第5話 届かない謝罪

岬のプレハブ小屋の前に、佐伯結衣は崩れ落ちたまま動けずにいた。


頬を打つ潮風は容赦なく体温を奪い、凍てつくような冷たさが彼女を包み込む。しかし、肉体的な苦痛など、今の彼女には感じられなかった。湊から投げつけられた「不可逆反応」という言葉。それが彼女の心に、回復不能な亀裂を刻んでいたからだ。


「……湊。嘘よ、嘘だと言ってよ」


結衣は閉ざされたドアに縋り付き、震える手で何度も金属の冷たさをなぞった。かつて自分に向けて注がれていた、あの温かな眼差し。どんなに理屈っぽくても、その根底にはいつも自分への深い慈しみがあった。それを自らの手で粉々に打ち砕き、今、その破片すらも回収できない場所に彼は行ってしまった。


窓から漏れる白い光は、一定の輝きを保ったまま、中の人物が淡々と作業を続けていることを示している。結衣がどれほど外で泣き叫ぼうが、命を賭けて謝罪しようが、湊にとってそれはもはや「環境ノイズ」の一つでしかない。


その事実に絶望し、結衣はふらふらとした足取りで、暗い夜の街へと戻っていった。


翌朝、大学のキャンパスは、湊の生存と成功を報じるニュースでもちきりだった。


「聞いたか? 理学部のあの一ノ瀬、海外でとんでもない特許を取ったらしいぞ」

「名前を変えてたんだってな。ステラ・ラボのハル・サトウ。あいつ、正真正銘の天才だったんだ」


学生たちがスマートフォンを片手に、驚きと感嘆の声を上げる。かつて湊を「浮気男」として罵り、石を投げた者たちも、今はその功績を称える側に回っていた。人間とは、これほどまでに容易く、強者に巻かれる生き物なのか。


そんな中、理学部の研究棟の一室では、学部長と事務局長が青い顔をして向き合っていた。


「蒼空マテリアルから正式な抗議が来たぞ。一ノ瀬君の内定取り消しの経緯について、詳細な報告書を出せと。向こうも必死だ。ステラ・ラボとの独占契約を取り付けるために、まずは身内の不始末を清算したという実績が欲しいんだろう」

「しかし、報告書も何も……あの時は学生たちの自治に任せていたというか、SNSの拡散を止められなかっただけで……」

「言い訳が通用する相手か! 我が校は、世界的な発明家になるはずだった男を、根拠のない噂で追い出したんだ。この事実が公になれば、大学の助成金カットだけでは済まない。文科省からも目をつけられるぞ」


彼らが恐れているのは、湊が受けた心の傷ではなく、大学という組織が被る不利益だった。


その時、一人の学生が研究棟に駆け込んできた。以前、湊の数少ない友人だった高橋だ。彼は手に一枚の書類を握りしめていた。


「学部長! これを見てください! ステラ・ラボの公式HPに、声明が出されました!」


二人が奪い取るようにして見た画面には、簡潔かつ冷徹な文章が綴られていた。


『本研究所の主任研究員ハル・サトウは、過去、日本の某国立大学において、組織的な名誉毀損および集団排斥を受けた経緯がある。本研究所は、当該大学、および当該事件に関与した一切の個人、法人に対し、技術提供および共同研究の提案を永久に拒絶する。また、当時の捏造行為に関わった主犯、および加担者に対しては、法的手段を用いた徹底的な追及を継続する』


それは、湊からの宣戦布告であり、同時に関係の完全な断絶を意味していた。


「永久に拒絶……だと? そんな……」


事務局長はその場にへたり込んだ。この声明が出された瞬間、この大学の理系学部は、世界最先端の技術革新から取り残されることが確定したのだ。企業からの寄付金も、優秀な留学生も、今後この大学を選ぶことはないだろう。湊の「復讐」は、自らの手を汚すことなく、ただその圧倒的な実力を誇示するだけで、組織一つを存亡の危機に追い込んでしまった。


一方、藤堂駿の転落は、さらに悲惨な段階に突入していた。


実家の藤堂グループは、彼の不祥事と湊への嫌がらせ行為が「投資家への背信行為」とみなされ、株価が大暴落していた。藤堂の父親は、激怒のあまり彼を戸籍から抜く手続きを進め、一切の資金援助を打ち切った。


「くそっ、何でだ! 何で一ノ瀬ばっかり!」


藤堂は場末の安いアパートで、酒浸りの日々を送っていた。内定も、家柄も、誇りも、全てを失った。ネット上では彼の本名と顔写真、そして過去の傲慢な発言が永久にデジタルタトゥーとして刻まれ、まともな職に就くことすら不可能になっていた。


彼は何度もステラ・ラボにメールを送り、湊を脅そうとした。『過去の秘密をバラすぞ』『捏造はお前がやったことにしてやる』。しかし、それらのメールは全て法務担当によって記録され、さらなる刑事告訴の証拠として積み上げられていく。


