第五話 再会と断罪
冬の訪れを告げる木枯らしが、ビルの隙間を吹き抜けていく。
華やかなイルミネーションで彩られた表参道の街並みは、道行く恋人たちを祝福するかのように輝いていた。
その光の陰で、一人の女性がうずくまっていた。
田中美奈だ。
かつての彼女を知る者が見れば、誰もが我が目を疑うだろう。手入れの行き届いていた栗色の髪は油で汚れ、艶を失ってボサボサになっている。ブランド物のコートは薄汚れ、裾がほつれていた。顔色は土気色で、目の下にはどす黒い隈が刻まれている。
「寒い……お腹すいた……」
ガタガタと震えながら、美奈はスマホの画面を見つめた。
画面には、Oustaの投稿が表示されている。
『今夜は彼と、表参道のフレンチ「ラ・ルミエール」で記念日ディナー。最高の夜景と、最高のパートナーに乾杯』
投稿者は、氷川沙織。
写真には、美しく盛り付けられた料理と、その向こう側で優しく微笑む健人の姿があった。
美奈はこの数週間、地獄のような日々を送っていた。
借金取りの執拗な追跡から逃れるため、アパートを引き払い、安宿やネットカフェを転々とする生活。日雇いのバイトで食いつないでいるが、借金の利息を返すのが精一杯で、まともな食事すら満足に摂れていない。
友人は一人もいなくなった。実家からも勘当された。
世界中が敵になったような孤独の中で、美奈の心の支えとなっていたのは、皮肉にもかつて自分が捨てた男、健人の存在だった。
「健人は……健人だけは、優しいもんね」
美奈はうわ言のように呟いた。
彼女の記憶の中の健人は、いつだって穏やかで、美奈のわがままを何でも聞いてくれた。
デートがつまらなくても、プレゼントが安っぽくても、彼はいつもニコニコして「美奈が好きだ」と言ってくれたではないか。
あの日の別れは、私がちょっと魔が差しただけ。レイジという詐欺師に騙されて、おかしくなっていただけ。
健人は頭がいいから、きっと分かってくれるはずだ。私が被害者だってことを。
「ちゃんと謝れば、許してくれるよね。だって、三年も付き合ったんだもん。あの女……氷川沙織だっけ? あんなキツそうな女より、私の方が健人のこと分かってるし」
空腹と極限のストレスで、美奈の思考回路は完全に歪んでいた。
ご都合主義の妄想だけが、彼女を突き動かす唯一のエネルギーだった。
「ラ・ルミエール」は、すぐ目の前のビルにある。
彼らはまだ中にいるはずだ。
美奈はふらつく足で立ち上がった。ショーウィンドウに映った自分の姿を見て、一瞬ギョッとしたが、すぐに首を振った。
「大丈夫、これを見せれば、健人はもっと同情してくれるはず。かわいそうだって、抱きしめてくれるはず」
美奈はビルの入り口付近にある植え込みの陰に身を隠し、その時を待った。
冷たい風が容赦なく体温を奪っていくが、彼女の瞳には異様な光が宿っていた。
一時間後。
自動ドアが開き、暖かな光と共に、一組の男女が出てきた。
チャコールグレーのオーダーメイドスーツを着こなした健人と、純白のカシミアコートを纏った沙織だ。
二人は腕を組み、何かを話しながら幸せそうに笑い合っている。
健人の横顔は、美奈が知っている「冴えないシステム屋」のそれとは別人のように精悍だった。自信に満ち、大人の男の余裕を漂わせている。
沙織は、夜の闇の中でも発光しているかのような圧倒的な美貌を放っていた。その立ち居振る舞いの全てが洗練されており、通り過ぎる人々が思わず振り返るほどだ。
「……健人」
美奈の声が漏れた。
やはり、彼は素晴らしい男だったのだ。私が育てたと言っても過言ではない。その完成品を、あの女が横取りしているなんて許せない。
美奈は植え込みから飛び出した。
「健人!!」
静かな夜の街に、悲鳴のような声が響き渡る。
健人と沙織が驚いて足を止めた。
美奈は二人の前に駆け寄り、そのまま石畳の上に膝をついた。
「健人……! 会いたかった……っ!」
涙が溢れ出てくる。演技ではない。本当に、この地獄から救い出してほしかったのだ。
「……君は?」
健人の声は、氷のように冷たかった。
美奈は顔を上げた。
「私だよ、美奈だよ! 分からないの? こんなに酷い目に遭わされて……やつれちゃったけど、美奈だよ!」
「……ああ、田中さんか」
健人の反応は、道端の石ころを見るような無機質なものだった。驚きも、怒りも、憐れみすらない。ただの事実確認。
その温度差に、美奈は怯んだが、必死に言葉を継いだ。
