第四話 急転直下
季節は巡り、街路樹の緑が鮮やかさを増していた。俺、佐藤健人がサイバーフロント・テックに入社してから、半年が経過しようとしていた。
「佐藤マネージャー、今回のプロジェクト『フェニックス』の最終報告書、役員会で承認されました。これで正式にローンチ決定です!」
部下の興奮した声が、会議室に響く。
「ありがとう。みんなの頑張りのおかげだ。特に、後半の負荷テストでの粘りは素晴らしかった」
俺が労いの言葉をかけると、チームメンバーたちは安堵と誇らしげな表情を浮かべた。
この半年間は、怒涛の日々だった。
炎上案件の鎮火から始まり、新規大規模プラットフォームの構築まで。俺は寝る間も惜しんで働き、リスクを先回りして潰し、確実な成果を出し続けた。
その結果は、目に見える形で現れた。
入社半年でのマネージャー昇格。そして、年収は前職の倍以上、一千万円の大台を軽々と超えた。
かつて「つまらない男」と罵られ、安居酒屋の会計を気にしていた自分が、嘘のように思える。
「健人さん、少し時間いいかしら?」
会議室のドアが開き、氷川沙織部長が入ってきた。
社内では相変わらず「氷の女帝」として恐れられている彼女だが、俺を見る目だけは、春の日差しのように柔らかい。
「はい、部長。何かトラブルですか?」
「違うわ。……これ、人事からの辞令」
彼女が差し出した封筒を受け取る。中身を確認した俺は、目を見開いた。
「シニアマネージャーへの昇格……? まだ半年ですよ?」
「異例中の異例ね。でも、文句を言う役員はいなかったわ。あなたの実績はそれほど圧倒的だったということ」
沙織は満足げに微笑み、そして少し声を潜めた。
「それと……今夜、空いてる? お祝いをしたいの。この前言ってた、予約の取れないイタリアンが取れたから」
「もちろん空いてます。楽しみにしています」
「ええ。……大事な話もあるしね」
彼女の頬がほんのりと染まっているのを見て、俺の胸は高鳴った。
仕事も、プライベートも、すべてが順調だった。まるで、人生の伏線をすべて回収していくかのように。
*
一方その頃、都内のオフィス街にある古い雑居ビル。
田中美奈の派遣先である中堅商社のオフィスは、重苦しい空気に包まれていた。
「田中さん、ちょっと」
課長に呼ばれ、美奈はビクリと肩を震わせた。
最近、仕事でのミスが続いていた。入力データの数字を間違えたり、電話の取次ぎを忘れたり。
原因は明らかだった。レイジだ。
あの日以来、レイジとの連絡が途絶えがちになっていた。「海外の投資家と極秘の会議中だ」「電波の届かない研究所にいる」などと言い訳をし、家に帰ってくることも週に一度あるかないか。
そして何より、美奈を追い詰めていたのは、あの日借りた消費者金融からの督促メールと、レイジの会社の資金繰りに対する不安だった。
「は、はい……」
おどおどしながらデスクへ向かうと、課長は渋い顔で受話器を指差した。
「外線だ。君宛に、かなり乱暴な口調の男性から」
「えっ……」
心臓が嫌な音を立てた。
恐る恐る受話器を取る。
「は、はい、田中です……」
『あー? やっと出たか。おいコラ、テメェいつまで逃げ回ってんだ?』
受話器の向こうから、ドスの効いた怒鳴り声が響いた。美奈は反射的に受話器を耳から離した。
「ど、どちら様ですか……?」
『とぼけんじゃねえぞ! 連帯保証人になってるだろうが! アンタの旦那だか彼氏だか知らねえが、あの『レイジ』って野郎がトンズラこいたんだよ!』
「えっ……?」
思考が停止した。トンズラ? レイジが?
