第二話 断捨離と新天地

まぶしい朝の日差しが、遮光カーテンの隙間から差し込んでくる。田中美奈は気怠げに目を開け、隣で規則正しい寝息を立てている男の背中に視線をやった。

レイジだ。鍛え上げられた広い背中には、昨夜の情事の痕跡が薄っすらと残っている。それを見て、美奈はふふっと小さく笑みをこぼした。

健人にはない、男としての色気と危険な香り。この刺激こそが、私が求めていたものだ。

時計を見ると、時刻は午前九時を回っている。今日は有給を取っていたから寝坊しても問題ないが、そろそろ起きなければ。

美奈はサイドテーブルのスマホに手を伸ばし、いつものようにMINEを開いた。健人から「昨日はごめん」とか「朝ごはんは?」なんていう、面白みのないメッセージが届いているだろうと予想していた。

しかし、トーク画面を開いた美奈の指が止まった。


『メンバーがいません』

『退出しました』


健人とのトーク履歴の下に、無機質なシステムメッセージが表示されている。アイコンは初期設定のシルエットに戻っており、名前も表示されない。


「え……?」


寝ぼけた頭が一瞬で覚醒する。これは、アカウントを削除したか、あるいはブロックされた時の表示だ。

慌てて電話をかけてみる。


『おかけになった電話番号は、お客様のご都合によりおつなぎできません』


冷たいアナウンスが耳に刺さる。着信拒否だ。


「なによ、これ」


美奈はベッドから飛び起きた。意味が分からない。昨日まで普通だったはずだ。いや、昨日は帰ってきていなかった。残業だと言っていたけれど、まさか何かあったのか。

リビングへと急ぐ。そこで美奈は、異様な光景を目にした。

いつもなら、ソファの端に置かれているはずの健人の読みかけの技術書がない。ラックに掛かっていた彼のジャケットもない。

恐る恐るクローゼットを開ける。

そこには、私の服だけがぎっしりと並んでいて、健人の服がかかっていたスペースだけが、まるで最初から誰もいなかったかのようにぽっかりと空いていた。


「嘘……荷物がない」


美奈はその場に座り込んだ。

夜逃げ? いや、ここ彼の家だし。じゃあ、出て行った?


「んあ……美奈、どうしたの? そんな大きな声出して」


寝室から、目をこすりながらレイジが出てきた。上半身裸のまま、あくびをしている。


「レイジくん! 健人が……健人の荷物がなくなってるの! MINEもブロックされてるし、電話も繋がらない!」


美奈が訴えると、レイジは「ふーん」と興味なさそうに鼻を鳴らした。


「そりゃ、バレたんじゃない?」

「えっ」

「昨日さ、俺たちの声、結構大きかったし。もしかしたら帰ってきてたんじゃね?」


レイジの言葉に、美奈の顔から血の気が引いた。もしそうなら、最悪だ。修羅場になる。怒鳴り込まれる。

怯える美奈の肩を、レイジが優しく抱き寄せた。


「大丈夫だって。あいつ、何も言わずに消えたんだろ? だったら好都合じゃん。いちいち別れ話で揉める手間が省けたよ」

「でも……」

「美奈は俺が守るから。あんなつまんない男、こっちから願い下げだろ? これで堂々と付き合える」


耳元で囁かれる甘い言葉。レイジの体温と匂いに包まれると、美奈の不安は不思議と溶けていくようだった。

そうだ。私はレイジを選んだんだ。健人は所詮、過去の男。勝手に出て行ってくれたなら、むしろラッキーなのかもしれない。


「……そうだよね。レイジくんがいるもんね」

「そうそう。今日はさ、美味いランチでも食いに行こうぜ。俺が奢るから」

「うん! 大好き!」


美奈はレイジの胸に顔を埋めた。不安なんて感じる必要はない。私には、このハイスペックな彼がいるのだから。



その頃、佐藤健人は都内のビジネスホテルの狭い一室で、ノートPCに向かっていた。

昨夜はほとんど眠れなかったが、頭は驚くほど冴えていた。

まずは会社への連絡だ。有給休暇はたっぷり残っている。退職代行サービスを使うことも考えたが、直属の上司には世話になった恩義がある。メールで簡潔に事情を説明し、今日付けで退職したい旨と、引継ぎ資料は全てサーバーの共有フォルダに格納してあることを伝えた。


