第六話 それぞれの結末

春の陽光が降り注ぐ、都内屈指の高級ホテル「グランデ・トーキョー」。

そのメインバンケットルームは、今日一番の輝きに包まれていた。天井には巨大なシャンデリアが煌めき、テーブルには色とりどりの花々が飾られている。

集まったゲストは三百人超。サイバーフロント・テックの役員をはじめ、IT業界の著名人、関連企業の社長たちが顔を揃える様は、さながら業界の交流会のようだ。

その中心で、俺、佐藤健人は、人生で最も緊張し、そして最も幸福な時間を迎えていた。


「新郎新婦の入場です!」


司会者の高らかなアナウンスと共に、重厚な扉がゆっくりと開く。

割れんばかりの拍手と歓声、そして無数のカメラのフラッシュが俺たちを迎えた。

隣を歩くのは、純白のウェディングドレスに身を包んだ氷川沙織だ。

レースとシルクをふんだんに使ったドレスは、彼女の洗練された美しさを際立たせている。普段のキリッとしたビジネスモードとは違い、今日の彼女は羞じらいを含んだ柔らかな笑みを浮かべていた。その姿は、この世のどの宝石よりも美しく、俺の目を奪った。


「緊張してる? 健人さん」


ブーケを持った手で俺の腕に触れ、沙織が小声で囁く。


「正直、足が震えてるよ。プレゼンの方が百倍マシだ」

「ふふ、情けない顔しないで。私が選んだ最高のパートナーなんでしょ? 胸を張りなさい」


そう言う彼女の手も、実は少し震えていた。

俺たちは互いに顔を見合わせ、小さく笑った。それだけで、不思議と緊張がほぐれていく。

バージンロードを一歩ずつ進む。

ゲスト席には、かつての開発チームのメンバーたちが涙ぐんでいるのが見えた。

「佐藤マネージャー! おめでとうございます!」「部長、綺麗すぎます!」

彼らの声援に、俺は軽く手を挙げて応えた。


この半年間で、俺の人生は激変した。

浮気され、婚約破棄し、家を追い出されたあの日。絶望の淵にいた俺は、まさか自分がこんな華やかな場所に立つことになるとは、夢にも思っていなかった。


「誓います」


神父の前で、俺たちは永遠の愛を誓った。

指輪交換。俺が沙織の指にはめたのは、ハリー・ウィンストンのダイヤモンドリング。かつて美奈のために買った指輪とは桁が違うが、値段以上に、そこに込めた想いの重さが違っていた。

沙織も俺の指に、シンプルなプラチナのリングをはめてくれる。


「……愛してるわ、あなた」


ベールアップの瞬間、至近距離で彼女が呟いた。

俺は彼女の涙に濡れた瞳を見つめ返し、そっと口づけをした。

会場から、今日一番の拍手が湧き起こる。

それは、過去のすべての痛みを洗い流し、未来への祝福だけを届けてくれる温かい音色だった。


披露宴も盛大に行われた。

サイバーフロント・テックの社長による主賓挨拶では、俺たちの馴れ初め――炎上プロジェクトでの出会いや、互いに切磋琢磨して成果を上げたこと――が、「我が社の誇る最強のパワーカップル」として紹介された。


「佐藤くんの『逆境をバネにする力』と、氷川くんの『冷徹なまでの完遂力』。この二人がタッグを組めば、もはや不可能なプロジェクトなど存在しないでしょう。家庭という新たなプロジェクトも、必ずや大成功させると確信しています」


会場が笑いと拍手に包まれる。

俺は隣に座る沙織の手を、テーブルの下で強く握った。


「家庭というプロジェクト、か。納期も仕様変更もないけど、一番やりがいがありそうだな」

「そうね。でも、バグが出たら即座に修正よ。……喧嘩は翌日に持ち越さないこと。いいわね?」

「了解。仕様書に追加しておきます」


俺たちのやり取りに、沙織はクスクスと笑った。

ケーキ入刀、ファーストバイト、友人代表のスピーチ。

すべての瞬間が、鮮やかな色彩を持って俺の記憶に刻まれていく。

かつて「つまらない男」と言われた俺が、今、世界で一番「面白い」幸福の只中にいる。

その事実は、何よりも雄弁に、俺の選択が正しかったことを証明していた。



一方、その頃。

北関東の地方都市にある刑務所の独房。

かつて「レイジ」と名乗り、起業家を気取っていた男、本名・鈴木一郎は、冷たいコンクリートの壁を見つめていた。


「……クソッ」


小さく悪態をつく。

あの日、資金繰りに行き詰まり、逃亡を図った先で彼はあっけなく逮捕された。

罪状は詐欺罪。余罪は数十件に及び、被害総額は億単位。判決は実刑七年。

かつて高級スーツに身を包み、タワーマンションの上層階から下界を見下ろしていた彼はもういない。ここにいるのは、番号で呼ばれるだけの、薄汚れた囚人だ。


刑務所での生活は過酷だった。

「起業家」というプライドが邪魔をして、他の受刑者たちと馴染めず、陰湿ないじめの標的になっていた。食事に異物を混入されたり、作業中に足を引っかけられたりするのは日常茶飯事だ。


