第2話 沈黙の断罪
一ノ瀬湊という人間が、この街から消えて二週間が経とうとしていた。
国立大学のキャンパスは、一人の学生が退学した程度では何一つ変わることなく、日常を刻み続けている。講義のチャイムは鳴り、学生たちは食堂で笑い合い、テニスコートからは快活な声が響く。ただ一つ違うのは、あちこちのベンチやラウンジで、スマートフォンを覗き込む学生たちの指先が、ある「刺激的な話題」を執拗に追いかけていることだった。
「ねえ、見た? 理学部のあいつ、結局退学したんだって」
文学部の校舎に近いカフェテラスで、数人の女子学生が顔を寄せ合っていた。その中心にいるのは、佐伯結衣だ。彼女は力なくアイスラテのストローを回しながら、友人たちの言葉をぼんやりと聞いている。
「やっぱり黒だったんだね。逃げるなんて、認めたも同然じゃん。結衣、本当にお疲れ様。あんなサイコパスと別れて正解だよ。理屈ばっかりで感情がない男なんて、付き合ってても疲れるだけでしょ」
友人たちからの同情の声に、結衣は力なく頷いた。彼女の心の中には、まだ整理のつかない感情が渦巻いている。あの日、サークル棟の部室で湊が見せた、あの凍りつくような冷めた目。何かを必死に訴えようとして、途中で全てを諦めたようなあの表情が、夜、目を閉じるたびに脳裏に焼き付いて離れない。
「……湊は、あんなことする人じゃないって、どっかで思ってたんだけどな」
結衣がつぶやくと、隣に座っていた派手なメイクの女子学生が鼻で笑った。
「結衣、あんたお人好しすぎ。あのMINE(マイン)の証拠、見たでしょ? 完璧じゃん。それに、藤堂先輩がわざわざ嘘つく理由なんてないし。あの人、家柄もいいし将来有望なんだよ? 湊みたいな、研究しか取り柄がない陰気なタイプが、裏でストレス発散に女遊びしてたって、よくある話だって」
その時、タイミングを合わせたかのように、「よお」と明るい声がした。藤堂駿が、数人の取り巻きを連れて歩いてくる。彼は結衣の隣に当然のように腰を下ろすと、彼女の肩を優しく抱いた。
「結衣、まだ元気ないのか? 終わったことだよ。あんな奴のために、君が心を痛める必要なんてないんだ」
「藤堂先輩……」
「これからは俺たちがついている。サークルのみんなも、結衣をサポートするって言ってるんだ。今夜、気晴らしにパーッと飲みに行かないか? ちょうどTwotterで話題になってる、隠れ家風のダイニングバーを見つけたんだ」
結衣は藤堂の腕の感触に一瞬だけ身を竦めたが、すぐに無理な笑顔を作った。一人になると、湊のことばかり考えてしまう。周囲が自分を「被害者」として扱い、藤堂のような「正義の味方」が守ってくれる環境に身を置いている方が、今は楽だった。
「……はい。ありがとうございます、先輩」
その頃、大学の事務局では、ある一つの決定が下されようとしていた。理学部の学部長室。重苦しい空気の中で、湊の指導教官であった教授が、一枚の書類を前にして眉をひそめていた。
「一ノ瀬君の退学届を、このまま受理するのか。彼はわが学部でも指折りの秀才だった。次世代素材の研究において、彼を失うのは大学にとっても大きな損失だ」
「しかし教授、ネット上での騒ぎが大きすぎます。大学の公式アカウントにまで、彼を処分しろという抗議が殺到しているんですよ。教育機関として、倫理観に欠ける学生を放置しているという批判は無視できません」
事務局長が苦々しく告げる。教授は深く椅子に背を預け、天井を仰いだ。
「彼は最後まで、捏造だと言っていたそうだね。あんなに論理的な彼が、感情的に否定するのではなく、解析結果を持ってこようとしていた。それを周囲が聞き入れなかったと……。今の世の中は、真実よりも『それらしい物語』を信じるようになっているのか」
「理屈はいいんです。世間が、そして学生たちが彼を拒絶した。それが全てですよ」
