「つまらない男」と浮気された俺、即日破局して大手IT企業へ。冷徹な美人上司と始める逆転のサクセスストーリー
@flameflame
第一話 決別のカルテット
オフィスの窓から見える空が、茜色から群青色へと静かに移ろいでいく。キーボードを叩く指を止め、俺、佐藤健人は大きく伸びをした。モニターの右下に表示された時刻は十八時を少し回ったところだ。定時退社日である水曜日。普段なら残業に追われている時間帯だが、今日だけは絶対に定時で上がると決めていた。
「佐藤さん、今日は早いですね。珍しい」
隣のデスクでシステムログと格闘していた後輩が、驚いたように顔を上げる。俺は苦笑しながら、デスクトップ上のウィンドウを一つずつ丁寧に閉じていった。
「ああ、今日はちょっと大事な用事があってね」
「大事な用事? もしかしてデートですか? 佐藤さん、最近切り詰めてるみたいだったから、ついにパーッと使う時が来たんですね」
「まあ、そんなところかな」
曖昧に言葉を濁しながら、俺は鞄を手に取った。後輩の言葉通り、ここ一年ほど俺は極端な節約生活を送っていた。同僚との飲み会は二次会には行かず、昼食は愛妻弁当ならぬ自作の節約弁当。デートもクーポンが使える居酒屋や、無料で見られる夜景スポットばかりを選んでいた。
ケチだと思われているのは知っている。付き合いが悪いと陰口を叩かれたこともあった。けれど、それも今日で終わりだ。
俺の胸ポケットには、小さなベルベットの箱が入っている。中には給料三ヶ月分を叩いて購入した、プラチナの婚約指輪が収められていた。
交際して三年、同棲を始めて一年半になる彼女、田中美奈へのプロポーズ。そのために俺は必死で資金を貯めてきたのだ。彼女は派手なことが好きだから、結婚式も新婚旅行も彼女の理想を叶えてやりたい。その一心で、俺は「つまらない男」に徹してきた。
「お先に失礼します」
オフィスを出てエレベーターホールに向かう足取りは軽い。今日のデートの約束はしていない。彼女には「今日も残業で遅くなる」と伝えてある。サプライズで早く帰り、手料理を作って彼女の帰りを待ち、花束と指輪でプロポーズする計画だった。
スーパーに立ち寄り、彼女の好物であるハンバーグの材料と、少し奮発したワインを購入する。レジ袋の重みさえ心地よく感じられた。マンションまでの道のりを歩きがら、俺の頭の中はこれからの未来予想図で埋め尽くされていた。彼女が喜ぶ顔が見たい。驚いて、泣いて喜んでくれるだろうか。そんな想像をするだけで、口元が自然と緩んでしまう。
マンションのエントランスを抜け、エレベーターで五階へ上がる。静かな廊下に俺の足音だけが響く。角部屋である502号室の前で立ち止まり、鍵を取り出した。
いつもなら、ドアの向こうからテレビの音や美奈が鼻歌を歌う声が聞こえてくる時間ではない。彼女の仕事は派遣事務で、定時は十七時半だが、寄り道をして帰ってくることも多い。まだ帰っていないかもしれないなと思いながら、俺は鍵穴にキーを差し込み、静かに回した。
カチャリ、と解錠の音が響く。ドアノブを回し、そっと扉を開ける。
「ただいまー……」
サプライズのために声を潜めて中へ入る。予想通り、リビングの照明は消えていた。まだ帰ってきていないのかと少し拍子抜けしたが、準備をする時間がたっぷりあると思えば悪くない。
靴を脱ごうとして、俺の動きが止まった。
玄関のタタキに見慣れない靴がある。
黒く艶やかな光沢を放つ、高そうな革靴だ。先が尖ったデザインで、俺が絶対に選ばないタイプのもの。サイズからして明らかに男物だった。美奈の父親が来るという話は聞いていないし、そもそも彼女の実家は遠方だ。配管工事や点検の予定もなかったはずだ。
嫌な予感が背筋を駆け上がる。心臓がドクンと大きく跳ねた。
泥棒か? いや、それにしては靴を綺麗に揃えて脱いでいる。来客か? 俺に黙って男を連れ込んだのか?
