第4話 露見する虚像
一ノ瀬湊が消えてから半年。季節は冬を越え、春の陽光がキャンパスを照らし始めていた。本来であれば、四年生に進級し、卒業研究の佳境を迎えているはずの時期だ。しかし、この大学に彼の居場所はもうどこにもない。
理学部の廊下を歩く学生たちの話題は、もはや「一ノ瀬湊という悪党」のことではなくなっていた。今、彼らが口にするのは「藤堂駿という犯罪者」と、その周囲で彼を狂信的に擁護していた者たちの「醜態」についてだ。
「……ねえ、藤堂の件、聞いた? 結局、損害賠償の額が跳ね上がって、実家の不動産をいくつか差し押さえられたらしいよ」
学生食堂の隅で、声を潜めて話すのは以前「ブライト」に所属していた女子学生だ。彼女もまた、湊を激しく罵倒した一人だった。
「当たり前でしょ。あいつ、湊の内定先だけじゃなくて、実家の方にも偽の情報を流してたんだって。威力業務妨害だけじゃ済まないわよ。でもさ、一番きついのは私たちよね……。就活の面接で『ブライトにいました』なんて言った瞬間、面接官の目が変わるんだもん。あいつのせいで、私たちの人生までめちゃくちゃだよ」
彼女たちは自分たちが湊に何をしたかではなく、自分たちがどれだけ「損をしたか」を嘆いていた。被害者の立場を演じることでしか、自らの加害性を隠蔽できない。それが、この大学に残された者たちの生存戦略だった。
そんな喧騒から逃れるように、佐伯結衣は図書館の閲覧室の隅で、一人うなだれていた。
彼女の手元には、新しく買い直したスマートフォンがある。画面には、かつてのサークル仲間や大学の知人から届いた、無数の未読メッセージが表示されている。だが、そのどれもが謝罪や心配を装った、責任転嫁の言葉ばかりだった。
『結衣、大丈夫? 藤堂がそんなことしてたなんて、私たちもショックだよ。でもさ、結衣も被害者なんだし、あんまり自分を責めないでね。今度、気晴らしに女子会しようよ』
結衣はそのメッセージを読み、吐き気を覚えた。藤堂が湊を追い詰めた際、誰よりも熱心に彼を支持し、湊に「理屈で嘘を塗り固めるな」と罵声を浴びせたのは、そのメッセージを送ってきた友人たちだ。そして何より、自分自身もその中の一人だった。
「……みんな、自分が可愛いだけなんだ」
結衣は自嘲気味につぶやいた。
藤堂の悪事が露見した直後、彼女は一度だけ藤堂と面会した。警察署の面会室。そこにいたのは、かつての華やかな王子様ではなく、脂ぎった顔で「一ノ瀬さえいなければ」「誰がリークしたんだ」と呪詛を吐き続ける、惨めな男だった。
藤堂は結衣を見るなり、身を乗り出してこう言ったのだ。
『結衣、お前だけは味方だよな? 俺があんなことをしたのは、全部お前を愛してたからなんだ。一ノ瀬からお前を救い出すために、少しだけ強引な手段を使っただけだ。弁護士には、お前も共犯だって言えばいいのかな? それとも、俺が脅されてやったって証言してくれるか?』
その言葉を聞いた瞬間、結衣の中の「藤堂駿」という偶像は粉々に砕け散った。彼女が愛していたのは藤堂という人間ではなく、彼が提供してくれる「華やかな日常」と「被害者としての居心地の良さ」だったのだ。
結衣は図書館を出て、かつて湊とよく歩いた並木道を辿った。
当時は当たり前だと思っていた湊の気遣いが、今になって鋭い棘となって彼女の胸に刺さる。
冬の日、実験で遅くなった湊が、凍える彼女のために用意してくれた魔法瓶の紅茶。
テスト前、自分の勉強を後回しにして、結衣が理解できるまで何度も丁寧に噛み砕いて説明してくれた物理の法則。
「湊は理屈っぽい」
そう言って笑っていた自分の隣で、彼はいつも、言葉の代わりに「事実」という誠実さを積み上げてくれていた。
