潔白を証明する言葉は、もう持ち合わせていない。

@flameflame

第1話 崩壊の序曲

国立大学理学部、次世代素材開発研究所の一室。室温が一定に保たれたその空間に、ピンと張り詰めた静寂を破るように、スマホのバイブレーションが鳴り響いた。


「湊、また鳴ってるわよ。大事な用事なんじゃない?」


実験器具の洗浄をしていたゼミ仲間の女子学生が、くすくすと笑いながら俺に声をかける。俺、一ノ瀬湊は、顕微鏡から目を離さずに軽く手を振った。


「いいよ、後で確認する。今は結晶の成長を記録しなきゃいけないんだ」

「相変わらずね。結衣ちゃん、寂しがってるんじゃないの? 放置しすぎると、誰かに取られちゃうわよ」


冗談交じりの言葉に、俺は少しだけ口角を上げた。佐伯結衣。文学部の彼女とは、一年前の学祭で知り合って以来、穏やかな交際を続けている。彼女は俺の、時として理屈っぽすぎる性格も「湊らしくて好きだよ」と言って受け入れてくれる、かけがえのない存在だった。


ようやく一区切りがつき、白衣を脱いでスマホを確認する。画面にはサークルのグループMINEに大量の通知と、サークルの先輩である藤堂駿からの着信履歴が数件残っていた。


『湊、至急サークル棟の部室に来い。大事な話がある』


藤堂先輩は、学内のイベントサークル「ブライト」の代表を務める四年生だ。家柄が良く、ルックスも華やかで、学内の有名人。理系の俺がなぜそんなサークルにいたかと言えば、結衣がそのサークルのマネージャーをしていたからだ。


嫌な予感がした。藤堂先輩の声は、いつも自信に満ち溢れているが、どこか傲慢な響きを含んでいる。俺は足早に研究棟を後にし、サークル棟へと向かった。


夕暮れ時のサークル棟は、各部室から漏れ出す楽器の音や笑い声で騒がしいはずだった。しかし、俺が「ブライト」の部室の扉を開けた瞬間、そこには異様な静寂が広がっていた。


「……遅かったな、一ノ瀬」


部屋の奥、長机に腰掛けた藤堂が、冷え切った目で俺を見据えていた。その周りには、サークルの主要メンバーが十人ほど集まっている。そして、部屋の隅で肩を震わせ、今にも泣き出しそうな顔でうつむいている結衣の姿があった。


「結衣? どうしたんだよ、そんな顔して」


俺が歩み寄ろうとすると、藤堂が鋭く机を叩いた。


「近寄るな。お前、これが何かわかってるのか?」


藤堂が放り投げたのは、数枚のプリントアウトされた写真だった。俺はそれを拾い上げ、絶句した。


そこには、夜の街で派手な服装の女性と腕を組み、ビジネスホテルへと入っていく俺の姿が写っていた。顔ははっきりと俺のものだと分かる。角度を変えて数枚、どれも決定的と言える構図だった。


「何だよ……これ。俺じゃない。こんなところ、行ったこともない」

「嘘を吐くな。その写真は昨日の夜、うちのサークルの奴が偶然見かけて撮ったものだ。お前、昨日の夜は『研究で遅くなる』って結衣に嘘を吐いてただろ?」

「それは本当だ。昨日は二十三時まで研究室にいた。ログも残っているし、教授だって見ていたはずだ」


俺は冷静に反論しようとした。事実無根だ。論理的に説明すれば、必ず分かってもらえるはずだ。


「ああ、そう言うと思ったよ。お前はいつもそうやって、小難しい理屈で自分を正当化するよな。でもな、これを見ても同じことが言えるのか?」


藤堂がスマホを操作し、プロジェクターにメッセージ画面を映し出した。それは、俺のアイコンと名前が表示されたMINEのトーク画面だった。


『今夜のホテル、予約しといたよ。結衣には適当に研究だって嘘ついてあるから大丈夫』

『楽しみにしてるね、湊くん』


生々しいやり取りが、壁一面に映し出される。サークルの連中から「最低だな」「信じられない」という囁き声が漏れた。


「……待ってくれ。そのMINEのIDは俺のものに似ているが、よく見てくれ。俺のIDは『minato_i』だ。ここに表示されているのは『minato-i』だ。ハイフンとアンダーバーの違いがある。これは偽造だ」