思考が高速で回転し始める。俺はITエンジニアだ。システムに予期せぬエラーが発生した時、焦りは禁物だ。まずは現状を把握し、ログを確認する。それが鉄則だ。
俺は息を殺し、音を立てないように靴を脱いだ。フローリングの廊下を、忍び足で進む。リビングのドアは少しだけ開いていたが、中は暗い。気配はそこからではない。
廊下の突き当たり、俺と美奈の寝室から、微かな明かりと声が漏れていた。
近づくにつれ、その声は明確な輪郭を持ち始めた。
「……あ、すごい……レイジくん、そんな……」
「美奈、可愛いよ。本当に綺麗だ」
頭の中が真っ白になるというのは、こういうことを言うのだろうか。
聞き間違えるはずもない、美奈の声だ。そして、聞き覚えのない、甘ったるい男の声。
ベッドが軋む音と、衣擦れの音、そして湿っぽい吐息が混じり合って聞こえてくる。俺の全身の血液が逆流するような感覚に襲われた。手の中のスーパーの袋がカサリと音を立てそうになり、慌てて床に置く。
怒鳴り込んでやろうか。ドアを蹴破って、二人の愚行を白日の下に晒してやろうか。
衝動が突き上げる。握りしめた拳が震える。だが、ドアノブに手を掛けようとしたその瞬間、中から聞こえてきた会話が、俺の動きを氷のように凍りつかせた。
「ねえ、レイジくん。もし健人が帰ってきたらどうするの?」
「あいつ? 大丈夫だよ。今日は残業だって言ってたんだろ?」
「そうだけど……。あーあ、早く別れたいな。彼ってほんとつまらないの。真面目だけが取り柄でさ」
美奈の声だった。甘えたような、それでいて俺を侮蔑する響きを含んだ声。
「つまらない」。その一言が、鋭利な刃物となって俺の胸を抉った。
「デートも安い居酒屋ばっかりだし、プレゼントも実用的なものばっかり。愛がないっていうか、ケチくさいっていうか」
「かわいそうに。美奈みたいなイイ女には、もっとふさわしい扱いがあるだろうに」
「でしょ? レイジくんは素敵なお店も知ってるし、こうやって刺激もくれるし……もう、健人なんてどうでもよくなっちゃう」
男が低く笑う声が聞こえた。
「俺も、美奈以外考えられないよ。あんなシステム屋の男より、俺の方が美奈を幸せにできる。近いうちに起業して、もっと大きなビジネスを動かすつもりなんだ。そしたら、美奈には苦労なんてさせない」
「ほんと? 嬉しい! やっぱりレイジくんは器が違うなぁ。健人なんて、一生パソコンの前でカタカタやってるだけで終わりそうだもんね」
二人の笑い声が重なる。
俺の中で、何かが音を立てて崩れ落ちた。そして同時に、何かが冷徹に組み上がっていくのを感じた。
怒りではない。悲しみですらない。
それは「システム障害の特定」と「リカバリー手順の策定」に似た、極めて冷めた感覚だった。
俺は三年もの間、この女のために何をしてきたのだろうか。
節約して貯めた結婚資金。彼女の笑顔が見たくて我慢した数々のこと。それら全てが「つまらない」「ケチくさい」という評価で処理されていたのだ。
彼女にとって俺は、ただの便利な同居人であり、ATM代わりですらなかったのかもしれない。
俺が抱いていた「愛」という変数は、彼女のシステムにおいては無効な値だったのだ。
俺は静かに、ポケットからスマートフォンを取り出した。
震える指を深呼吸で鎮め、ボイスレコーダーのアプリを起動する。
ドアの隙間にマイクを向け、中の会話を鮮明に記録していく。
「健人のベッドでこんなことするの、なんか興奮するね」
「背徳感ってやつ? 俺もだよ」
決定的な言葉が次々と録音されていく。十分な長さが録れたことを確認すると、俺は録音を停止した。
次にカメラアプリを立ち上げる。フラッシュが作動しないことを二重に確認し、まずはドアの隙間から、ベッドの上に散乱する服や、絡み合う二人のシルエットを撮影できないか試みる。しかし、角度的に難しかった。無理をして気づかれるリスクは避けるべきだ。音声データと状況証拠だけで十分に戦える。
俺は踵を返し、玄関へと戻った。
男の革靴を、あらゆる角度から撮影する。ブランドロゴ、サイズ、靴底の減り具合。さらに、傘立てにあった見慣れないビニール傘も撮影した。