『結衣。科学には感情がないけれど、科学を扱う人間には感情がある。俺は、君にとって最も信頼できるデータでありたいんだ』
一度だけ、湊が真剣な顔でそう言ったことがあった。当時の彼女は「何それ、プロポーズのつもり?」とはぐらかしたが、今の彼女にはその意味が痛いほど理解できた。彼は自分の全存在をかけて、結衣に対して誠実であろうとしていたのだ。それを彼女は、藤堂が用意した薄っぺらな「物語」のために、ゴミのように捨てた。
「湊……会いたいよ。お願い、どこにいるの……」
結衣は立ち止まり、泣き崩れた。
彼女は、以前湊が住んでいたアパートへ何度も足を運んだ。だが、そこには全く別の住人が住んでおり、管理会社に泣きついても「一ノ瀬様との契約は完全に終了しており、連絡先も破棄されています」と冷たく突き放されるだけだった。
湊の両親にも手紙を出した。だが、返ってきたのは、湊の父親からの、怒りに満ちた一通の返信だった。
『息子は、あなたたちに全てを奪われた。彼は最後、私たちに「自分はもう一ノ瀬湊として生きることはできない」と言い残して去っていった。あなたが今さら謝罪したいというのは、自分の罪悪感を解消したいという我儘に過ぎない。二度と、私たちの前に現れないでいただきたい』
その手紙を読んだ夜、結衣は一晩中泣き明かした。
湊は、家族すらも切り離したのだ。自分たちという汚れを、彼の人生から完全に排除するために。
一方、その頃。
世界的な科学ニュースのポータルサイトが、一つの驚異的な速報を流した。
『日本の独立系研究者が、常温下での「フォトニック・スイッチング・ポリマー」の完全制御に成功。エネルギー効率を飛躍的に高める新素材の誕生か』
そのニュースは、瞬く間に世界中の研究機関や企業を駆け巡った。これまで理論上は可能とされながらも、安定性の問題で誰も実現できなかった技術だ。その特許の出願人として記されていたのは、個人名ではなく、北の地方都市に登記されたばかりの小さな研究所「ステラ・ラボ」の名前だった。
そして、その主任研究員として紹介されていたのは、一人の若き日本人男性。
「一ノ瀬湊……!?」
大学の理学部のゼミ室で、そのニュースを見た一人の学生が声を上げた。かつて湊と同じゼミにいた、数少ない「湊の才能を信じていた」友人、高橋だ。
「違う、名前が……『ハル・サトウ』になっている。でも、この手法、この論文の構成……。一ノ瀬の書き方にそっくりだ。いや、彼にしか書けない。常識外れの計算精度だ」
高橋は震える手でマウスを動かし、記事に掲載されている小さな顔写真をクリックした。
そこには、三ヶ月前よりも少し髪が伸び、精悍さを増した一人の男性が写っていた。背景には、見たこともないような複雑な回路図が描かれたホワイトボード。
「……生きてたんだな。一ノ瀬」
高橋の目から涙がこぼれ落ちた。
あの日、彼がサークル棟で糾弾されていた時、高橋は何もできなかった。多数派の意見に押され、「自分まで標的にされたら困る」という卑怯な沈黙を選んだ。湊が大学を去る際、最後に交わした言葉も、通り一遍の「元気でな」という白々しいものだった。
高橋はすぐに大学内にこのニュースを広めようとしたが、途中で思いとどまった。
今のこの大学、この学生たちに、彼の生存を知らせる資格などあるのだろうか。
捏造を信じ、面白半分で彼を叩き、真相が明らかになれば被害者面をする。そんな連中のもとに、湊が戻ってくるはずがない。
高橋が沈黙している間に、事態は外部から動き始めた。
湊の内定を取り消した「蒼空マテリアル」の役員会議。
「このステラ・ラボのハル・サトウという人物、身元は割れているのか?」
社長の鋭い問いに、人事部長の佐藤は冷や汗を流しながら答えた。
