいけないんだよ」


彼らの不満は、もはや湊への憎しみですらなかった。ただ、自分たちの将来を台無しにした「環境」への呪詛だ。かつて湊を指差して笑った者も、沈黙して傍観していた者も、今は等しく「母校のブランド失墜」という報いを受けていた。


かつてのサークル「ブライト」のたまり場だったラウンジは、今や閑散としている。あの日、湊を糾弾した中心メンバーたちは、大学側からの厳しい処分と、ネット上での特定作業によって社会的な居場所を失った。ある者は実家に連れ戻され、ある者は精神を病んで休学し、ある者は名前を変えて遠くの街へ逃げ出した。


誰もが、あの日の自分の行動を後悔していた。しかしそれは、湊を傷つけたことへの反省ではなく、「もしあの時、別の選択をしていれば、今の自分はもっと幸せだったはずだ」という、醜い損得勘定に基づいた後悔だった。


そんな中、佐伯結衣は一人、大学の裏手にある小さな公園のベンチに座っていた。


彼女は大学を休学していた。就職活動も、友人との付き合いも、全てを放棄して、ただただ過ぎ去る時間をやり過ごす日々。彼女の手元には、最新の研究者名鑑が開かれている。そこには、特集記事として「ハル・サトウ」のインタビューが掲載されていた。


記事の中の彼は、異国の地の広大な研究施設で、世界中のエリートたちに囲まれて笑っていた。その笑顔は、結衣が知っている「一ノ瀬湊」のそれよりも、ずっと自由で、ずっと遠い存在に見えた。


「……湊。あなたは、本当にあそこへ行ってしまったのね」


結衣は、ページをめくる指が震えるのを止められなかった。記事の中で、彼は自分の過去について一切触れていなかった。まるで、この大学で過ごした三年間や、彼女と過ごした日々など、最初から存在しなかったかのように。


結衣は、一ヶ月前に彼へ送った最後の手紙を思い出した。返信が来ないことは分かっていたが、書かずにはいられなかった。自分の罪を告白し、どれほど後悔しているか、そしてどれほど彼を愛していたかを、何十枚もの便箋に綴った。


だが、その手紙は、ステラ・ラボの事務局から『受取拒否』として戻ってきた。同封されていたメモには、事務的なフォントでこう記されていた。


『当研究所の職員は、過去の知人および関係者からの個人的な信書を一切受け付けない契約となっております。今後の送付は法的措置の対象となる可能性がありますので、ご遠慮ください』


その冷徹な拒絶が、今の湊からの唯一の返答だった。


同じ頃、一人の男がどん底の淵にいた。


藤堂駿。彼は今、実家の支援を完全に断たれ、都内の場末にある狭いアパートで、日雇いの労働を繰り返しながら食い繋いでいた。かつての華やかな生活は見る影もなく、頬はこけ、目は充血し、衣服からは不潔な臭いが漂っている。


「……一ノ瀬……一ノ瀬さえいなければ……っ」


藤堂は、割れたスマートフォンの画面で、湊の活躍を報じるニュースを眺めては呪いの言葉を吐いていた。だが、彼がどれだけ画面に向かって叫ぼうとも、湊には届かない。それどころか、彼の悪行を告発するYourTube(ユアチューブ)の動画は今も再生数を伸ばし続け、コメント欄には彼を「人間のクズ」と嘲笑う言葉が無限に書き込まれている。


藤堂は、かつてのコネを頼っていくつかの企業に潜り込もうとしたが、そのたびに「藤堂駿」という名前が足枷となった。検索エンジンに名前を入れれば、真っ先にあの捏造事件と退学処分のニュースが出てくる。社会的な死。彼は、自分が湊に与えたはずの絶望を、何倍にも膨れ上がった形で自分自身が飲み込むことになったのだ。


「誰か、助けてくれ……。俺は藤堂グループの……エリートのはずなんだ……」


暗い部屋で一人、彼は虚空に向かって手を伸ばすが、その手を握ってくれる者はもう世界に一人もいなかった。


一方、北の空の下。


ステラ・ラボの最上階。夕暮れ時の海を一望できるオフィスで、ハル・サトウ——湊は、新しいプロジェクトの資料を整理していた。


「佐藤さん、日本からまたコンタクトがありました。某国立大学の学長が、公式に謝罪の場を設けたいと。それから、蒼空マテリアルの社長からも、是非一度会って誤解を解きたいという要請が来ています」


