水麗の舞

カニ漁船

水麗の舞

 十一月になると、長野の山奥に位置するこの村では、雪交じりの冷たい風が容赦なく吹きつける。足の裏から伝わるのは、まさに刺すような冷たさだった。

 夜の帳(とばり)が下りた鏡ヶ池の湖上に設(しつら)えられた、檜造(ひのきづく)りの舞台。その表面には、数ミリの厚さで清冽(せいれつ)な水が張られている。これを私たちは「水舞台」と呼ぶ。

 観客席となる岸辺には、いくつもの篝火(かがりび)が焚かれ、パチパチと爆ぜる音が静寂の中に響いていた。

 私は舞台の袖――といっても、水面に続く細い木道の上で、深く息を吐いた。吐き出した息は白く濁り、すぐに夜の中へと溶けていく。

 身に纏っているのは、幾重にも重なった正絹の舞衣(まいぎぬ)だ。流水紋が銀糸で刺繍されており、篝火の光を浴びて鈍く光っている。この衣だけで数キロの重さがあるが、水を吸えばその重さは倍以上に膨れ上がる。

「絢(あや)、準備はいいかい?」

「はい」

 私は振り向かずに、重い絹の衣装を揺らして頷いた。

 背後から声をかけたのは、師匠であり祖母でもある琴(こと)だった。彼女の手には使い古された、しかし手入れの行き届いた黒漆(くろうるし)の横笛がある。

「今日は水の声を聞こうとなんて思わなくていい。お前自身が水になりなさい」

 その言葉を最後に、笛の音が鳴り響いた。鋭く、どこか哀切を帯びた旋律が、鏡のような湖面を渡っていく。

 ――水麗(すいれい)の舞が始まる。

 最初の一歩を踏み出す。足袋(たび)が水を叩き、小さな波紋が広がる。本来、舞踊にとって水は邪魔な抵抗でしかない。足元は滑りやすく、一歩の間違いが命取りになる。しかし、この村に伝わる水麗の舞は、その抵抗を拒まない。

 私は膝を深く折り、腕をゆっくりと回した。指先が空気を切り、水面をなぞる。その瞬間、私の動きに合わせて水が生き物のように跳ねた。

 水麗の舞は、ただ水の上で踊るのではない。水面に張られたわずかな水の膜を、足捌きと体幹の捻りだけで操り、自らの周囲に花の形や龍の尾を形作る。それは高度な身体操作と、水という流体への深い理解が必要とされる、極めて過酷な伝統芸能だった。

 ――重い……。

 水を吸った袖が肩に食い込む。だが、笛の音が高鳴るにつれ、私の意識は肉体の苦痛から離れていった。

 一回転するごとに水が扇状に広がり、私の背後に一瞬だけ透明な翼を作る。見ているのは自分の足元の波紋。そして、その下にある底の見えない漆黒の湖水だ。

 旋律が最高潮に達し、私は「千飛沫(ちしぶき)」を舞った。独楽(こま)のように回転し、足元から巻き上げた水が円柱状の壁を作る。篝火の光を浴びて、水滴が星屑のように輝く。

 やがて、笛の音が止まった。私は最後の一振りを終え、舞台の端でぴたりと静止する。

 静寂が戻ってきた。私の周囲に舞い上がっていた無数の水滴が、パラパラと雨のように舞台に降り注ぐ。その一粒一粒が水面に落ちる音が、驚くほど鮮明に耳に届いた。観客の拍手が、遠い波音のように聞こえていた。

 私は感覚のなくなった足を引きずるようにして、木道を歩いて戻った。舞台裏の天幕に入ると、そこにはストーブが焚かれていたが、熱を帯びた私の体には、その温かささえもどこか遠く感じられた。

「絢、座りなさい」

 祖母の声に、私は崩れ落ちるように座布団に腰を下ろした。祖母は手際よく、私の肩から重く濡れた上衣を脱がせていく。氷を背負っていたような重圧から解放され、思わず「はぁ」と長い吐息が漏れた。

「おばあちゃん……どうだった?」

 震える声で尋ねると、祖母は乾いたタオルで私の髪を拭きながら、少しだけ目を細めた。

「六十分、というところだね。お前の動きは水に従っていた。だがな、まだ水と戦っている瞬間がある。特に後半の旋律、あそこで欲が出た。水を高く上げようとして、重心が浮いたね」