俺は一歩前に出て、画面を指差した。科学の世界では、微細な違いが全てを分ける。だからこそ、この「偽造の甘さ」を指摘すれば勝てると思った。


「ああ、始まった。また理屈だ」


藤堂がわざとらしく溜息をついた。


「いいか、一ノ瀬。普通の人間は、そんな細かい記号の違いなんて気にしないんだよ。お前はそうやって、矛盾を突かれた時にだけ『解析』だの『論理』だのと言い出して、相手を煙に巻こうとする。そういう態度が、周りをどれだけ不快にさせてるか考えたことがあるか?」

「理屈じゃない! 事実を言っているんだ! この写真は、光の反射がおかしい。この街灯の影の落ち方から逆算すれば、この人物の身長は俺よりも数センチ高いはずだ。画像加工ソフトを使って、顔だけをすり替えた可能性が——」

「黙って、湊!」


叫んだのは、結衣だった。彼女は涙で顔をぐしゃぐしゃにして、俺を拒絶するように両手を突き出した。


「……結衣」

「もう、聞きたくない。湊のそういうところ、ずっと怖かった。何か言い合いになっても、いつも私が言い返せないような正論ばっかり並べて……。私の気持ちなんて、一度も考えてくれなかったじゃない!」

「そんなことはない。俺は君のために——」

「昨日の夜、電話したのに出なかったよね? 研究が忙しいって言ったのに、なんでこんな写真が出回るの? 先輩たちが嘘を吐いてるって言うの? みんなが湊のことを心配して、教えてくれたんだよ……っ」


結衣の言葉に、周囲のメンバーが同調するように頷く。藤堂が勝ち誇ったように結衣の肩を抱き寄せた。彼女はそれを拒まなかった。その光景に、心臓が凍りつくような感覚を覚えた。


「一ノ瀬、お前の負けだ。お前の言う『科学的根拠』なんて、人間の感情の前じゃ無価値なんだよ。お前がどんなに計算式を並べようが、ここにいる全員がお前を『嘘つきの浮気男』だと思ってる。それがこの場所での真実だ」


藤堂の目は、明らかに冷笑を浮かべていた。彼は分かっているのだ。これが偽造であることを。そして、俺が正論を吐けば吐くほど、周囲が俺を「理屈で逃げようとする卑怯者」として嫌悪していく構造を、完璧に理解して実行している。


「出ていけよ。お前みたいなサイコパス、このサークルには必要ない」

「大学の掲示板にも貼っておいてやるよ。理学部のホープ様が、実は女遊びの激しいクズだってな」

「内定決まってるんだろ? 会社にも教えてあげたほうがいいんじゃないか? 倫理観のない研究員なんて、爆弾を抱えてるようなもんだしな」


罵声が四方八方から降り注ぐ。かつて一緒に笑い合った仲間たちが、今は獲物を見つけたハイエナのように俺を攻撃している。その中心で、結衣は藤堂の腕の中で顔を伏せていた。


俺は、開いた口が塞がらなかった。説明しようとする言葉が、喉の奥で虚しく消えていく。


彼らにとって、真実なんてどうでもいいのだ。優秀で、どこか鼻につく「理系の一ノ瀬湊」が失墜する様子を、エンターテインメントとして消費しているだけなのだ。


俺は無言で写真を床に落とし、部室を出た。後ろから「逃げるのか!」「謝れよ!」という声が追いかけてきたが、振り返ることはなかった。


外はすっかり暗くなっていた。冷たい夜風が頬を打つ。


アパートに戻ると、スマートフォンの通知が止まらなくなっていた。Twotterを開くと、すでに俺の写真が拡散されていた。「理学部の期待の星、浮気発覚」「彼女への言い訳が理屈っぽすぎて草」といった文字が躍る。


アウスタでは、サークルのメンバーたちが「結衣ちゃんをみんなで守る会」というハッシュタグをつけて、飲み会の写真をアップしていた。そこには、泣き腫らした目で、でもどこか安心したように笑う結衣と、彼女の肩を抱く藤堂の姿があった。


さらに、追い打ちをかけるように一通のメールが届いた。


『蒼空マテリアル株式会社 人事部でございます。一ノ瀬様の内定に関しまして、現在のSNS等での騒動を受け、社内審議を行うこととなりました。つきましては、一度状況の説明を……』


事実上の内定取り消し勧告だ。


俺は暗い部屋の中で、ただ一人、机に向かった。自分のPCを開き、藤堂が提示した画像のログを解析し始める。数時間後、案の定、精巧なディープフェイク技術が使われた痕跡を見つけた。MINEのスクショも、ブラウザのデベロッパーツールを使って書き換えられたものだ。


完璧な証拠だった。これを見せれば、誰でも俺の潔白がわかるはずだ。


だが、俺はマウスを握る手を止めた。


これを見せて、誰に説明する?


