第3話 一ノ瀬湊の死

一ノ瀬湊という存在が、人々の記憶の表層から薄れ始めた三ヶ月目。


かつて彼が「一ノ瀬湊」として呼吸していた街は、すっかり冬の装いを整えていた。街路樹の葉は落ち、冷たい風が人々の襟を立てさせる。大学のキャンパスでは、冬休みの足音が近づき、学生たちは試験やレポート、そして華やかなクリスマスイベントの話題で持ち切りだった。


「ねえ、今年のサークルのクリスマスパーティー、藤堂先輩が都内のホテルを貸し切ってくれるんだって。すごいよね」


大学近くのカフェで、結衣の友人がアウスタの投稿を見せながらはしゃいでいる。結衣はそれを聞きながら、手元の温かいココアを一口飲んだ。藤堂駿と付き合い始めて二ヶ月。彼は優しく、羽振りも良く、結衣を「悲劇のヒロイン」から「幸せな勝者」へと完璧に塗り替えてくれた。


「……うん、楽しみだね。藤堂さん、最近忙しそうだけど」

「そりゃそうだよ。藤堂グループの次期後継者候補なんだし、内定先の『帝都コーポレーション』でも研修が始まってるんでしょ? 湊みたいな、内定取り消されて逃げ出すような奴とは格が違うって」


湊の名前。久しぶりに耳にするその響きに、結衣の胸の奥がチリりと痛んだ。だが、その痛みはすぐに「彼は悪いことをしたのだから、忘れなければならない」という自己暗示によって蓋をされる。湊が消えてから、彼の悪評はさらに尾ひれがついて広まっていた。中には、研究室の備品を盗んだだの、他にも数人の女性と関係を持っていたという、根も葉もない噂までが真実として語り継がれている。


「一ノ瀬湊」という人間は、今やこのコミュニティにおける「絶対的な悪」の象徴であり、彼を叩くことは、自分たちが正義であることを確認するための儀式になっていた。


「結衣、お待たせ。遅くなってごめん」


カフェのドアが開き、高級そうなコートを羽織った藤堂が姿を現した。彼は周囲の女子学生たちの羨望の眼差しを浴びながら、当然のように結衣の隣に座り、彼女の頬に軽く触れる。


「ううん、大丈夫。お仕事、大変だった?」

「ああ、ちょっとしたトラブルがあってね。でも、結衣の顔を見たら疲れも吹き飛んだよ。……実は今日、少し話があってさ。来月、俺の両親に会ってくれないか?」


結衣の心臓が大きく跳ねた。それは、結婚を見据えた正式な紹介を意味している。


「えっ……でも、私なんかが、そんな……」

「何言ってるんだ。結衣は一ノ瀬とかいうクズに傷つけられた、純粋で美しい被害者だ。うちの両親も、君のことを守ってやりたいって言ってる。何一つ心配いらないよ」


藤堂の甘い言葉に、結衣は「ああ、これが本当の幸せなんだ」と自分に言い聞かせた。湊と一緒にいた頃、彼が研究の話を始めると、自分はいつも置いてきぼりな気分になっていた。原子がどうとか、分子構造がどうとか、そんな目に見えない世界のことよりも、今の自分を全肯定してくれる藤堂の優しさの方が、ずっと温かくて分かりやすい。


同じ頃、その「格が違う」はずの藤堂駿のスマートフォンには、一通の通知が届いていた。それは、彼が管理している「裏アカウント」へのDMだった。


『藤堂さん、例の件、そろそろ追加の報酬をいただきたいのですが。あの写真の加工、結構手間がかかったんですよ。最近、大学の周りで聞き込みをしてる人がいるって噂もありますし、口止め料としては安すぎませんか?』


藤堂は画面を見つめたまま、一瞬だけ表情を強張らせた。だが、すぐにせせら笑いながら指を動かす。


『欲をかくな。お前だって、あの時金を貰っていただろ。騒ぎたいなら騒げばいい。だが、そうなればお前も共犯だ。帝都コーポレーションの後継者に楯突いて、この国で生きていけると思うなよ』


藤堂は送信ボタンを押し、トーク履歴を削除した。

一ノ瀬湊を追い出した手法は、完璧だった。外部のフリーランスのクリエイターを使い、痕跡を残さずに画像を加工させた。MINEの偽装も、複数の端末を使い分け、VPNを通した完璧な工作だ。


「……あんなゴミ一人消すのに、随分と手間をかけさせやがって」


藤堂は隣で微笑む結衣の肩を抱き寄せながら、心の底で毒を吐いた。彼にとって結衣は愛する女性ではなく、湊から奪い取った「戦利品」に過ぎない。自分よりも優れた知性を持つ男を叩き潰し、その男が最も大切にしていたものを自分の色に染め上げる。その征服感こそが、藤堂にとっての最高の報酬だった。


