慈雨 〜93歳の祖父が語った、南洋から来た「兄」と宝石の瞳の記憶〜

みた よしひと

本編

 薪ストーブの温もりが、和モダンの店内にじんわりと広がっていた。

 十二月の夜の冷え込みがまだ身体のどこかに残っているのに、この空間だけは別の季節のようだった。

 

 母の誕生日を祝うために、家族で小さなフレンチレストランを訪れたのだ。

 その店は、桐生市きりゅうしの古い街並みの一角にある、祖父の知人が営む古民家を改装したレストランだった。


 いくつかの皿がゆっくりとテーブルを巡り、会話もほどよく弾んできた頃だった。

 

 運ばれてきたメインディッシュは、牛フィレ肉のステーキ。

 艶やかな赤ワインソースの香りがテーブルを満たし、ボルドーの赤がグラスに移るたび、ボトルの肩が少しずつ軽くなっていく。

 ゆっくりと積み重なる時間に合わせるように、祝いの席の体温も上がっていった。


「美味しいねえ。ちょっと酔っぱらってきちゃったかなあ」


 頬をわずかに上気させた祖母に、母がそっと声をかける。


「お母さん。お酒はやめて、あとはお茶かなにかもらう?」


「お義母かあさん、お肉、切り分けましょうか」


 父や母は、最近めっきり弱ってしまった91歳の祖母を気遣いながらも、互いの近況や料理の感想で、にぎやかに盛り上がっている。


 93歳の祖父もまた、背筋を伸ばして器用にナイフを使い、厚みのある肉を美味しそうに口に運んでいた。

 二人がこうして自分の力で食事を楽しみ、新しい味に感動できている。

 その生命力に安堵を覚えながらも、私はどこか静かな感傷に浸っていた。

 

(あと何度、こうして揃ってお祝いができるだろうか)


 ふと、視線を感じて顔を上げた。


 向かいに座る祖父が、ワインのグラスを置いた手をとめ、真っ直ぐに私を見つめていた。周りの賑やかな話し声が、まるでスローモーションのように遠ざかっていく。


「そういえば」


 祖父は、思い出を手繰るような間のある声で、そっと私を呼んだ。

 それは大勢の生徒の中から私だけを選び出し、何か大事なことを伝えようとする――かつて教壇に立っていた頃の教師の顔だった。


「ひとつ、話しておきたいことがあるんだ」


 眼鏡の奥の瞳には、いつもの穏やかな優しさはなかった。

 その目は一世紀近い歳月のどこかから、大切な何かをそっとすくい上げようとしているように見えた。

 私はフォークを置き、彼だけの「秘密」を受け取るために、そっと身を乗り出した。


「私はさ、ひいじいさんの『奇跡の子』なんだよ」


 唐突な言葉に意識を攫われ、レストランの喧騒が気配だけを残して薄れていった。

 

 気づけば、私と祖父だけの静かな対話が始まっていた。



「曾じいさんは、私と一緒で元々教師だった。でも戦前に学務課――今で言う教育委員会のようなところで募集があった時に、たった一人、手を挙げたんだ。誰も知らない南の島、トラック諸島へ日本語を教えに行くためにね」


 曾祖父そうそふが家族を群馬に残し、横須賀よこすかの港から船に乗ったのは1920年代。

 一度旅立てば、次の帰国は何年も先になる。そんな命懸けの任務の合間、数年ぶりに、二カ月ほど群馬へ戻ったその刹那に、祖父という命は宿ったのだという。


「曾じいさんの船が一日でも遅れていたら、私はここにいなかった。まさに奇跡のタイミングで授かった命なんだよ」


 祖父が軽く笑ってそう言った瞬間、私はふと、祖父の家の二階の廊下を思い出した。子供の頃、勝手に「博物館」と呼んでいた、怖くて不思議な場所だ。


 今でも狭くて暗い階段を上がりきると、そこには現代の日本とは切り離された時間が、廊下の両側にひしめき合っている。


 壁に掛けられた巨大なウミガメの剥製はくせい

 その横には、見る角度によって輝きを変える玉虫のような七色の虫の標本。

 さらに奥へ進めば、鹿の頭蓋骨や重厚な牛の角、今にも動き出しそうなオオトカゲの剥製が並び、天井近くには名前も知らない異国の鳥が羽を広げている。


 薄暗い廊下に漂う、ひんやりとした空気と埃の匂い。そしてかすかな異国の気配。

 それらはすべて、曾祖父が南の島から持ち帰った「世界の断片」だった。


 幼い私にとって、会ったこともない曾祖父は、遠い場所と繋がっているような、どこか浮世離れした存在だった。


「……そんな曾じいさんがさ」


 祖父が、ボルドーの赤を湛えたグラスを見つめながら、声を一段低くした。


「あっちから一度だけ、一人の少年を日本へ連れて帰ってきたことがあったんだ」


 あの異界から、剥製ではなく一人の人間が来たことがあったのか。

 その驚きをよそに、祖父は異国で孤軍奮闘した父への敬意を滲ませながら、その少年の名をそっと呼んだ。


「名前は、ウセノボクくん」


「……ウセノボク?」


 口に出してみると、どこか耳に残る響きだった。

 祖父は口の端を上げて静かにうなずいた。


「そうだよ。……あの子のことは、今でも昨日のことみたいに思い出せるんだ」

 

