第三話 開花する才能、腐りゆく果実

サイバーフロント・テックの開発フロアは、異様な熱気に包まれていた。

壁一面のホワイトボードには無数のタスクが殴り書きされ、床には空になったエナジードリンクの缶が転がっている。キーボードを叩く音だけが、絶え間なく響き渡る。

入社して一ヶ月。俺、佐藤健人が配属されたのは、社内でも「墓場」と呼ばれる炎上プロジェクトの鎮火チームだった。


「佐藤さん! データベースの同期エラー、まだ解消しません! このままじゃ明日のリリースに間に合いません!」

「落ち着いて。まずはエラーログのタイムスタンプを確認。トランザクション処理が競合している箇所があるはずだ。該当のクエリを抽出して、ロックの範囲を最小限にする修正パッチを当てる。コードは俺が書くから、君はテスト環境の構築を頼む」

「は、はい! すぐやります!」


悲鳴のような報告にも、俺の声は冷静だった。

以前の会社でも修羅場は何度も経験している。それに比べれば、ここの「炎上」はまだ論理的だ。リソースはある、技術力のあるメンバーもいる。足りないのは、混乱した状況を整理し、的確な指示を出す指揮官だけだ。

俺は三つのモニターを同時に監視しながら、チャットツールで各チームの進捗を管理し、同時にクリティカルなバグの修正コードを書き殴る。

脳内は驚くほどクリアだった。感情というノイズがない分、論理的思考が最高速度で回転している。


「……見事ね」


背後から、凛とした声が聞こえた。

振り返ると、腕を組んだ氷川沙織部長が立っていた。その鋭い視線は、モニターの画面と、俺の手元の動きを交互に見ている。


「この規模の障害を、ここまで短時間で切り分けるなんて。前のリーダーなら、今頃パニックで会議室に閉じこもっていたわ」

「会議をしている暇があったら、一行でもコードを修正すべきですから。それに、リスク管理は私の性分ですので」


俺は手を止めずに答えた。


「性分、ね。……『つまらない男』の真骨頂というわけか」

「ええ、その通りです」


自虐的に返すと、沙織はふっと口元を緩めた。


「訂正するわ。あなたは『頼りになる男』よ。この調子で頼むわね、佐藤マネージャー」

「……はい」


マネージャー。入社一ヶ月での異例の抜擢だった。

沙織は俺の能力を正当に評価し、権限を与えてくれた。前の会社では「融通が利かない」と疎まれた俺の慎重さは、ここでは「鉄壁の守り」として称賛される。

水を得た魚とはこのことか。俺はキーボードを叩く指に、さらに力を込めた。



一方、その頃。

かつて健人と暮らしていたマンションのリビングで、田中美奈はスマホの画面を睨みつけていた。


「……今月のカード請求、二十万?」


画面に表示された数字に、美奈は息を呑んだ。

家賃、光熱費、食費。健人が払ってくれていたそれらが、全て美奈の口座から引き落とされるようになったのだ。それに加えて、レイジとのデート代。彼は「財布を忘れた」「カードの磁気が飛んだ」と言って、支払いを美奈に任せることが多かった。


「まあ、レイジくんの事業が軌道に乗れば、こんなの端金だもんね」


美奈はそう自分に言い聞かせる。

レイジは今、大きなプロジェクトを動かしているらしい。「投資家との会食」や「システム開発の打ち合わせ」で忙しく、最近は家に帰ってこない日も増えていた。


ガチャリ、とドアが開く音がした。


「ただいまー」

「レイジくん! おかえり!」


美奈は玄関に駆け寄った。レイジは高級そうなスーツを着崩し、少し酒の匂いをさせていた。


「ごめん、遅くなって。投資家との交渉が長引いちゃってさ」

「ううん、お疲れ様。ご飯にする?」

「いや、それより美奈。ちょっと大事な話があるんだ」


レイジは深刻な顔でリビングのソファに座り込んだ。

美奈の心臓が早鐘を打つ。もしかして、プロポーズ? 健人と別れて一ヶ月、そろそろあってもおかしくない。

期待に胸を膨らませて隣に座ると、レイジは美奈の手を強く握りしめた。


「実は、会社設立の手続きで、どうしても一時的にまとまった運転資金が必要になったんだ」

「え……お金?」

「ああ。投資家からの出資は決まってるんだけど、入金されるのが来月なんだよ。でも、オフィスの契約金と機材の購入費は今週中に払わないといけない。このままだと、せっかくのビッグチャンスを逃してしまう」