一方、その頃。


北の果ての港町。冬の冷たい海が吠えるように波打つ岸壁の近くに、その古いアパートはあった。

かつて「一ノ瀬湊」と呼ばれていた青年は、今、「佐藤ハル」という偽名の名札が貼られた部屋で、一つの大きな転換期を迎えていた。


部屋の中は、三ヶ月前よりもさらに殺風景になっていた。家具のほとんどは処分され、代わりに並んでいるのは、中古の機材を改造して作り上げた自作の測定器と、壁一面を埋め尽くす計算式だ。


湊——ハルは、顕微鏡のレンズ越しに、ある「奇跡」を見つめていた。


「……できた」


震える声が、静かな部屋に響いた。

それは、彼が大学時代から追い求めていた、常温環境下で特定の波長の光を完全に透過・遮断を切り替えられる新型ポリマーの合成だった。既存の技術では摂氏マイナス五十度以下の極低温でしか維持できなかった分子構造が、今、目の前のシャーレの中で、冬とはいえ暖房もろくに効いていない室内温度で安定している。


これは、建築、通信、宇宙開発、あらゆる分野の常識を根底から覆す発明だった。


ハルは顕微鏡から顔を上げ、しばし自分の手を見つめた。

三ヶ月前、彼は全てを失った。恋人も、仲間も、未来の内定も、そして自分自身の名前すらも。


だが、あの地獄のような日々が彼に与えたものがあった。

それは「誰にも邪魔されない孤独」という名の、最強の武器だ。


大学という枠組みの中にいた頃、彼は常に「評価」や「人間関係」というノイズに晒されていた。結衣に気を使い、サークルの飲み会に顔を出し、教授の顔色を伺いながら研究を進める。そんな無駄なエネルギーが、彼の脳のパフォーマンスを削いでいた。


しかし、今は違う。

彼を疑う者もいなければ、彼を騙そうとする者もいない。

朝から晩まで、ただ純粋に科学という真理だけを追い求めることができる。


「藤堂先輩……。あなたは俺から全てを奪ったつもりだろうが、感謝しなければならないな」


ハルは自嘲気味に笑った。

あなたが俺を「死」に追いやってくれたおかげで、俺は「一ノ瀬湊」という殻を脱ぎ捨て、真の意味での研究者になれたのだから。


彼は、以前アルバイト先で知り合った「協力者」に連絡を取ることにした。

それは、地元の小さな町工場を営む老人だ。彼はハルの正体を知らない。ただ、「東京から来た、驚くほど頭の切れるワケありの青年」として、場所とわずかな資金を提供してくれていた。


「おじさん、例の試作、成功したよ。これを特許申請に出したいんだけど、手続きの手伝いをお願いできるかな。……ああ、名前は『佐藤ハル』のままで。俺の名前は、表に出す必要はないから」


ハルは淡々と話を進める。

この発明が世に出れば、莫大な富と名声が舞い込むだろう。だが、彼はそれを望んでいなかった。彼が欲しいのは、自分を否定した世界を見返すための権力ではない。


自分を裏切った者たちが、勝手に自滅していく様子を、高みの見物で眺めるための「絶対的な安全圏」だ。


数日後。


大学では、ある異変が起きていた。

藤堂駿が、内定先の帝都コーポレーションから呼び出しを受けたのだ。


「藤堂君、君のTwotterの裏アカウントの件だが……」


会議室に呼び出された藤堂を待っていたのは、人事部長と法務担当者の冷ややかな視線だった。


「裏アカウント? 何のことですか。私はそんなもの持っていませんよ。何かの間違いじゃないですか?」


藤堂は余裕の笑みを浮かべて答えた。だが、差し出された資料を見て、その笑いは凍りついた。

そこには、彼がクリエイターとやり取りしていたMINEのログ、そして一ノ瀬湊の画像を加工する指示を出していた際のブラウザの履歴が、鮮明にプリントアウトされていた。


「これ……どこで……」

「わが社のサイバーセキュリティ部門が、社内ネットワークに接続された君の端末から不審なアクセスを検知してね。調査したところ、君がこの数ヶ月間、一人の学生を組織的に追い詰めるために、卑劣な捏造行為を行っていたことが判明したんだ」

「待ってください! これは、あいつが……一ノ瀬が先に俺を挑発したからで!」

「言い訳はいい。わが社は、技術的な不正はもちろん、人道的な問題を抱える人間を雇用するつもりはない。……本日付で、君の内定は取り消す。それから、大学側にもこの資料は送付させてもらった。覚悟しておきなさい」


藤堂の視界がぐにゃりと歪んだ。

完璧だったはずだ。証拠は全て消したはずだ。

なぜ、今になって?