「……やっぱり分かった?」

「当たり前だよ。お前の足音が変わった。水は嘘をつかない。お前が焦れば、水もまた濁り、荒れる」

 祖母の指摘はいつも鋭く、そして正しい。

 祖母――琴は、かつて伝説の舞姫と呼ばれた人だ。彼女が舞えば、湖から龍が昇るとさえ言われた。その厳しさは、身内である私にも一切容赦がない。

「でも」と、祖母は手を止めて私の顔を覗き込んだ。「最後の静寂は悪くなかった。水が止まった時、お前もまた消えていた。あれが『水麗』の入口だよ」

 初めて言われた「肯定」の言葉だった。胸の奥がじんわりと熱くなる。冷え切った手足に、ようやく血が通い始めたような感覚。だが、祖母の表情はすぐに引き締まった。

「喜んでいる暇はないよ。来月の大御神楽(おおみかぐら)には、あの子が戻ってくる」

 その言葉に、私の心臓が小さく跳ねた。

 ――あの子。

 忘れるはずもない。私と一緒にこの村で水麗の舞を学び、そして三年前、突如として村を去っていった少女。

「雫音(しずね)が……帰ってくるの?」

「そうだ。都会の方で現代舞踊を学んでいたらしいが、やはりこの舞が忘れられなかったんだろう。彼女の家系もまた、我らと同じく水の守手(まもりて)だからね。大御神楽の主役である水神様の座を、お前と彼女で競ってもらうことになる」

 天幕の外、湖の上を走る風がヒュウと鳴った。

 水神様の座を競うということは、水麗の舞の後継者を競うことと同義だ。

 ――雫音。

 私にとっての幼馴染であり、唯一無二のライバル。


 一週間後。村の練習場である古い講堂に、彼女は現れた。

 雫音は三年前よりも少し大人びていた。短く切り揃えられた黒髪に、意志の強そうな切れ上がった瞳。彼女が足を踏み入れるだけで、講堂の空気がピンと張り詰める。

「久しぶりね、絢」

 雫音の声は、鈴を転がすように涼やかだったが、その響きにはこちらを測るような鋭利さが潜んでいる。

「おかえり、雫音。現代舞踊……というか、ダンスはどうだった?」

「吸収できるものは全て吸収したわ。でもね、結局、私の体にはここの水の記憶が染み付いているみたい。水の抵抗を無視して踊る西洋のダンスも面白かったけど、水と共に沈み、水と共に浮かぶ……この水麗の舞の深さには勝てなかったってとこね」

 雫音は稽古着に着替え、水が張られた練習用の浅い槽の前に立った。

 彼女の動きは、私とは根本的に違っていた。私は水の流れに身を任せ、その一部になろうとする「静」の舞。対して雫音は水の力を利用し、それを支配しようとする「動」の舞だった。

 彼女が水の槽に足を踏み入れた瞬間、水面が爆ぜた。一切の無駄がない、研ぎ澄まされた跳躍。彼女が腕を振れば、水は鋭い刃のように空を切り、彼女が回れば、水は美しい螺旋を描いて彼女を包み込む。それは圧倒的な「美」だった。水と一体化するのではなく、水を従える者の美しさ。

「どう? 私はもう、昔の私じゃないわ」

 雫音は激しい動きの後でも、息一つ乱さずに私を見据えた。

 私は言葉を失っていた。悔しいという感情よりも先に、彼女が持ち帰ってきた異質な舞に、目も心も完全に奪われてしまったのだ。

「絢。あなたの舞は古い。おばあ様の模倣でしかないわ。そんなんじゃ、今の時代に水を鎮めることはできない」

 その言葉は、氷の矢となって私の胸に深く突き刺さった。


 それからの日々は、地獄のような自己疑念との戦いだった。

 夜、一人で湖に立ち、月明かりの中で踊る。だが、動けば動くほど、雫音の鮮烈な舞が脳裏をよぎる。

――私の舞は、ただの模倣なのか?

――私はただ、水の流れに従っているだけで、自分の意志がないのではないか?

 焦れば焦るほど、水は私を拒絶した。足元を滑らせ、何度も湖に落ちた。凍えるような水の冷たさが、全身の体温を奪っていく。

 ある夜、ずぶ濡れになって震える私の背中に毛布が掛けられた。

「おばあちゃん……」

「水と喧嘩をしてはいけないと、あれほど言っただろうに」

 祖母は呆れたように溜息をついたが、その手は優しかった。

「雫音の舞はすごいよ。あんなの、私には一生できない。彼女こそが、水神様にふさわしいんじゃないかって……」

 私が弱音を吐くと、祖母は静かに湖を見つめた。

「絢、水にはいろいろな姿がある。激しく岩を打つ滝も水なら、全てを包み込み、深く沈み込む淵(ふち)もまた水だ。雫音は間違いなく滝だろう。それはそれで美しい。絢、お前は淵になれ。滝は目を引くが、本当に大きな力を蓄えているのは、淵なんだよ」

「淵……」

「自分を消しなさい。雫音と競おうとするから、お前の水が濁るんだ。心を鎮めて、水も、波も、風も、全てをお前の体で、ありのまま受け入れるんだ」

 祖母の言葉を反芻(はんすう)しながら、私は目を閉じた。

 波を立てるのではなく、波を受け入れる。風を拒むのではなく、風をまとう。

 私は再び水の上に立った。今度は何も考えなかった。雫音のことも、大御神楽のことも、自分がどう見られているかも。ただ、足の裏に触れる水の温度。風の匂い。遠くで鳴く野鳥の声。それら全てを感じ取り、自分の体に通していく。