『会社の事務所ももぬけの殻だ。電話も繋がらねえ。契約書にはアンタが連帯保証人になってる。元金と利息、遅延損害金合わせて五百万、耳揃えて返してもらうぞ!』
「ご、五百万!? そんな、私はただサインしただけで……」
『知ったことか! 今からそっち行くからな。覚悟しとけよ!』
ガチャリ、と乱暴に電話が切れた。
美奈は呆然と立ち尽くした。オフィス中の視線が自分に集まっているのを感じる。
「た、田中さん……今の電話は……?」
課長が引きつった顔で尋ねる。
「借金取り? 会社にまで?」
「あの、違うんです、これは何かの間違いで……」
美奈は震える声で弁解しようとしたが、言葉が出てこない。
その時、オフィスの入り口が騒がしくなった。
「おい! 田中美奈はどこだ!」
黒いスーツを着た、見るからに堅気ではない男たちが二人、受付を突破して入ってきたのだ。
「ひっ……!」
美奈は悲鳴を上げ、デスクの下に潜り込もうとした。
しかし、現実は残酷だ。男たちはすぐに美奈を見つけ、その腕を掴み上げた。
「見つけたぞ。ここで話すと迷惑だろうから、ちょっと表出ようか」
「いや! 離して! 助けて!」
オフィスはパニックに陥った。同僚たちが警察を呼ぼうとスマホを取り出す。
「警察呼ぶなら呼べよ! こっちは正当な債権回収に来てんだ! 詐欺師の共犯者に情けかける必要あんのか!?」
男の怒号に、美奈の思考は真っ白に染まった。
詐欺師。共犯者。
その言葉が、鋭い楔となって脳裏に突き刺さる。
その日の騒ぎは、警察が到着するまで続いた。
男たちは連行されたが、美奈も事情聴取を受けることになった。
そして翌日、会社からは「契約更新の拒否」――事実上の解雇を言い渡された。
「職場に反社会的勢力のような人間を招き入れ、業務を著しく妨害した」というのが理由だった。
美奈は反論すらできなかった。
段ボール箱一つに私物を詰め込み、会社を追い出される。
空は抜けるように青いのに、美奈の視界は灰色に濁っていた。
「レイジくん……どうして……」
震える手でスマホを取り出し、何度目か分からない電話をかける。
『おかけになった電話番号は、現在使われておりません』
アナウンスが変わっていた。着信拒否ですらない。解約されているのだ。
美奈はそのまま、レイジの会社があると聞いていた港区のオフィスビルへと向かった。
タクシー代などない。電車と徒歩で、汗だくになりながらたどり着いた。
そこは、洒落た外観のシェアオフィスだった。受付で「株式会社フューチャー・イノベーション」の名前を告げる。
受付の女性は、哀れむような目で美奈を見た。
「その会社様でしたら、先週、契約解除で退去されました。……お客様で五人目ですよ、今日だけで」
「五人目……?」
「ええ。被害に遭われたという方が、次々といらっしゃって……警察にも相談された方がいいかと思います」
美奈はその場に崩れ落ちた。
起業家。年収数億。セレブな生活。
すべてが嘘だった。
レイジは、結婚詐欺と投資詐欺を繰り返す常習犯だったのだ。
「私……借金してまで……」
頭の中を、あの日の健人の言葉がよぎった。
『デートも安い居酒屋ばっかり』
『つまらない男』
健人は、堅実に貯金をし、身の丈に合った生活をしていただけだった。それは「ケチ」なのではなく、「誠実」だったのだ。
それに比べてレイジは、美奈の虚栄心と欲望につけ込み、骨の髄までしゃぶり尽くした。
「あは……あはは……」
乾いた笑いが漏れる。
私は、本物のダイヤモンドをドブに捨てて、メッキの剥がれたガラス玉を拾ったのだ。
*
夜、青山にある隠れ家的なイタリアンレストラン。
テラス席からは、東京タワーの夜景が見えた。
「乾杯」
健人と沙織は、ヴィンテージの赤ワインでグラスを合わせた。
「シニアマネージャー昇格、本当におめでとう。あなたの努力が報われて、私も鼻が高いわ」
「ありがとうございます。でも、沙織さんのサポートがあったからこそです」
健人が照れくさそうに言うと、沙織は真剣な眼差しで彼を見つめた。
「ねえ、健人さん。私、仕事だけの関係じゃ物足りなくなっちゃったみたい」
彼女はテーブルの上に置かれた健人の手に、自分の手を重ねた。
「半年前、あなたが面接に来た時、正直驚いたの。浮気されて傷ついているはずなのに、それを力に変えようとする強さに。そしてこの半年間、あなたは有言実行で証明してみせた」
沙織の指が、健人の指に絡む。
「私、あなたのその不器用な誠実さが好きなの。……私と、結婚を前提にお付き合いしてくれませんか?」
健人は息を呑んだ。
逆プロポーズ。まさか、上司である彼女から言われるとは。