「それが……調査の結果、驚くべき事実が判明しました。このハル・サトウという人物は、数ヶ月前に我が社が内定を取り消した、一ノ瀬湊君である可能性が極めて高いのです」
「……何だと?」
会議室に衝撃が走った。もしこれが事実なら、会社は未来のノーベル賞候補とも言える天才を、ネットの噂一つで切り捨てたことになる。それどころか、今回の技術の独占契約権を得るチャンスを、自らの手でドブに捨てたのだ。
「すぐに連絡を取れ! 誤解だったと、全力を挙げて謝罪しろ。当時の担当者は誰だ! 責任を問え! 何としても彼を我が社に迎え入れるんだ。契約金はいくら積んでも構わん!」
社長の怒声が響く中、佐藤は絶望的な気持ちで受話器を握った。
だが、どれだけ調べても、ステラ・ラボの連絡先は秘匿されており、公式の問い合わせフォームからは『現在、特定の企業との個別交渉は一切受け付けておりません』という無機質な自動返信が返ってくるだけだった。
そして、この波は「加害者」たちにも届いた。
藤堂駿が収容されている未決拘禁施設に、一人の弁護士が訪れた。
「藤堂さん、絶望的な知らせがあります。あなたがハメた一ノ瀬湊氏が、世界的な研究者として復活しました。彼が所属する団体は、あなたに対して巨額の損害賠償請求と、名誉棄損による刑事告訴の追加準備を進めています」
「復活……? あいつが……? 嘘だ、あんな奴、地方の工場で野垂れ死んでるはずだ!」
藤堂が叫ぶが、弁護士の目は冷たい。
「彼は既に、我々の手の届かない領域にいます。彼の発明一つで、数千億円の経済効果が生まれると言われている。そんな人物をターゲットにしたあなたの罪は、もはや単なる学生同士のトラブルでは済まされません。実刑は免れないでしょう」
藤堂は力なく椅子に座り込んだ。
自分が奪ったはずのものが、何倍にもなって湊の手元に戻り、今度は自分を押し潰そうとしている。その「因果応報」という理屈に、彼は初めて恐怖した。
一方、結衣のもとにも、かつての「友人」たちから別の種類のメッセージが届き始めていた。
『結衣、すごいよ! 湊くん、海外で大成功してるって! ねえ、結衣なら連絡取れるでしょ? 私たちが誤解してたって、上手く伝えてくれないかな? 実は私もずっと、湊くんのこと信じてたんだよね』
『私たち、湊くんに謝りたいんだ。結衣がセッティングしてよ。場所はどこがいいかな? 久しぶりにみんなで集まって、わだかまりを解こうよ!』
結衣はそれらのメッセージを一つ一つ削除していった。
怒りを通り越して、虚しさだけが残る。彼らは今度は「天才の友人」という肩書きを手に入れるために、自分を利用しようとしている。
「……誰も、湊のことなんて見てない」
結衣は立ち上がり、一人で駅へと向かった。
向かう先は、ニュースで報じられていた、あの北の港町。
手がかりはほとんどない。だが、行かなければならないと思った。会って、許されなくてもいいから、自分の言葉で謝らなければならない。
特急電車に揺られながら、結衣は窓の外を流れる景色を眺めていた。
街が遠ざかり、山を越え、やがて海が見えてくる。
三ヶ月前、湊も同じ景色を、どんな思いで眺めていたのだろうか。
全てを捨て、名前を捨て、たった一人でこの極寒の地へ向かった彼の孤独を、自分は想像すらしていなかった。
港町に着いた時、日は既に沈みかけていた。
結衣は、数少ない情報を頼りに、町外れの古い工場跡を探し歩いた。
潮の香りと、錆びた鉄の匂い。
足が棒のようになり、体温が奪われていく。それでも、彼女は歩みを止めなかった。
やがて、岬の近くに建つ、一軒の小さなプレハブ小屋が見えてきた。
窓からは、煌々と白いライトが漏れている。
結衣は息を切らしながら、そのドアの前に立った。
心臓が破裂しそうなほど激しく打っている。
「……湊」
震える指で、ドアをノックしようとしたその時。