レイジは苦渋の表情で頭を抱えた。


「俺の夢が、あと一歩のところで……」


美奈は慌てた。彼の夢は、私の夢でもある。起業家の妻として、セレブな生活を送る未来がかかっているのだ。


「いくら必要なの?」

「三百万」

「さ、三百万!?」


美奈は素っ頓狂な声を上げた。そんな大金、貯金もない自分に払えるわけがない。


「美奈に出せとは言わない。ただ、銀行から融資を受けるための『保証人』になってほしいんだ。あと、もし可能なら……消費者金融で少し借りてきてくれないか? すぐに返すから。来月には倍にして返す」

「保証人……借金……」


美奈の中に、わずかな躊躇いが生まれた。健人なら絶対に「やめておけ」と言うだろう。彼はそういうリスクを何よりも嫌う男だった。

だが、目の前のレイジは違う。彼は挑戦者だ。リスクを取れる男だけが、大きな成功を掴めるのだ。

ここで断ったら、私は「つまらない女」になってしまう。健人と同じ、臆病者になってしまう。


「……わかった。私、やるよ」

「本当か!?」


レイジの顔がぱっと明るくなった。


「ありがとう、美奈! やっぱりお前は最高のパートナーだ! 健人みたいな器の小さい男には、お前の良さは分からなかったんだよ」


強く抱きしめられ、美奈の不安は消し飛んだ。

私は選ばれたのだ。未来の成功者に、唯一無二のパートナーとして認められたのだ。

翌日、美奈はレイジに言われるがまま、数社の消費者金融を回り、限度額いっぱいの金を借りた。さらに、連帯保証人の契約書にも実印を押した。

震える手で渡した現金の束を、レイジは無造作に鞄に放り込み、美奈の額にキスをした。


「愛してるよ、美奈。これで俺たちは勝者だ」


その言葉に、美奈は酔いしれた。



プロジェクトのリリース当日。

最終テストをクリアし、システムは無事に稼働を開始した。

大きなトラブルもなく、むしろ以前よりパフォーマンスが向上しているという報告を受け、開発ルームは歓声に包まれた。

「やったー!」「帰れるぞー!」「佐藤さん、マジ神っす!」

部下たちがハイタッチを交わす中、俺は静かに椅子に深く腰掛けた。

達成感がないわけではない。ただ、安堵の方が大きかった。

ふと、肩に温かい手が置かれた。


「お疲れ様。完璧な仕事だったわ」


見上げると、沙織が柔らかい表情で立っていた。


「今日は早く上がりなさい。……いえ、付き合ってもらうわよ。祝勝会が必要ね」

「チームのみんなと飲みに行きますか?」

「いいえ。あなたと二人で」


沙織はいたずらっぽくウィンクした。


「特別ボーナスよ。断らないわよね?」


連れて行かれたのは、西麻布にある会員制のフレンチレストランだった。

看板もなく、重厚な扉を開けると、そこには洗練された空間が広がっていた。間接照明に照らされた店内は静かで、客層も明らかにハイソサエティだ。

かつて美奈と行っていたチェーンの居酒屋とは、空気の密度すら違う気がした。


「緊張してる?」


向かいの席で、沙織がシャンパングラスを傾けながら微笑む。彼女は今夜、オフィスでのパンツスーツではなく、深い藍色のドレスを纏っていた。その美しさに、俺は思わず息を呑む。


「……正直、場違いじゃないかと」

「そんなことないわ。あなたはここに座る資格がある。今回のプロジェクトの成功で、役員たちもあなたの手腕を評価しているのよ」


運ばれてきた料理は、見たこともないほど繊細で美しかった。

口に運ぶと、複雑で奥深い味わいが広がる。


「美味しい……」

「でしょう? 私、美味しいものを食べるためだけに働いてるようなものだから」


沙織は楽しそうに笑った。会社での「氷の女帝」としての姿はどこにもない。

食事とお酒が進むにつれ、会話は自然とプライベートなことへ移っていった。


「ねえ、佐藤さん。……前の彼女さんのこと、まだ引きずってる?」


唐突な問いに、俺はナイフを持つ手を止めた。


「いえ。不思議なくらい、何もないんです。怒りも、未練も。ただ、過去のデータとしてアーカイブされた感覚というか」

「ふふ、エンジニアらしい表現ね」


沙織はグラスを見つめ、少し声を落とした。


「私もね、昔あったの。仕事ばかりしてたら、婚約者に逃げられたことが」

「えっ、部長がですか?」

「そう。『君といると息が詰まる』って。私、完璧主義だから、相手にもそれを求めすぎてたのね。それ以来、恋愛はもういいかなって思ってたんだけど」


彼女は顔を上げ、俺の目をまっすぐに見つめた。

その瞳は、少し潤んでいるように見えた。


「でも、あなたを見てると……考えが変わるの。仕事に誠実で、裏切られた痛みを燃料に変えて、前に進もうとする強さ。そういう人と一緒なら、きっと背中を預けられるんじゃないかって」