その「世間」の象徴であるSNS、特にTwotter上では、湊の個人情報が特定され、晒し上げられていた。彼の出身高校、実家の住所、そして内定先までもが。
『蒼空マテリアルに内定してたとか、日本の科学界の終わりだな』
『こいつが開発した素材とか、不倫の匂いがしそう』
『理系特有の、自分が賢いと思い込んでる傲慢さが透けて見えるよね』
匿名の人々が、一度も会ったことのない湊に対して、鋭い言葉のナイフを突き立てる。彼らにとって、これは娯楽だった。優秀な人間が地面に引きずり下ろされ、泥にまみれる様子を見るのは、最高に刺激的なコンテンツなのだ。
内定先であった「蒼空マテリアル」の人事部にも、連日大量のメールが届いていた。
「また一ノ瀬湊に関する苦情か……」
人事担当者の佐藤は、溜息をつきながら受信トレイを整理していた。一ノ瀬湊という学生の評価は、社内でも非常に高かった。面接での受け答えは理路整然としており、将来のビジョンも明確だった。しかし、この騒動だ。
「採用を強行すれば、不買運動でも起きかねない。残念だが、彼の方から内定辞退の連絡が来て助かったよ。これでこちらの傷は最小限で済む」
佐藤は湊からの、事務的で簡潔な内定辞退メールをアーカイブに放り込んだ。そこには謝罪も、弁明も、未練も一切書かれていなかった。ただ一点の曇りもない、冷徹なまでの決別の意思だけが読み取れた。
一方、藤堂駿は自室で、高価なワインを傾けながら満足げにTwotterの画面を眺めていた。
「……ふん、チョロいもんだ」
画面に映っているのは、一ノ瀬湊が大学を去ったことを祝うような投稿の数々。藤堂は、自分のスマートフォンの中に隠された「本物」の画像フォルダを開く。そこには、湊の顔をAIで合成し、背景のライティングや影の整合性をプロレベルで調整した作業工程の記録が残っていた。
藤堂は、単なる嫌がらせでこれをやったわけではない。彼は湊の「才能」を誰よりも正確に認識していた。
藤堂家は代々、有力な政治家や実業家を輩出してきた名家だ。駿もまた、将来を約束されたエリートとして育てられてきた。しかし、大学に入って出会った一ノ瀬湊という男は、藤堂がどれだけ努力しても、どれだけ金を積んでも手に入らない「本物の知性」を持っていた。
湊が書く論文は、海外の著名な研究者から引用される。湊が何気なく口にする考察は、業界の常識を覆すほどの鋭さを持っている。そして何より、湊の隣には、藤堂が密かに狙っていた佐伯結衣がいた。
「お前みたいな、金も家柄もない平民の分際で、俺より目立つなんて許せないんだよ」
藤堂は画像を一枚ずつ削除していく。証拠隠滅ではない。この「傑作」を、もう見返す必要がないほど、湊を完全に破壊したという確信があったからだ。
「結衣も手に入った。一ノ瀬は消えた。あいつの将来も、プライドも、全て俺が奪い取ってやったんだ」
藤堂は笑った。その笑い声は、夜の静寂に響き、どす黒い悦びに満ちていた。
しかし、この時、藤堂は気づいていなかった。
彼は湊の「物理的な居場所」と「社会的な地位」を奪うことには成功したが、湊の「本質」には何一つ触れることができていなかったのだ。
湊は退学し、名前を捨て、姿を消した。それは、藤堂の攻撃から逃げたのではなく、藤堂が存在するこの「醜い土俵」から、自ら降りたに過ぎない。
数日後。
結衣はアウスタを開き、新しい投稿をした。藤堂たちとの飲み会で、無理に笑っている自撮り写真。
『色々あったけど、今は周りのみんなの優しさに救われてます。一歩ずつ前を向いて歩きたいな。#感謝 #新しい自分』
その投稿には、数分で「いいね」が数百件ついた。コメント欄には「結衣ちゃん頑張って」「悪いのはあいつだよ」という優しい言葉が並ぶ。
結衣はその画面を見て、少しだけ心が満たされるのを感じた。湊と付き合っていた時は、こんなに多くの人から肯定されることはなかった。湊はSNSに興味がなく、二人だけの時間を大切にするタイプだったからだ。