カチャリ、と音がして、ドアが開いた。
そこに立っていたのは、白衣を羽織り、タブレット端末を手にした一人の男性だった。
逆光で顔はよく見えない。だが、その佇まい、その立ち姿、そして彼が纏っている、研ぎ澄まされた静謐な空気。
「……どなたですか」
低く、落ち着いた声。
それは間違いなく、かつて結衣が世界で一番愛していた人の声だった。
「湊……! 私……私よ、結衣よ!」
結衣はたまらず駆け寄ろうとした。
だが、その足は、湊が向けた一瞥によって凍りついた。
そこには、怒りも、憎しみも、喜びもなかった。
ただ、顕微鏡で未知の物質を観察するような、無機質で、冷徹なまでの「観察者の目」があった。
「佐伯、結衣……さん、ですか」
湊は、まるで遠い異国の歴史上の人物の名前を確認するかのように、ゆっくりとその名を呼んだ。
「湊、ごめんなさい! 全部、私の間違いだったの! 藤堂に騙されて……あなたの言葉を信じなくて……。本当に、ごめんなさい! どんな罰でも受けるから、だから……」
結衣はその場に泣き崩れ、湊の足元で許しを請うた。
しかし、湊は一歩も動かなかった。
彼は、泣きじゃくる彼女を冷めた目で見下ろすと、静かにこう告げた。
「謝罪の必要はありません。あなたの行動は、当時の限られた情報と、あなたの認知能力の限界に基づいた、極めて統計的に予測可能な反応でした。……つまり、あなたは、あなたのレベルで最善を尽くした。ただそれだけのことです」
「え……?」
結衣は顔を上げた。
湊の言葉は、以前よりもずっと「理屈っぽく」、そして、以前よりもずっと「優しくなかった」。
「僕にとって、過去の人間関係は、既に減価償却の終わった資産のようなものです。価値もなければ、負債でもない。ただの、過去の記録です。……今の僕にとって重要なのは、明日の実験データだけなんです」
「そんな……。私たちは、一年も付き合って……結婚の話だって……」
「それは、『一ノ瀬湊』という男と、あなたの間の話でしょう。残念ながら、彼は三ヶ月前に死にました。今の僕は、佐藤ハル。……あなたという個人に対する興味も、感情も、今の僕の脳内には存在しません」
湊はそう言うと、手元のタブレットに視線を戻した。
まるで、彼女という存在がそこから消え去ったかのように。
「……帰ってください。ここは研究施設です。関係者以外が立ち入る場所ではありません」
「待って! 湊、お願い! もう一度だけ、やり直せないの!? 私、何でもするから……!」
「やり直す?」
湊は、ふっと短く笑った。
その笑みは、結衣の心に、どんな罵倒よりも深く、決定的な絶望を刻み込んだ。
「不可逆反応という言葉を知っていますか? 一度変化してしまった物質は、二度と元の状態には戻らない。……僕とあなたの関係は、既にエントロピーが増大しきった、死んだシステムなんです」
湊はそのまま背を向け、ドアを閉めようとした。
「ああ、そうだ。大学の連中や、会社の人たちにも伝えておいてください」
ドアの隙間から、湊の冷たい瞳が結衣を射抜いた。
「『もう遅い』。……科学の世界でも、人生でも、タイミングを逃した者に残されるのは、ただのゴミのような後悔だけだと」
バタン、と重厚な音がして、ドアが閉まった。
鍵がかかる音が、夜の岬に響く。
結衣は、冷たい地面に突っ伏したまま、声を上げて泣き続けた。
だが、その泣き声に応える者は、もうこの世界にはいなかった。
窓から漏れる白い光は、どこまでも冷たく、清らかだった。
その中で、湊は再び顕微鏡に向き合う。
彼にとって、結衣の訪問すらも、もはや研究の合間の、些細なノイズに過ぎなかった。
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