 祖父はステーキを最後の一口まで綺麗に平らげると、赤ワインをゆっくりと口に含んだ。お祝いの賑やかさは、私たちの周りだけを避けるように流れている。


「曾じいさんはね、一人の人間として、彼らに会いに行ったんだよ」


 祖父のその言葉の奥には、今では教科書の片隅でしか触れられない、重くて複雑な歴史が静かに横たわっている。


 1914年。日本は第一次世界大戦の混乱の中で、ドイツ領だったミクロネシアの島々を委任統治領として引き継いだ。曾祖父が立候補した1920年代、トラック諸島(今のチューク諸島)は南洋庁なんようちょうの管轄下にあり、日本の南進政策の要のひとつとされていた。


 そこには、戦争という影が落とす統治の論理が確かにあった。

 その歴史の重みは、簡単に片づけられるものではない。

 

 けれど、曾祖父の胸に宿っていた火は、それとは別のものだった。

 

 元々教師だった曾祖父は、国家の野望を背負いに行ったのではない。

 海を越えた先にいる子供たちが、新しい時代の中で自立し、奪われることなく豊かに生きていくために。そのための「知恵」と、世界を広げるための「言葉」という武器を、一人の人間として届けに行ったのだ。

 

 横須賀の港から、生きて帰れる保証もない船に乗った。それは支配者としての傲慢ではなく、教育者としての、泥臭く、命がけの情熱だった。


「ウセノボクくんはさ、曾じいさんの教え子であり、向こうでの生活を支える世話係のような役割もしていたらしいんだ。曾じいさんは彼の知性を高く買っていてね。単なる主従関係じゃない。曾じいさんは、彼に日本の文化を見せてやりたい、もっと学ばせてやりたいという一心で、家族の待つ群馬へ、彼を連れてきたんだよ」


 昭和初期。山に囲まれた群馬の農村に突然現れた、褐色の肌の少年。

 村の人々は驚き、遠巻きに眺め、中には好奇の混じった視線で、当時の差別的な呼称である「土人どじん」と心ない言葉を投げる者もいた。


「でもね、曾じいさんはそんな視線を一切気にも留めなかった。彼を『ウセノボク』という一人の人間として、私の兄のように扱ったんだ。5歳の私にとっては、彼は海を越えてやってきた、背の高くて優しいお兄さんだった。私は彼の大きな手を握って、よくあぜ道を散歩したものだよ」


 祖父は、しわの刻まれた左手をそっとなでた。まるで、今もそこに少年の手の温もりが残っているかのように。


「ウセノボクくんは、本当に賢くて、優しい子だったよ。……でもね、ある日のことだった。彼が一度だけ、私に見せたことのない顔をしたことがあったんだ」


 ちょうどその時、それぞれが頼んだデザートが、大きな白い皿にゆったりと盛りつけられて運ばれてきた。

 中身は控えめなのに、皿だけがやけに立派で、テーブルの上がふっと華やぐ。


 母たちが「美味しそう」と声を弾ませ、コーヒーの香りが漂い始める。

 その明るい空気を余所に、祖父の声はさらに低く、熱を帯びていく。


「……あれは、空が急に暗くなった時だった」


 祖父は前に置かれたプリンには目もくれず、遠い空を見るような目で言葉を深めていく。


「当時、ここら辺はずっと晴れが続いていたんだ。でもその日は、午後になって急に空が暗くなってさ。そのすぐあと、空が割れたみたいに激しい雨が降り出したんだ。私が家の縁側からそれを眺めていたら、隣にいたウセノボクくんが、突然、弾かれたように庭へ飛び出したんだ」


 5歳の子供だった祖父は、驚いて固まった。

 いつも穏やかで、思慮深く、少し大人びて見えた「南洋のお兄さん」。

 その彼が、土砂降りの庭の真ん中で立ち止まり、両手を天に向かって大きく広げた。顔を上げ、叩きつけるような水飛沫を真正面から浴びた。


「それでさ、彼が叫んだんだ。……いや、あれは咆哮ほうこうだった。狂喜に満ちた、魂の底からの叫びだった」


『雨だ!  雨だ!  雨が降っているぞ!』


 日本語だったのか、現地の言葉だったのかは分からない。

 けれど、彼が叫んだその歓喜の響きは、90年近く経った今も、激しい雨音と一緒に祖父の耳の奥にこびりついている。

 ウセノボクくんは、雨水を飲み込むように口を開け、びしょ濡れになった着物もかまわず、まるで幼い子供に戻ったように庭を駆け回り、天を仰いで笑い続けた。


「ちょっと怖かったよ。あんなに大人しかった彼が、見たこともない顔をして、何かに取り憑かれたように、はしゃいでいたからね。でも……」


 祖父は、そこで一度言葉を切り、私を真っ直ぐに見つめた。

 その瞳は、あの庭で雨に濡れていた少年を、今まさに目撃しているかのようだった。


「私はさ、あの子のあの時の瞳が、今も忘れられないんだ。雨粒を反射して、キラキラと宝石みたいに輝いていた」


 祖父は、そっと息を吐いた。

 長いあいだ胸の奥にしまっていた記憶を、そっと取り出して撫でるような。そんな温かな光が、その眼差しに宿っていた。


「あんな美しい純粋な瞳を、私は後にも先にも見たことがない。あの子はね、雨を浴びながら故郷に帰っていたんだよ。心だけ、あの島に戻っていたんだ。……その姿をね、奥の部屋から出てきた曾じいさんは、縁側からじっと見つめていたよ。まるで泣いているような顔だった」