しかし、迷いはなかった。この半年間、彼女の厳しさの中に隠れた優しさや、仕事への情熱、そして時折見せる可愛らしい一面に、健人も深く惹かれていたのだ。
健人はバッグから、小さな箱を取り出した。
今日のために用意していたものだ。かつて美奈に渡すはずだったものとは違う、沙織に似合うシンプルで洗練されたデザインの指輪。
「僕からも、言わせてください。……沙織さん、僕と結婚してください。公私ともに、あなたのパートナーになりたいです」
沙織は目を見開き、そして大粒の涙をこぼした。
「……ずるいわよ、健人さん。そこは私がリードしようと思ってたのに」
「これからは、二人で並んで歩きましょう」
健人は彼女の左手の薬指に指輪をはめた。サイズはぴったりだった。
夜景の輝きよりも、彼女の涙に濡れた笑顔の方が、健人には美しく見えた。
「幸せにするよ、とは言いません。一緒に幸せになりましょう」
「ええ……喜んで」
二人は口づけを交わした。
過去の傷跡はもう痛まない。それは確かな「経験」として昇華され、二人の未来を強固にする礎となっていた。
*
その頃、美奈は電気の止まった真っ暗なマンションの一室にいた。
レイジがいなくなった部屋は、不気味なほど静かだ。
スマホの充電残量は残りわずか。画面の明かりだけが、美奈の顔を青白く照らしている。
SNSを開くのが怖かった。でも、見ずにはいられなかった。
Twotterのトレンドに「#投資詐欺」「#レイジ」というワードが上がっている。
恐る恐るタップすると、被害者の会のアカウントが作られており、そこにはレイジの写真と共に、美奈の写真も晒されていた。
『この女もグルだ』
『投資詐欺の片棒を担いでた女。私の金返せ!』
『会社に凸したらクビになったらしいw ざまぁ』
『田中美奈って名前らしい。実家の住所特定したわ』
罵詈雑言の嵐。個人情報は丸裸にされていた。
友達だと思っていた人たちからも、MINEでメッセージが届いていた。
『美奈、あんた詐欺師と付き合ってたってマジ? もう関わらないで』
『お金貸してって言ってたの、詐欺の資金だったの? 最低』
『ブロックします。さようなら』
次々と「退出しました」の表示が並ぶ。
孤独。完全なる孤独。
頼れる人は誰もいない。実家に電話したが、父からは「お前のせいで近所から白い目で見られている。借金取りまで来た。二度と敷居を跨ぐな」と怒鳴られ、一方的に切られた。
「どうして……どうして私だけこんな目に……」
涙も枯れ果てていた。
ただ、空腹と寒さと、絶望だけがある。
ふと、Oustaのおすすめ欄に、見覚えのある名前が表示された。
「氷川沙織」
誰だっけ。ああ、大手IT企業の女性役員として、最近メディアにも出ていた人だ。
無意識にそのアカウントを開く。
最新の投稿は、一時間前。
『最高のパートナーと、新しい人生のスタート。#婚約 #幸せ』
写真には、夜景をバックに幸せそうに微笑む沙織と、その隣で優しく微笑む男性の姿。
二人の薬指には、お揃いの指輪が光っている。
その男性の顔を見て、美奈の心臓が止まりそうになった。
「……健人?」
見間違うはずがない。少し痩せて精悍になったが、あの優しい目元は健人そのものだ。
スーツも時計も、かつての彼とは違う高級品を身につけている。何より、その表情が、美奈といた時とは比べ物にならないほど自信に満ち溢れている。
「嘘でしょ……? なんで健人が、こんなすごい人と……?」
キャプションを読む。
『彼と出会って半年。逆境をバネにする彼の強さに惚れました。これからは二人三脚で歩んでいきます』
半年。私たちが別れてからの時間と同じだ。
私が詐欺師に騙され、借金まみれになって落ちていく間に、健人は大手企業の幹部と恋に落ち、成功の階段を駆け上がっていたのだ。
スマホの手から滑り落ち、床に鈍い音を立てた。
画面の中で、健人と沙織の笑顔が輝いている。
「返してよ……」
美奈は暗闇の中で呟いた。
「私の健人を返してよ……! 幸せになるのは私だったはずなのに!」
叫び声は、誰にも届くことなく、空っぽの部屋に吸い込まれていった。
玄関のドアを叩く音がする。また借金取りだ。
美奈は耳を塞ぎ、小さくうずくまるしかなかった。
かつて「つまらない」と切り捨てた男が、今は手の届かない天空の星となり、自分は泥沼の底で窒息しかけている。
その残酷な対比こそが、彼女への最大の復讐であることに、美奈はようやく気づき始めていた。
しかし、気づいた時にはもう、すべてが手遅れだったのだ。
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