「一ノ瀬……頼む、許してくれ。俺が悪かった。お前なら、いくらでも金を稼げるだろ。俺に少しだけ分けてくれたっていいじゃないか」


かつての傲慢な王子様は、今はただの、惨めな物乞いに成り下がっていた。


そして、佐伯結衣。

彼女は岬から戻って以来、自宅の自室に閉じこもっていた。


大学へ行く気力も、友人と話す気力もない。彼女の手元には、湊からかつて贈られた小さな栞が残っていた。押し花のされたそれは、彼が図書館で勉強している時に、彼女のために手作りしてくれたものだ。


『結衣は本が好きだから。これ、僕が実験で使った特殊な樹脂でコーティングしたんだ。一生、色褪せないよ』


湊はあの時、確かにそう言った。彼の言葉通り、栞の花は今も鮮やかな色を保っている。しかし、それを贈った湊の心は、もう二度と彼女のために動くことはない。


結衣はスマートフォンのTwotterを開いた。

検索欄には「一ノ瀬湊」「ハル・サトウ」の文字。そこには、世界中の人々が彼を称賛する言葉が溢れている。


『彼の技術が世界を変える』

『日本が生んだ若き天才、ハル・サトウに注目』


その称賛の声が大きければ大きいほど、結衣は自らの犯した罪の重さに押し潰されそうになる。自分は、この「世界の宝」を、下らない嫉妬や偏見に流されて、泥の中に叩き落としたのだ。


その時、一通のメッセージがMINEに届いた。かつてのサークル仲間、藤堂と一緒に湊を追い詰めた中心メンバーの一人からだ。


『ねえ、結衣。大変なことになったよ。大学側に呼ばれて、事情聴取だって。私たち、あの時のこと、藤堂に脅されてやったって言えば助かるかな? 結衣も口裏合わせてくれるよね?』


結衣はそのメッセージを見て、震える指で打ち返した。


『……もう、やめようよ。私たち、最低なことをしたんだよ。湊くんは、もう私たちのことなんて見てない。私たちは、一生この罪を背負って生きていくしかないんだよ』


送信した直後、相手からは罵詈雑言の嵐が返ってきた。『あんた一人だけ綺麗事言うな』『裏切り者』。


結衣は静かに、MINEのアカウントを削除した。


もう、何もかも遅いのだ。

湊が言った通り、時間は逆行しない。失われた信頼は、二度と回復しない。


彼女は立ち上がり、鏡の前に立った。

そこには、泣き腫らした顔の、見る影もなくやつれた自分の姿があった。


「湊……。あなたが私を許さないことで、私はようやく、自分が何をしたのかを理解できたわ」


結衣は、湊から贈られたあの栞を、胸に抱きしめた。

それは、彼女に残された唯一の、そして最も残酷な思い出の品だった。


数日後。


ステラ・ラボのハル・サトウは、次世代エネルギーフォーラムのメインスピーカーとして、オンライン形式で世界の舞台に立っていた。


画面越しに見る彼の表情は、どこまでも澄み渡り、一点の曇りもなかった。彼は過去の苦難について一言も触れることなく、ただ未来の技術がもたらす可能性について、熱っぽく、しかし極めて論理的に語り続けた。


その姿を見つめる、何万人という視聴者。その中には、彼を追い出した大学の教授も、彼を裏切った仲間も、彼を捨てた恋人もいた。


しかし、湊の視線の先に、彼らは存在しない。


彼はただ、真理の光だけを見つめていた。


「……以上が、私の提案する新素材による、エネルギー循環モデルの概要です。ご清聴ありがとうございました」


講演が終わると、世界中から称賛のコメントが殺到した。


その狂騒の影で、湊は静かにヘッドセットを外した。

研究室の窓の外には、北の海の静かな夜が広がっている。


「佐藤さん、お疲れ様です。素晴らしいスピーチでした」


協力者の老人が、温かいお茶を持って入ってきた。


「ありがとうございます。……ようやく、一段落しました」


湊は、ふっと息をついた。

彼の中に、かつての一ノ瀬湊という青年の欠片は、もうほとんど残っていない。

かつての怒りも、悲しみも、執着も、全ては研究という巨大な濾過器を通ることで、純粋な好奇心へと昇華された。


「これから、どうされますか?」


老人の問いに、湊は少しだけ考え、そして穏やかに微笑んだ。


「そうですね。次は、海水の淡水化技術の効率化に取り組もうと思っています。世界には、まだ解決すべき問題がたくさんありますから」


彼の言葉に、迷いはなかった。


彼を陥れた者たちは、今も暗い過去の底で、泥に塗れた謝罪の言葉を練り続けている。

彼を疑った者たちは、今も終わりのない後悔の中で、自分たちの正当性を探して彷徨っている。


しかし、湊はもう、その場所にはいない。

彼は誰よりも速く、誰よりも遠くへ、未来へと駆け抜けていく。


復讐とは、相手を傷つけることではない。

相手を、自分の人生において「一文字も必要のない、無価値な存在」にすることだ。


真実が明らかになった時、そこに彼はもういなかった。

それは、彼という一人の人間が、古い自分を殺し、新しい次元へと到達した証だった。


加害者たちの絶望の声は、風に消えていく。

湊の歩みは、止まることなく、未知なる地平を目指して続いていく。

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