 祖父は、デザート皿の横に置いた手をぎゅっと握りしめた。

 一呼吸置いてから、静かに言葉を継いだ。


「後になって曾じいさんが教えてくれたんだ。……あの子の名前『ウセ』はね、向こうの言葉で『雨』に近い響きなんだと。彼の名は、天からの恵みそのものだったんだ。あの日、彼はただ雨を浴びていたんじゃない。遠い異国の地で、自分の名と同じ『雨』に出会い、全身で故郷を感じていたんだよ」


 ウセノボクくんの故郷トラック諸島は、一年の大半が雨に包まれる土地だった。激しいスコールは日常で、彼にとって雨は“故郷の匂い”そのものを運ぶ存在だった。

 だからこそ、日本で久しぶりに降ったその激しい雨は、彼の名と、故郷と、そして彼自身の魂を一度に呼び覚ましたのだろう。


 レストランの窓の向こうには、冬の冷たい夜気が広がっている。

 けれど店内には薪ストーブの温もりが満ちていて、私の目の前には、土砂降りの雨の中で自分の名前を叫びながら舞う少年の、あまりにも切なく輝く瞳の残像が浮かんでいた。



 レストランの給仕が、静かに伝票を置いていった。

 祖父の物語が終わると同時に、私たちの周りの空気もゆっくりと現代へと戻ってくる。

 けれど、私の心の中には、まだ温かくて激しい「南洋の雨」が降り続いていた。


「素敵な話を聞かせてくれて、ありがとう。おじいちゃん」


 私がそう言うと、祖父は少し照れたように笑って、コートの襟を正した。

 

 店を出ると、桐生の古い街並みにはしっとりとした夜露が降りていた。

 93歳の背中は少し丸くなったけれど、その足取りはどこか誇らしげだ。


 自分の歩んできた道を、ふと思い返す。

 

 国語の教員免許を取りながらも、教壇に立つことはなかった。

 祖父は、曾祖父が言葉で人を支えた姿に憧れて国語教師になった人だ。

 けれど、私は別の道を選んだ。

 それでも学びたいという渇望のままに、サービス業や小売、外資、コンサル――異なる現場を渡り歩いてきた私の生き方は、93歳にしてなおパソコンを操り、新しい知識に目を輝かせる祖父の「旺盛な好奇心」と、同じ根を持っていたのかもしれない。


 そんな私は、学生の頃から物語を書くことを心の拠りどころにしていた。

 その延長で、今は去年の春に生まれた物語を書いている。

 現代の知恵を携えた人々が、魔法に頼らず異世界の領地を改革していく物語だ。

 かつて曾祖父がトラック諸島で、そして祖父が戦後の教室で、言葉を尽くして誰かの未来を耕そうとした姿が、 自分の物語に無意識のうちに投影されていたことに、今さら気づかされる。


 けれど、何より心に刻まれたのは、書く技術やテーマのことじゃない。

 祖父が今日、私にこの話を「伝えてくれた」という事実そのものだ。


 語らなければ、消えていってしまう記憶がある。

 一世紀近い歳月の間、祖父の胸の中で大切に守られてきたウセノボクくんの瞳の輝き。もし今日、この場所で祖父が口を開かなければ、その美しい雨の記憶は、いつか誰にも知られず空に還っていただろう。


「さあ、帰ろうか」


 祖父の声に導かれ、夜の街を後にする。

 車を走らせながら、私は確信していた。

 私がいくつもの職を経て、今こうして筆を取っているのは、この「伝え、語り継ぐ」というバトンを受け取るためだったのだと。


 

 家に着き、パソコンの電源を入れる。

 画面の中で動くキャラクターたちも、いつか誰かの記憶に残る存在になれるだろうか。曾祖父や祖父が、教え子たちの人生に確かな足跡を残したように、私もまた、言葉を通じて誰かと繋がりたいと願う。


 ふと、窓の向こうに雨の気配を感じる。

 そのやわらかな響きが、部屋の静けさに溶けていく。

 

 それは、かつての少年が狂喜した南洋の雨ではない。

 けれど私にとっては、過去と現在、そしてまだ見ぬ誰かへと記憶を繋いでいくための、温かな「慈雨じう」だった。


 私は、新しく白紙のページを開く。

 今日受け取ったこの温もりを、決してこぼさないように。

 魔法ではなく、ただ誠実な言葉を尽くして、語り継いでいくために。

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