「健人、聞いて! 私、騙されてたの! あのレイジって男、詐欺師だったの! 私、借金の保証人にさせられて、お金も全部取られて……会社もクビになって、住むところもないの!」
美奈は健人のズボンの裾に手を伸ばそうとしたが、健人はわずかに後退してそれを避けた。
「……それで?」
「それでって……助けてよ! 私たち、三年も一緒にいたじゃない! 家族になるはずだったじゃない! 私、反省してるの。やっぱり健人が一番だって気づいたの。やり直そう? ね? 私、健人のためなら何でもするから!」
美奈は地面に額を擦り付けんばかりに土下座した。
「お願い、助けて……このままだと私、死んじゃうよぉ……」
通りがかりの人々が、何事かと足を止め、遠巻きに見ている。
「おい、なんだあれ」「痴話喧嘩か?」「あの女、ホームレスじゃね?」
好奇の視線が突き刺さるが、今の美奈にはどうでもよかった。健人の慈悲さえ得られれば、それでいいのだ。
「……警察を呼びましょうか」
静寂を破ったのは、沙織の凛とした声だった。
彼女はスマホを取り出し、冷ややかな瞳で美奈を見下ろしている。汚いものを見るような目ではなく、システム上のバグを処理するかのような事務的な目だ。
「嫌だ! 警察は嫌! 健人、止めて! この女に何か言ってよ!」
美奈は叫んだ。
健人がため息をつき、沙織の手をそっと制した。
「待って、沙織さん。俺が話す」
「でも……」
「大丈夫。すぐに済むから」
健人は一歩前に進み、美奈を見下ろした。
美奈は希望を感じて顔を上げた。やっぱり、健人は優しい。私の話を聞いてくれるんだ。
「健人……」
「田中さん」
健人は、美奈の名前を呼ばなかった。他人行儀な名字で呼びかけた。
「君が騙されたことや、今の生活が苦しいことは分かった。……でも、それが俺に何の関係があるんだ?」
「え……?」
美奈は言葉を失った。
「関係あるでしょ? 私たちは元恋人で……」
「元、だろ。半年前、君は俺のことを『つまらない男』と切り捨てて、あの男を選んだ。その時点で、俺たちの契約は終了してるんだ」
健人の声は淡々としていた。怒鳴るわけでもなく、諭すわけでもない。ただ事実を陳列しているだけだ。
「君が選んだ『刺激的な男』との生活が破綻したからといって、なぜ俺がその尻拭いをしなきゃいけない? それは君自身が選択したリスクの結果だろう。バグが出たなら自分でデバッグするんだな」
「そ、そんな言い方……! 私は被害者なのよ!?」
「俺も被害者だったよ」
健人の瞳が、一瞬だけ鋭く光った。
「婚約指輪を買って帰った日に、自宅の寝室で君たちの情事を聞かされた俺の気持ちを、君は一度でも考えたことがあるか? 俺がどんな思いで家を出て、どんな思いで指輪を処分したか、想像したことがあるか?」
「それは……ごめんなさい、謝るから……!」
「謝罪なんていらない。俺が欲しいのは、君との完全な断絶だ」
健人は懐から財布を取り出した。
美奈の目が輝いた。お金をくれるのかもしれない。手切れ金でもいい、今の生活から抜け出せるなら。
しかし、健人が取り出したのは金ではなかった。
一枚の名刺だ。
「これは、俺が依頼している弁護士の名刺だ。慰謝料請求の手続きは進んでいるが、君の居所が不明で滞っていた。連絡が取れてよかったよ」
名刺がひらりと美奈の前に落ちた。
「え……慰謝料……?」
「ああ。不貞行為に対する正当な請求だ。レイジという男は逮捕されたが、君への請求権は消えていない。分割でも何でもいいから、きっちり払ってもらう」
「む、無理よ! 私、借金もあるのに……払えるわけないじゃない!」
「それは君の問題だ。自己破産するなり、昼夜働くなりして解決してくれ。俺には関係ない」
健人は冷たく言い放つと、踵を返した。
その背中は、かつて美奈が知っていた「都合のいい男」のそれではなかった。
巨大な壁のように、冷たく、そして高くそびえ立っていた。
「待って! 行かないで! 健人がいなくなったら、私どうすればいいの!?」
美奈は半狂乱になって健人にすがりつこうとした。
その時、沙織がスッと二人の間に割って入った。
ハイヒールの音が、カツンと石畳に響く。
沙織は美奈の目の前に立ち、その美しい顔を近づけた。
「……いい加減にしなさい」
低く、ドスの効いた声だった。
「あなたは今、私の婚約者に触れようとしたわね?」
「こ、婚約者……?」