「俺は……俺はこんなところにいる人間じゃない……出所したら、また一発逆転してやる……」


ブツブツと妄想を呟くが、現実は非情だ。

七年後、出所した時には四十代半ば。前科持ちの中年男を雇うまともな企業などない。

待っているのは、かつて自分が馬鹿にしていた「底辺」の労働環境だけだ。日雇いで現場を転々とし、安酒を飲んで過去の栄光にすがるだけの日々。

そして、彼に騙された被害者たちからの損害賠償請求は、一生彼を追い続けるだろう。

彼は膝を抱え、震えた。

かつて美奈や他の女性たちから巻き上げた金で味わった快楽は、もう二度と戻ってこない。

鉄格子の向こうの空は、鉛色に濁っていた。



季節は巡り、冬の寒さが身に染みるある日の深夜。

都内の場末にあるコンビニエンスストア。


「いらっしゃいませぇー……」


力のない声で客を迎えるのは、田中美奈だ。

彼女の姿にかつての面影はない。髪は後ろで適当に束ねられ、白髪が混じっている。肌は荒れ、化粧っ気もない。制服のサイズが合っていないのか、痩せ細った体にブカブカのシャツが痛々しい。


「おい、タバコ。番号言わなきゃ分かんねえのかよ、トロいな」


酔っ払いの客に怒鳴られ、美奈はビクリと肩を震わせた。


「す、すみません……百二十番ですね……」


震える手でタバコを取り出す。


「チッ、これだからババアは使えねえんだよ」


客はレシートを投げつけ、店を出て行った。

美奈は唇を噛み締め、散らばったレシートを拾い集めた。

今の彼女の時給は千百円。

深夜割増を含めても、一晩働いて一万円にしかならない。

そのほとんどは、借金の返済と、健人への慰謝料支払いに消えていく。


あの夜、健人と沙織に拒絶された後、美奈は警察に保護されず、逃げるようにその場を去った。

しかし、現実は甘くなかった。

レイジの借金の取り立ては苛烈を極め、さらに健人の弁護士からは給与の差し押さえ通知が届いた。

自己破産も考えたが、レイジの詐欺に加担した(と見なされた)借金の一部は免責されず、結局彼女は逃げ場を失ったまま、返済のために働くしかなくなったのだ。

昼間はビルの清掃員としてトイレを磨き、夜はコンビニでレジ打ち。睡眠時間は三時間あればいい方だ。

手は洗剤と乾燥でひび割れ、腰は慢性的な痛みを訴えている。

かつて「安い居酒屋」を馬鹿にしていた彼女にとって、今の主食である廃棄寸前のコンビニ弁当さえご馳走だった。


「……休憩入ります」


相方のバイト店員(大学生くらいの若者)に声をかけ、美奈はバックヤードに入った。

狭く埃っぽい休憩室で、パイプ椅子に座り込む。

足が棒のようだ。ふくらはぎを揉みながら、ポケットからひび割れた画面のスマホを取り出した。

唯一の娯楽であり、同時に自傷行為でもある日課。

ネットニュースのチェックだ。

検索履歴には「佐藤健人」「サイバーフロント・テック」の文字が残っている。

そして、今日。彼女が恐れていた、しかし見ずにはいられなかった記事がトップニュースに出ていた。


『サイバーフロント・テック執行役員・佐藤健人氏、同社取締役の氷川沙織氏と挙式。IT業界きってのビッグカップル誕生』


記事には、先日行われた結婚式の写真が掲載されていた。

タキシード姿の健人と、ドレス姿の沙織。

二人はカメラに向かって、これ以上ないほどの幸せな笑顔を向けている。

その背景には、青い空と海、そして祝福する多くの人々。

まるで別世界の光景だった。


「……綺麗」


思わず、乾いた唇から言葉が漏れた。

悔しさすら湧いてこなかった。あまりにも遠すぎて、あまりにも眩しすぎて。

記事の中の健人は、美奈が知っている彼よりもずっと頼もしく、格好良かった。


「私が……この隣にいたかもしれないのに」


もし、あの日浮気をしなければ。

もし、あの時プロポーズを受けていれば。

私は今頃、このドレスを着て、みんなに祝福されていたのかもしれない。

「つまらない男」なんて言ってごめんなさい。

居酒屋デートで文句言ってごめんなさい。

あなたは、本物のダイヤモンドだった。私がそれを石ころ扱いして捨てただけ。


涙が一滴、スマホの画面に落ちた。


「うぅ……っ……」


後悔は、時間が経つほどに重くのしかかる。

借金はまだ数百万残っている。完済する頃には、私はもうお婆ちゃんになっているだろう。

結婚も、子供も、温かい家庭も。

人並みの幸せは、もう二度と手に入らない。

それは、人を裏切り、誠実さを踏みにじった代償としては、あまりにも大きく、そして妥当なものだった。