 その時、不思議な感覚が私を包んだ。水が重くないのだ。むしろ、水が私の体を支え、押し上げてくれているような感覚。私が右手を上げれば、水が優しく添えられる。左へ回れば、水が道を作ってくれる。

 そこにいたのは「私」ではなく、ただの「水のゆらぎ」だった。


 大御神楽の日がやってきた。村中の人間が集まり、湖畔は異様な熱気に包まれていた。

 今夜の舞で、私と雫音、どちらが水神様の座を射止めるか、そして、水麗の舞の正当な後継者が決まる。村の長老たち、そして祖母が見つめる中、まずは雫音が舞台に上がった。

 彼女の舞は完璧だった。月光を浴びた彼女は、まさに水の女神だった。激しい足捌きで水を空高く巻き上げ、その飛沫を自在に操る。彼女の一挙手一投足で、湖面が沸き立つように見えた。観客からは何度も感嘆の声が上がる。そして最後の大技「昇龍(しょうりゅう)」では、彼女が跳躍し、着地した瞬間に巨大な水の柱が立ち昇った。

 完璧な、力強き水麗の舞。

 雫音が舞台を降り、すれ違いざまに私を見た。彼女の瞳には勝利の確信と、そして少しの同情が混じっていた。

「行ってくる」

 誰にともなく、私は短く告げて、水舞台へと向かった。

 一歩、水に足を乗せる。その瞬間、ざわついていた周囲の音が、すっと消えた。いや、消えたのではない。全ての音が、私の一部になったのだ。篝火のパチパチという音、風が木々を揺らす音、人々の呼吸、そして……湖の底で眠る水のざわめき。

 笛の音が始まった。私はゆっくりと、本当にゆっくりと動き出した。雫音のような派手な跳躍はない。激しい水の飛散もない。ただ、私が動くたびに、水面が鏡のように滑らかになり、月光を増幅させた。

 観客は最初こそ戸惑っているように見えたが、次第に静まり返っていった。私の舞は、音がないように見えたからだろう。水の上を歩いているのではなく、水そのものが私という形を借りて、夜の空気を撫でている。

 私は「千飛沫(ちしぶき)」に入った。雫音が力で水を弾けさせたのに対し、私は回転の中に水を吸い込む。私の周囲に静かな渦ができる。それは暴風のような破壊的なものではなく、万物を中心へと誘(いざな)うような、深い慈(いつく)しみを持った渦だった。

 渦の中心で、私は自分自身を解き放った。

「私を舞わせているのは、私ではない。この湖だ。この村に何百年と流れ続けてきた、水の記憶だ」

 最後の一振りを終えた時――。

 舞台には、水滴一つ飛んでいなかった。ただ、私の足元から、どこまでも続く真っ直ぐな同心円の波紋が湖の端まで、ゆっくりと、しかし力強く広がっていった。

 ――完全なる、静寂。

 それは雫音の時の喝采とは違う、祈りのような静けさだった。


「……負けたわ」


 全ての儀式が終わった後の深夜。誰もいなくなった練習場の縁側に座っていると、雫音がやってきた。彼女の顔には、もう先ほどの険しさはない。どこか晴れ晴れとした、憑き物が落ちたような表情をしていた。

「負けてないよ。雫音の舞、本当にすごかった。私、見てて震えたもん」

「お世辞はやめて。私の舞は、結局『私』を見せるためのものだった。でも、あなたの舞は……水そのものだった。あなたが止まった後、波紋がずっと消えなかった時、私、自分が恥ずかしくなったわ。水を従わせようとしていた自分をね」

 雫音は自嘲気味に笑い、私の隣に腰を下ろした。

「でも、次は負けないから。私は街に戻って、もう一度やり直すわ。水を支配するんじゃなくて、水に愛される方法を、私なりに見つけてくる」

「うん、待ってる。次に舞うときは、二人で一緒に踊りたいな。滝と淵が合わされば、きっと誰も見たことがない景色が見えるはずだから」

 私が言うと、雫音は少し驚いたように目を見開き、それから短く「そうね」と笑った。


 翌朝、雫音は再び村を去った。三年前とは違う、力強い足取りで。

 私は一人、再び湖の舞台に立っていた。祖母が傍らに立ち、静かに笛を構える。

「絢、準備はいいかい?」

「うん。おばあちゃん」

 私は水の上に一歩を踏み出す。冷たさは、もう怖くない。この冷たさこそが、私が生きている証であり、この世界と繋がっている証拠なのだから。

 私は腕を広げ、風を呼び、水を誘う。

 水麗の舞は、これからも続いていく。私という一時的な入れ物を通って、永遠に流れる水のように、どこまでも、いつまでも。

 夜明けの光が湖面に差し込み、私の足元の飛沫を、紺青から黄金へと染め変えていった。


(了)

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