「ええ。この人は、私の夫になる人よ。そして、サイバーフロント・テックのシニアマネージャーとして、多くの部下とプロジェクトを背負っている責任ある立場の人間なの。あなたのような人間が、気安く泥を塗っていい相手じゃない」
沙織の言葉には、圧倒的な威圧感があった。
社会的地位、経済力、そして人間としての格。その全てにおいて、今の美奈とは天と地ほどの差があることを、有無を言わせぬ迫力で突きつけてくる。
「あなたは『つまらない』と言ったそうね。見る目がないにも程があるわ。彼は誠実で、有能で、何より私を大切にしてくれる最高のパートナーよ。あなたが捨ててくれたおかげで、私が彼と出会えたことだけは感謝してあげる」
沙織はにっこりと微笑んだ。その笑顔は美しかったが、目は笑っていなかった。
「二度と、私たちの前に現れないで。これ以上つきまとうなら、弁護士だけでなく警察も動かすわ。会社の法務部も総動員して、徹底的に叩き潰す」
「ひっ……」
美奈は腰を抜かした。
勝てない。どう足掻いても勝てない。
女としての魅力も、立場も、何もかもが完敗だった。
沙織は軽蔑の眼差しを最後に向け、健人の腕を抱いた。
「行きましょう、あなた。空気が悪いわ」
「ああ、そうだね」
健人は優しく沙織に微笑みかけ、美奈には一度も視線を戻すことなく歩き出した。
「あ……ああ……」
遠ざかっていく二人の背中。
きらびやかなイルミネーションの下、幸せそうに寄り添うその姿は、まるで映画のワンシーンのようだった。
そしてその映画には、美奈の役など最初から存在しなかったのだ。
取り残された美奈の周りに、冷たい風が吹き荒れる。
地面に落ちた弁護士の名刺が、風に飛ばされて側溝の水溜まりに落ちた。
「嘘だ……こんなの嘘だ……」
美奈は濡れた名刺を拾おうとして、泥水の中に手を突っ込んだ。
指先がかじかんで感覚がない。
その時、遠くからサイレンの音が聞こえてきた。
誰かが通報したのだろうか。
「逃げなきゃ……」
でも、どこへ?
帰る家もない。金もない。頼れる人もいない。残っているのは、莫大な借金と、慰謝料請求と、惨めな記憶だけ。
美奈は泥水に浸かった自分の手を見つめた。
かつてはネイルサロンに通い、綺麗に飾っていた指先。今は爪が割れ、泥にまみれている。
「私が……悪かったの……?」
初めて、本当の意味での後悔が胸を締め付けた。
レイジを選んだことも、健人を裏切ったことも、全て自分の選択だった。
『その三年を裏切ったのは、君だよ』
健人の言葉が、呪いのように頭の中で反響する。
そうだ。私は、一番大切なものを、自分自身の手でゴミ箱に捨てたのだ。
そして今、私がゴミとして捨てられたのだ。
パトカーの赤色灯が、ビルの壁を赤く染めながら近づいてくる。
美奈は逃げる気力さえ失い、その場に崩れ落ちたまま、空を見上げた。
東京の空は明るすぎて、星など一つも見えない。
かつて健人がプレゼントしてくれた、小さな星のネックレスのことを思い出した。
「安っぽい」と笑って、一度も着けずにフリマアプリで売ってしまったあのネックレス。
あれは、本物のプラチナだったと、後で知った。
私は、本物の輝きが何ひとつ見えていなかった。
涙すら、もう枯れ果てていた。
警察官が二人、こちらに向かって走ってくるのが見えた。
「君、大丈夫か? 通報があったんだけど」
警察官の声さえ、遠い世界の出来事のように聞こえた。
美奈の物語は、ここで終わった。
いや、終わることさえ許されず、ただただ長く苦しい「余生」が、ここから始まるのだ。
一方、タクシーに乗り込んだ健人と沙織は、互いの手を握り合っていた。
「……大丈夫?」
沙織が心配そうに健人の顔を覗き込む。
健人は窓の外を流れる夜景を見つめたまま、静かに頷いた。
「ええ。不思議なくらい、すっきりしています。これで本当に、過去と決別できました」
健人は沙織の方を向き、その手を両手で包み込んだ。
「ありがとう、沙織さん。あなたがいてくれて本当によかった」
「ふふ、当たり前でしょ。私はあなたの守護神なんだから」
沙織はおどけて見せたが、その頬は赤らんでいた。
「愛してるよ、沙織」
「私もよ、健人」
二人は口づけを交わした。
タクシーは光の川の中を滑るように走り去っていく。
バックミラーに映る過去の残骸は、もう二人の視界には入っていなかった。
ただ、輝かしい未来だけが、フロントガラスの向こうに広がっていた。
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