『一身上の都合により、退職させていただきます』


送信ボタンを押す。不思議と未練はなかった。あの会社での日々も、美奈との生活を維持するための手段に過ぎなかったのかもしれない。


次に、婚約指輪の入ったケースを取り出した。

昨夜調べたところ、購入したブランド店は「未使用かつ購入後一週間以内」なら返品・返金に応じてくれる可能性があるという。幸い、購入したのは昨日だ。

レシートと保証書を確認し、鞄に入れる。これは三十万円近い金になる。当面の活動資金として大きい。

そして、スマホを取り出し、半年前に接触があったヘッドハンターの名刺データを探した。


「エージェント・スミス……じゃなくて、高橋さんか」


以前、「あなたの技術ポートフォリオとGitHubの活動履歴を拝見しました。ぜひ弊社が懇意にしているクライアントにご紹介したい」と熱心に誘ってくれた人物だ。

時刻は十時。電話をかけるには丁度いい。

コール音は三回目で途切れ、明るい声が響いた。


『はい、キャリア・ネクストの高橋です』

「ご無沙汰しております。ネクスト・ソリューションの佐藤健人です」

『おお! 佐藤さん! お久しぶりです。どうされました?』

「実は、以前お話しいただいた件、まだ有効でしょうか。転職を考えていまして」

『本当ですか! もちろんです、というより佐藤さんなら喉から手が出るほど欲しい企業ばかりですよ。具体的にいつ頃から動けますか?』

「今日からです。最短でお願いします」

『……何かありましたね? まあ、詮索はしません。実は「サイバーフロント・テック」さんが、急募でPM候補を探しているんです。佐藤さんのスキルセットなら完璧にマッチします。今日の午後、面接設定できますか?』

「サイバーフロント・テック……」


昨夜見た広告の企業だ。運命めいたものを感じる。


「はい、行けます。お願いします」


電話を切ると、健人は鏡の前に立った。

目の下のクマはコンシーラーで隠し、髪を整える。スーツは昨日着ていたものだが、シワにならない素材を選んでいたのが幸いした。


「よし」


鏡の中の自分に声をかける。

「つまらない男」からの脱却だ。


昼過ぎ、健人は返品手続きを終え、その足で六本木にある高層ビルへと向かった。

サイバーフロント・テックの本社は、そのビルの最上層部を占めている。ガラス張りのエントランス、洗練された受付、行き交う社員たちの自信に満ちた表情。何もかもが、今までいた中小企業とは別世界だった。

受付で名前を告げると、すぐに面接室へと通された。

広々とした会議室からは、東京の街が一望できる。眼下に広がる景色を見下ろしていると、ドアが開いた。


「お待たせしました」


入ってきたのは、一人の女性だった。

黒のパンツスーツを着こなし、長い黒髪を後ろで一つに束ねている。整った顔立ちだが、その瞳は氷のように冷ややかで、鋭い知性を宿していた。

彼女が部屋に入った瞬間、空気がピリッと張り詰めたような気がした。


「システム開発部部長の、氷川沙織です」


彼女は短く名乗り、手元のタブレットに視線を落とした。


「佐藤健人さんですね。高橋さんから話は聞いています。技術試験のスコアは満点。GitHubのコードも拝見しましたが、非常に綺麗で保守性が高い。技術面に関しては文句なしです」