「理屈で誤魔化すな」と言い放った結衣にか?

「人間の感情が真実だ」と笑った藤堂にか?

面白がって俺を叩き続けている、顔も知らない連中にか?


彼らは、俺が潔白であることを望んでいない。俺が「悪」であってもらわなければ、彼らの「正義の鉄槌」は正当化されないからだ。


「……無駄だ」


声に出すと、驚くほど冷静な自分がいた。


俺がどれだけ言葉を尽くし、科学的な証拠を提示しても、彼らは耳を貸さない。俺の言葉は、もう誰にも届かないのだ。この世界において、一ノ瀬湊という人間は既に社会的に殺された。


ならば。


俺は立ち上がり、押し入れから大きなスーツケースを取り出した。


必要なものだけを詰め込む。実験用のノート、いくつかの着替え、そしてこれまで貯めてきたバイト代の通帳。それ以外は全てゴミ袋に放り込んだ。


大学の教科書も、結衣と一緒に撮った写真が入ったフォトフレームも、彼女から誕生日に貰った腕時計も。


次に俺が手に取ったのは、スマートフォンのSIMカードだった。それをピンで抜き取り、ハサミで細かく切り刻む。


次に、大学のポータルサイトにログインし、退学届のフォームに入力した。理由は「一身上の都合」。内定辞退の連絡も、事務的な定型文で送信した。


実家の両親には、短い手紙を書いた。


『迷惑をかける。しばらく探さないでくれ。死ぬつもりはないが、今のままではいられない。落ち着いたら連絡する』


嘘だ。連絡するつもりなんてない。俺という存在を、この家系からも切り離さなければならない。


夜明け前、俺は荷物をまとめて部屋を出た。


管理会社には鍵と解約届を郵送する手筈を整えた。駅へ向かう道すがら、コンビニのゴミ捨て場に、過去の全てを詰め込んだゴミ袋を投げ捨てた。


始発の電車に乗り込み、俺は窓の外を眺めた。


大学のキャンパスが見える。あそこには、俺を裏切った恋人がいて、俺を陥れた先輩がいて、俺を嘲笑った仲間たちがいる。彼らは今頃、ぐっすりと眠っているだろう。明日になれば、また「正義」の名の下に俺を叩く準備を始めるのだ。


だが、彼らが叩くべき対象は、もうどこにもいない。


俺はポケットから、あらかじめ用意しておいた新しい身分証を取り出した。地方の住み込みバイトで見つけた、偽造ではないが、他人の戸籍を借りた「新しい名前」。


「一ノ瀬湊は、ここで死んだ」


俺は静かに目を閉じた。


復讐? そんなものは必要ない。

俺が潔白を証明する必要もない。


真実というものは、隠そうとすればするほど、いつか必ず綻びが出る。科学の世界と同じだ。藤堂の浅知恵で作られた嘘は、いつか必ず自重で崩壊する。


その時、彼らは必死に俺を探すだろう。

謝罪するためか? それとも、自分たちの罪を軽くするためか?


だが、その時にはもう遅い。

俺は彼らの手の届かない場所で、全く別の人間として生きている。


電車が加速する。朝日が地平線から顔を出し、世界を白く染め上げていった。


三ヶ月後。


大学の掲示板やSNSでは、一人の学生の行方不明事件が話題になっていた。

そしてそれと同時に、ある「告発」がネット上を駆け巡り始めていた。


藤堂駿が酔った勢いで口にした「一ノ瀬をハメた手法」の録音データ。

捏造された写真の原版。

そして、それに関与した者たちの実名リスト。


真実という名の激流が、かつて俺を飲み込んだ者たちを、今度は容赦なく飲み込もうとしていた。


しかし、その激流の中に、俺の姿はどこにもなかった。


一ノ瀬湊という名前は、既にこの世から消去されていたのだから。

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