心臓が大きく跳ねた。

これは、ただの上司としての評価なのだろうか。それとも。


「佐藤さん。私、あなたのそういう『つまらない』誠実さが、今はとても愛おしく思えるの」


その言葉は、かつて俺を傷つけた「つまらない」という言葉の意味を、完全に塗り替えるものだった。

俺の中で、凍りついていた何かが、温かい熱を持って溶け出していくのを感じた。


「……光栄です。俺も、あなたのような人の下で働けて、本当に救われました」


俺たちはグラスを合わせた。

カチン、と澄んだ音が響く。それは新しい関係の始まりを告げる合図のようだった。

帰り際、タクシーに乗り込む彼女を見送る時、沙織は俺の手を握った。


「明日も、頼りにしてるわよ。私のパートナー」

「はい。おやすみなさい、沙織さん」


自然と名前で呼んでいた。彼女は少し驚いた顔をして、それから花が咲くように笑い、タクシーの中に消えていった。



その夜、美奈は一人、コンビニのパスタを啜っていた。

レイジは今日も帰ってこない。「大事な接待がある」と言っていた。

ふと、寂しさを紛らわせるためにOustaを開く。

レイジのアカウントを検索する。彼は頻繁に「キラキラした生活」を投稿している。

最新の投稿があった。一時間前だ。


『最高の一夜。勝利の美酒に酔いしれる』


写真には、夜景の見えるバーのカウンターと、高級そうなウイスキーのボトル。そして二つのグラスが写っていた。


「……接待って、バーでするのかな」


美奈は首を傾げた。

写真を拡大する。

グラスの横に、何かが置かれているのが見えた。

それは、ピンク色の、小さなブランド物のポーチのように見えた。

レイジの趣味ではない。明らかに女性のものだ。


「まさか……」


いや、違う。きっと取引先の女性社長とか、そういうビジネスパートナーだ。レイジは言っていたじゃないか。「美奈が一番だ」って。「結婚しよう」って(言ってはいないが、そういう雰囲気だった)。

美奈は強引に不安を打ち消そうとした。

しかし、画面をスクロールすると、コメント欄に見知らぬアカウントからの書き込みがあった。


『レイジくん、昨日はありがと♡ また遊ぼうね!』


アイコンは、派手なメイクをした若い女性だった。

美奈の指が震える。

その女性のプロフィールに飛ぶ。最新の投稿には、レイジと同じバーの写真。そして、レイジらしき男性の腕に絡みついている写真がアップされていた。

『新しい彼ピ♡ 起業家でお金持ち! 最高すぎ!』


コンビニパスタのプラスチック容器が、床に落ちた。

トマトソースがカーペットに広がり、赤いシミを作っていく。


「嘘……嘘よ……」


美奈は頭を振った。

信じたくない。信じられるわけがない。

だって、私は借金までしたのよ? 保証人にまでなったのよ?

彼が私を裏切るはずがない。だって、私は健人という「つまらない男」を捨てて、彼を選んだのだから。私の選択が間違っているはずがないのだ。


「きっと何かの間違い。明日、レイジくんに聞けば……」


美奈は震える手でスマホを握りしめた。

しかし、彼女の心の中に生まれた疑念の黒い染みは、カーペットの汚れのように、もう消すことはできなかった。

部屋の隅には、督促状の束が未開封のまま積まれている。

華やかだったはずの未来が、音を立てて腐り落ちていく音が、美奈にはまだ聞こえていなかった。

いや、聞こえないふりをしていただけなのかもしれない。


窓の外では、冷たい雨が降り始めていた。

それは、美奈のこれからを暗示するかのように、暗く、重く、街を濡らしていった。

一方、高級マンションの一室で眠りにつく健人の夢は、かつてないほど穏やかで、希望に満ちていた。

運命の歯車は、残酷なまでに正確に、因果応報の時を刻んでいた。

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