「休憩終わりー。早く戻ってきてくださいよ、混んできたんで」


ドアの外から冷たい声が飛んでくる。


「は、はい……今行きます」


美奈は涙を袖で乱暴に拭い、立ち上がった。

スマホの画面を消すと、そこにはやつれ果てた中年女性の顔が映っていた。

かつて「美奈ちゃん可愛い」とおだてられ、チヤホヤされていた女の成れの果て。

美奈は深く息を吐き、重い扉を開けて、再び過酷な現実へと戻っていった。



それから、三年後。

東京湾岸エリアに聳え立つ、超高層タワーマンションの最上階。

広々としたリビングには、柔らかな午後の日差しが差し込んでいる。

床には高級な知育玩具が散らばり、部屋の隅にはグランドピアノが置かれている。


「パパー! たかいたかいしてー!」


元気な声を上げて駆け寄ってきたのは、二歳になる娘、結衣(ゆい)だ。


「よし、おいで結衣! ほら、たかーい!」


俺は娘を抱き上げ、天井近くまで持ち上げた。


「きゃはは! すごーい!」


娘の無邪気な笑顔を見ていると、仕事の疲れなど一瞬で吹き飛んでしまう。


「もう、健人さんったら。腰痛めるわよ?」


キッチンから、コーヒーの香りと共に沙織が顔を出した。

彼女は結婚してからも仕事を続けており、今は取締役として手腕を振るっている。だが、休日にはこうして家族との時間を何よりも大切にしてくれていた。


「大丈夫だよ。これでもジムで鍛えてるからね」


俺は娘をそっと床に下ろし、沙織が淹れてくれたコーヒーを受け取った。

ソファに並んで座り、窓の外に広がる東京の街を見下ろす。

眼下には、無数のビル群と、行き交う人々が小さく見える。


「ねえ、健人さん。今、幸せ?」


沙織がふと、そんなことを聞いてきた。

俺はコーヒーを一口飲み、彼女の肩に腕を回した。


「ああ。幸せすぎて、怖いくらいだよ」

「ふふ、私もよ」


沙織は俺の肩に頭を預けた。


「あの時、あなたが私の前に現れてくれて本当によかった。最悪の出来事が、最高の結果に繋がることもあるのね」

「『人間万事塞翁が馬』ってやつかな。……いや、違うな」


俺は言葉を選び直した。


「俺たちが、諦めずに前に進んだからだ。誠実に生きて、努力したから、神様がご褒美をくれたんだと思う」

「そうね。……神様、ありがとう」


沙織は目を閉じ、穏やかな表情で微笑んだ。


ふと、過去のことを思い出すことがある。

あの裏切りの夜。絶望の中で家を飛び出した自分の姿。

もしあの時、感情に任せて暴れていたら。もし、自暴自棄になって腐っていたら。

今のこの景色は絶対に見られなかっただろう。

人を恨み、復讐することに時間を費やすのではなく、自分を高め、新しい幸せを掴むために力を使った。

その選択こそが、俺にとっての最大の「復讐」であり、そして「勝利」だったのだ。

あの人たちは今、どこで何をしているのだろうか。

風の噂で、レイジが刑務所にいることや、美奈が借金返済に追われていることは知っている。

だが、今の俺には彼らに対する憎しみも、憐れみもない。

彼らは彼らの選択した道を歩み、俺は俺の選択した道を歩んでいる。ただそれだけのことだ。

二つの道が再び交わることは、永遠にない。


「パパ、ママ、あそぼー!」


結衣が絵本を持って、俺たちの膝の上によじ登ってきた。


「はいはい、何の本がいい?」

「これ! おひめさまのおはなし!」


俺と沙織は顔を見合わせて笑い、娘を真ん中にして絵本を開いた。

ページをめくると、そこには困難を乗り越え、幸せを掴んだ主人公たちの姿が描かれている。

俺たちの物語もまた、ここで一つのハッピーエンドを迎えた。

だが、人生という物語はまだ続いていく。

これからも、雨の日もあれば風の日もあるだろう。

それでも、この愛する家族がいれば、どんな逆境もバネにして、さらに高く飛べるはずだ。

俺は沙織と娘を強く抱きしめた。

腕の中に満ちる温もり。これこそが、俺が「つまらない男」を卒業して手に入れた、何にも代えがたい本物の宝物だった。


窓の外では、春の風が優しく吹き抜けていた。

それは、誠実に生きた者たちへ贈られる、祝福の歌のように聞こえた。

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「つまらない男」と浮気された俺、即日破局して大手IT企業へ。冷徹な美人上司と始める逆転のサクセスストーリー @flameflame

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