淡々とした口調で、彼女は続けた。


「ただ、気になったのは一点だけ。なぜ、このタイミングで、これほど急に転職を決意されたのですか? 前職での評価も高かったと聞いていますが」


彼女の目が、健人を射抜くように見つめる。

嘘をついても見抜かれる。そう直感した。

健人は姿勢を正し、真っ直ぐに彼女を見返した。


「正直に申し上げます。昨日、婚約者に浮気をされました」


沙織の眉が、ピクリと動く。


「帰宅したら、現場を目撃してしまいまして。その日のうちに家を出て、関係を清算しました。指輪も先ほど返品してきました」


健人は自嘲気味に笑った。


「彼女からは『つまらない男』だと言われました。安定志向で、冒険をせず、安居酒屋でデートを済ませるような男だと。……確かにその通りかもしれません。私はリスクを回避し、堅実に生きることだけを考えていましたから」


一息つき、言葉に力を込める。


「ですが、全てを失って気づいたんです。守りに入っているだけでは、何も守れないのだと。だから私は、自分を変えるために、最も厳しい環境である御社を志望しました。この逆境をバネに、仕事で圧倒的な成果を出したいと考えています」


沈黙が流れた。

健人は心臓が早鐘を打つのを感じていた。プライベートな恥を晒しすぎたかもしれない。不採用になるかもしれない。

だが、沙織は小さく息を吐き、ふっと口元を緩めた。それは、氷が解けるような、わずかな笑みだった。


「……面白いわね」


彼女はタブレットを置き、腕を組んだ。


「浮気された翌日に、指輪を換金して面接に来るなんて。その決断力と行動力、そして感情に流されずリスクヘッジを行う冷静さ。まさに、私が求めていたプロジェクトマネージャーの資質だわ」

「え?」

「うちは技術力だけじゃやっていけないの。トラブルが起きた時、パニックにならずに冷徹に損切りし、最短ルートでリカバリーできる人間が必要なのよ。『つまらない男』? いいえ、あなたは『優秀な男』よ」


沙織は立ち上がり、右手を差し出した。


「採用です、佐藤さん。私の部下として、その『逆境をバネにする力』を存分に発揮してもらうわ」


健人は呆気にとられながらも、慌てて立ち上がり、その手を握り返した。

彼女の手は冷たかったが、その握手は力強かった。


「ありがとうございます! 全力で期待に応えます」

「期待してるわ。覚悟しておいてね、うちは激務よ」


沙織はニヤリと笑った。その笑顔は、先ほどの冷徹な印象とは違い、どこか挑戦的で魅力的だった。


面接を終え、ビルを出た時には、空はまた茜色に染まり始めていた。

たった一日で、世界は激変した。

昨日の今頃は、絶望のどん底にいた。だが今は、武者震いが止まらないほどの高揚感に包まれている。

年収は提示額で前職の倍近くになった。仕事内容はハードだが、やりがいは段違いだ。そして何より、あの氷川沙織という上司の下で働けることが、健人には刺激的に思えた。


一方その頃、元同居していたマンションのポストには、一通の不在通知が入っていた。

差出人は「〇〇法律事務所」。

内容証明郵便だ。

美奈とレイジが高級ランチを楽しみ、Oustaに「幸せ♡」というタグ付きで写真をアップロードしている間に、現実という名の刃は、着実に彼女たちの喉元へと迫っていた。


健人はスマホを取り出し、Oustaのアプリをインストールした。今までSNSなんて興味もなかったが、これからは情報収集も必要だ。

何気なく検索画面を開くと、おすすめ欄に「#起業家彼氏」「#最高のランチ」というタグがついた投稿が表示された。

そこには、満面の笑みを浮かべる美奈と、気取ったポーズのレイジの写真があった。

場所は青山のフレンチレストラン。

健人はその画面を冷静に見つめ、スクリーンショットを撮った。


「証拠追加、と」


保存先は「慰謝料請求資料」フォルダ。

怒りはもう湧いてこない。ただ、哀れみだけがあった。


「せいぜい、今のうちに楽しんでおくといい」


健人はスマホをポケットにしまい、新しいスーツを買うためにデパートへと向かった。

もう、クーポンの有無を気にする必要はない。

自分の価値を高めるための投資なら、惜しむつもりはなかった。


新しい風が吹いていた。

それは、健人の背中を強く、強く押していた。

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