秘書の女性が、タブレットを操作しながら報告する。湊は窓の外を見つめたまま、微塵も表情を変えなかった。


「断ってください。謝罪に割く時間は、僕のスケジュールには一秒も残っていません。それに、誤解など存在しない。そこにあるのは、過去に起きた客観的な事実だけです」

「……承知いたしました。それから、佐伯結衣という女性から、再度面会の申し込みが来ていますが」

「その名前は、ブラックリストに入れておいてくださいと言ったはずです。僕の人生において、彼女は既に観測範囲外の事象です」


湊の声には、怒りも、復讐の悦びもなかった。ただ、使い古された機材を廃棄する時のような、淡々とした決別があるだけだった。


「佐藤さん、たまには日本に帰りたくはなりませんか?」


秘書の問いに、湊は少しだけ目を細めた。

脳裏に一瞬だけ、かつての光景が浮かぶ。

チャイムの音。騒がしい教室。結衣の笑い声。藤堂の傲慢な顔。


だが、それらの映像はすぐに、今彼が向き合っている数式の海に飲み込まれて消えた。


「帰りたくなる理由がありません。あそこには、僕が必要とするものは何一つ残っていない。……いや、最初から何もなかったのかもしれませんね」


湊は、デスクの上に置かれた一枚の写真に目をやった。それは結衣との写真ではなく、彼が初めて合成に成功した新型ポリマーの結晶構造を示す電子顕微鏡写真だった。彼にとって、これこそが最も美しく、最も誠実な、唯一の絆だった。


「僕は、真理を追い求めることで、人間という不確かな存在から自由になれた。……あの時、僕を追い出してくれた彼らには、ある意味で感謝していますよ。おかげで、無駄な感情に振り回される凡庸な一生を送らずに済んだ」


湊は椅子から立ち上がり、白衣を羽織った。


「さて、実験に戻りましょう。明日の朝までに、新しい触媒の反応速度を確認しておきたい」

「はい、佐藤先生」


湊が研究室へと歩き出す。その背中は、かつて大学の廊下を肩を落として歩いていた青年のものとは、全くの別物だった。彼は今、世界の先端に立ち、誰も見たことのない景色を、その冷徹で澄んだ瞳で見据えていた。


数ヶ月後。


世界は、ステラ・ラボが発表した「完全なるエネルギー変換技術」の衝撃に揺れていた。

その功績により、ハル・サトウは科学界の最高権威である数々の賞を総なめにした。授賞式のスピーチで、彼は流暢な言葉で語った。


『科学は裏切りません。正しく問い、正しく観察すれば、必ず真実を返してくれます。……人間関係のように、感情によってデータが歪むことも、他意によって事実が書き換えられることもありません。私は、この絶対的な誠実さの世界に救われました』


そのスピーチを、結衣は病院の待合室のテレビで見ていた。

彼女は心身のバランスを崩し、療養生活を送っていた。テレビの中の湊は、眩しいほどの光の中にいた。彼女の叫びも、涙も、後悔も、その光の届かない暗闇の底で、ただ虚しく漂うだけ。


「……湊。あなたは、最後まで私を許してくれなかった」


結衣は、枯れ果てた目で呟いた。

だが、それは間違いだった。

湊は、彼女を許さなかったのではない。

彼女という存在を、自分の中から完全に「消去」したのだ。


憎しみがあれば、まだ繋がりはある。

怒りがあれば、まだ関心はある。

だが、湊の中には、もう彼女への「何」も残っていなかった。

それが、人を最も深く、永劫に傷つける、究極の「ざまぁ」であることに、結衣は気づいた。


彼女は、一生をかけて、彼に拒絶された記憶という牢獄の中で生きていくことになる。

藤堂も、かつての仲間たちも、彼ら全員が、湊という太陽が照らす世界から永遠に追放された「影」として、その身を焼かれ続けるのだ。


真実が明らかになった時、そこに彼はもういなかった。


彼は、彼らを置き去りにして、遥かな高みへと飛び立っていった。

その後ろ姿すら、もう彼らの目には映らない。


過去を断ち切った男の物語は、ここから新しい章を始める。

一方、彼を裏切った者たちの物語は、あの日、あの部室で、一人の青年の潔白を笑い飛ばした瞬間に、永遠の停滞へと封じ込められた。


それが、世界で最も論理的で、最も残酷な「因果応報」の形だった。


湊は、新しい研究ノートの一ページ目を開く。

そこには、新しい世界を構築するための、美しい数式が並んでいた。


窓の外では、新しい朝が明けようとしていた。

冷たく、澄み渡った、汚れ一つない真理の光が、彼の横顔を白く染め上げた。


「……さあ、始めよう」


一ノ瀬湊と呼ばれた青年の、最後の独り言。

それは、過ぎ去った過去への葬送であり、まだ見ぬ未来への、輝かしい宣誓だった。

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