「……これでいいんだよね、湊」
結衣はふと、湊が最後に自分の名前を呼んだ瞬間のことを思い出した。あの時、湊は怒ってもいなかった。泣いてもいなかった。ただ、深い霧の奥を見るような、底知れない瞳で自分を見ていた。
その瞳の奥に何があったのか。結衣には最後まで分からなかった。
同じ頃、東京から遠く離れた、北の地方都市。
寂れた港町の、古いアパートの一室。一人の青年が、古い机に向かってノートを広げていた。
一ノ瀬湊ではない、その青年の名前を呼ぶ者はここにはいない。
部屋にはテレビも、スマートフォンもない。あるのは、街の古本屋で買い集めた、高度な物理学と化学の専門書だけだ。
青年の指先には、実験器具を扱っていた頃のような、繊細な動きが戻っていた。彼は黙々と、ノートに数式を書き込んでいく。それは大学の研究室で扱っていたものよりも、さらに難解で、未知の領域へと踏み込むものだった。
彼にとって、今の環境は絶望ではなかった。
「……静かだ」
青年は小さくつぶやいた。
誰からも期待されず、誰からも疑われない。
「理屈っぽい」と疎まれることもなければ、「感情がない」と責められることもない。
ただ純粋に、現象と、法則と、真実だけと向き合うことができる時間。
彼は窓の外を見た。冷たい海風が、夜の帳を揺らしている。
遠くで灯台の光が、一定の周期で明滅している。
その光の波長を、彼は頭の中で計算する。屈折率、大気の密度、距離による減衰。
「もうすぐ、冬が来るな」
彼はペンを置き、冷えた指先をこすり合わせた。
彼がかつて愛した女性が、今、誰の腕の中にいるのか。
彼を陥れた男が、どんな栄光に浸っているのか。
彼を排斥した仲間たちが、どんな顔をして日々を過ごしているのか。
その全てが、今の彼には、銀河の彼方で起きている、自分とは無関係な事象のように感じられた。
復讐心がないわけではない。怒りがないわけでもない。
ただ、それ以上に、彼は「自由」を感じていたのだ。
古い名前を捨てたことで、彼は初めて、自分自身の思考の深淵へと潜り込む許可を得た。
「佐伯結衣」
一度だけ、その名前を頭の中で反芻してみる。
かつては、その名前を聞くだけで胸が締め付けられるほど愛おしかった。彼女の笑顔を守るためなら、自分の命すら差し出せると思っていた。
だが、今はどうだろう。
脳裏に浮かぶのは、彼女の顔ではなく、彼女を構成する元素の配列であり、彼女の感情を司るホルモンの化学式だった。
愛とは何だったのか。
それは、生化学的な反応がもたらす、一時的な認知の歪みに過ぎなかったのではないか。
青年は自嘲気味に笑った。
やっぱり、自分は理屈っぽい男なのだ。周囲が言っていたことは、ある意味で正しかった。
「でも、それでいい」
彼は再びペンを取り、数式の続きを書き始めた。
真実は、言葉で語るものではない。
真実は、感情で訴えるものでもない。
真実は、ただそこに「在る」ものだ。
いつか、彼が積み上げているこの数式が、一つの「結果」として形を成す時。
その「結果」こそが、世界に対する唯一の、そして最強の回答になる。
その時、世界は彼の名前を再び知ることになるだろう。
一ノ瀬湊という、死んだ男の名前ではなく。
新しい時代の扉を開く、ある研究者の名前として。
夜は更けていく。
彼が消えた大学では、藤堂駿が仲間に囲まれてシャンパングラスを掲げていた。
彼が捨てた街では、佐伯結衣が過去の思い出を消去するために、スマートフォンの写真フォルダを整理していた。
誰も気づいていない。
一人の天才を、泥沼に突き落としたつもりが。
実は、彼を縛っていた「凡庸な日常」という鎖を、自分たちの手で断ち切ってしまったということに。
解き放たれた怪物は、今、暗闇の中で静かに、だが着実に、その鋭い牙を研ぎ澄ませている。
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