実は、あのDMを送ってきたクリエイターが、藤堂の「帝都コーポレーションの後継者に楯突くな」という脅しに恐怖し、先手を打って会社に通報したのだ。もし自分が共犯として捕まるなら、せめて自首という形をとって減刑を狙う。それは極めて合理的な判断だった。


さらに、この情報は大学内にも瞬く間に広がった。


かつて湊を叩き、藤堂を称賛していた「ブライト」のグループMINE。

そこに一通の投稿がされた。藤堂の捏造指示の証拠画像だ。


『これ、マジ? 藤堂さん、一ノ瀬をハメてたの?』

『っていうか、写真加工だったんだ……。私たち、騙されてたの?』

『最悪……。私、あいつに最低とか言っちゃったよ。どうしよう』


一瞬にして、風向きが変わった。

つい昨日まで「正義」だった彼らは、今度は「無実の人間を追い詰めた加害者」という汚名を着せられる恐怖に直面した。


その波は、当然のように結衣のもとにも届く。


結衣が大学の講義棟を歩いていると、周囲からの視線がこれまでとは違う種類のものに変わっていることに気づいた。同情ではなく、軽蔑と、好奇の視線。


「ねえ、見た? 藤堂がやったこと。結衣ちゃん、あいつと付き合ってるんだよね」

「信じられない。自分の彼氏をハメた男と、ニコニコして付き合えるなんて。ある意味、一ノ瀬よりサイコパスじゃない?」


「違う……私は、知らなかったの! 私だって騙されてたのよ!」


結衣は叫びたかったが、声が出なかった。

自分のスマートフォンには、友人たちから「大丈夫?」というメッセージではなく、「どういうつもりなの?」「説明して」という詰問が殺到している。


そして何より、結衣を絶望させたのは、藤堂からの返信だった。


『結衣、助けてくれ。俺の両親に話して、弁護士を雇ってもらわないと……。君も協力してくれるだろ? 君が「一ノ瀬に無理やり迫られていた」って証言してくれれば、俺の正当防衛になる。頼むよ、愛してるんだ』


そのMINEの画面を見て、結衣はスマートフォンの電源を落とした。

指がガタガタと震える。


彼女が信じていた「優しくて完璧な王子様」の正体は、自分の保身のために他人を、そして恋人までもを利用しようとする、底知れない怪物だった。


「湊……」


結衣は、冬空の下、一人で立ち尽くした。

三ヶ月前、自分があの部室で湊に投げつけた言葉。


『湊のそういうところ、ずっと怖かった』

『理屈ばっかりで、私の気持ちなんて考えてくれなかった』


それは、湊の欠点ではなく、単に自分が彼の知性に向き合うのが面倒で、逃げていただけだったのではないか。湊はいつだって、真実だけを語っていた。不器用なほど真っ直ぐに、自分に潔白を証明しようとしていた。


それを「理屈」だと切り捨て、多勢に無勢で彼を追い出したのは、誰でもない、自分だったのだ。


結衣は震える手で、もう繋がるはずのない湊の番号に電話をかけた。


『おかけになった電話番号は、現在使われておりません……』


機械的なガイダンスが流れるたびに、彼女の心は削り取られていく。

謝りたい。

ごめんなさいと、土下座してでも許しを乞いたい。

真実に気づかなかった私の目を開けてほしい。


だが、現実は残酷だった。

彼女がどんなに涙を流そうとも、どんなに後悔しようとも、湊はもういない。

彼が住んでいたアパートは既に他人が入居し、彼の私物は全てゴミとして処理された。


この世界に、一ノ瀬湊という人間の痕跡は、何一つ残っていないのだ。


その夜。


大学の掲示板には、藤堂駿の無期停学処分と、彼に協力した学生数名への厳重注意が張り出された。

サークル「ブライト」は事実上の解散に追い込まれ、メンバーたちはSNSのアカウントを次々と削除して逃亡した。


加害者たちの「その後」は、悲惨なものだった。

藤堂は実家から勘当され、賠償金の支払いのために多額の借金を背負うことになった。

いじめに加担した学生たちは、就職活動でことごとく不採用となり、地元の親からも見放された。


彼らは毎日、暗い部屋で、あるいは逃げるように引っ越した先で、考える。


「なぜ、あんなことをしてしまったのか」

「もし、あの日、一ノ瀬の言葉を信じていれば」


だが、その後悔は、誰にも届かない。


その頃、北の街では。


ハルは、完成した論文を海外の権威あるジャーナルへと投稿し終えたところだった。

ペンネームは「H.SATO」。

そこに一ノ瀬湊の面影はない。


彼は窓を開け、夜の冷気を取り込んだ。

遠くで、新しい年を告げる鐘の音が微かに聞こえるような気がした。


「……さて。次のステップへ行こうか」


ハルの瞳には、もはや過去への未練も、復讐の悦びもなかった。

あるのは、ただどこまでも遠く、高く広がる、知性の極北への渇望だけ。


真実が明らかになった時、そこに彼はもういなかった。

それは、彼が選んだ、最も残酷で、最も美しい「復讐」の完成だった。

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