それから、俺は自分の部屋として使っていた書斎に入った。
ここにも足を踏み入れられた形跡はないか確認する。幸い、PC周りは触られた様子がない。
俺は素早く、しかし音を立てないように、バックパックへ必要なものを詰め込み始めた。
ノートPC、バックアップ用のHDD、通帳、印鑑、実印、パスポート、マイナンバーカード。これらは最優先事項だ。
次に、クローゼットから数日分の着替えを引っ張り出し、乱雑に押し込む。
洗面所へ行くリスクは冒せない。歯ブラシなどはコンビニで買えばいい。
作業をしながら、俺の頭脳は淡々と次のタスクをリストアップしていた。
1. 今すぐこの家を出る。
2. 弁護士を探し、証拠保全と慰謝料請求の手続きを行う。
3. 不動産屋に連絡し、俺名義であるこのマンションの契約解除を申し入れる。
4. 美奈との関係を、物理的にも法的にも完全に遮断する。
荷物を詰め終え、バックパックを背負う。ずしりとした重みが、現実の重みとして肩に食い込む。
最後に、ポケットの中のベルベットのケースを取り出した。
婚約指輪。
これをここに置いていくという選択肢も一瞬頭をよぎった。ドラマならそうするかもしれない。だが、俺は「つまらない男」であり、リアリストだ。
数十万円もするこれを、裏切り者たちへの手切れ金代わりにしてやる義理はない。返品できるなら返品し、少しでも慰謝料請求の弁護士費用に充てるべきだ。あるいは、質屋に売って一人焼肉でもしたほうがマシだ。
俺はケースをしっかりとポケットの奥にしまい込んだ。
玄関に戻る。
寝室からは、まだ二人の声が聞こえていた。もはや内容は耳に入ってこない。ただのノイズだ。
俺は置いてあったハンバーグの材料とワインを手に取り、そのまま外に出ようとして、思い直した。
この食材も、俺の金で買ったものだ。あいつらに食わせてやる必要はない。
レジ袋を提げ、俺は静かに玄関のドアを開けた。
外の空気が流れ込んでくる。廊下の冷やりとした空気が、火照った俺の頬を撫でた。
ドアを閉める際、カチャリという音が少し大きく響いてしまったかもしれない。
一瞬、心臓が止まりかけたが、中からの反応はない。二人は自分たちの世界に没頭しすぎて、外の世界のことなど何も気づいていないのだ。
鍵をかけ、俺はその場を後にした。
エレベーターには乗らず、階段を使った。誰とも会いたくなかった。
一階まで降り、エントランスを出ると、夜の街は先ほどと変わらない顔でそこにあった。
車の走行音、遠くで聞こえる電車の音、誰かの笑い声。
世界は何も変わっていないのに、俺の世界だけが完全に反転してしまっていた。
駅前のカフェに入り、奥の席に陣取った。
コーヒーを注文し、一口飲む。苦味が口の中に広がり、ようやく現実感が戻ってきた。手が震えているのが分かった。怒りなのか、悔しさなのか、それとも安堵なのか。自分でも分からない感情が渦巻いている。
俺はPCを開き、まずは不動産屋の担当者にメールを打った。
『お世話になっております。502号室の佐藤です。急な話で恐縮ですが、契約の解除をお願いしたく……』
文面を作成しながら、ふと美奈の顔が浮かんだ。
明日、俺が荷物をまとめて消えたことを知ったら、彼女はどういう反応をするだろうか。
泣くだろうか。怒るだろうか。それとも、あの男と一緒に俺を嘲笑うのだろうか。
「つまらない男」
その言葉が、呪いのように頭の中でリフレインする。
俺は唇を噛み締め、エンターキーを強く叩いた。
メールを送信し終えると、次は弁護士検索だ。「浮気 慰謝料 婚約破棄 即日対応」。検索窓に打ち込む単語の一つ一つが、俺の三年間の終わりを告げているようで痛々しい。
いくつかの法律事務所のサイトを比較し、実績がありそうで、かつ男性側の弁護代理に強そうな事務所をピックアップする。Webの問い合わせフォームから、現状と確保した証拠について簡潔に記入し、送信した。
これで、第一段階は完了だ。
ふと、窓ガラスに映る自分の顔を見た。
疲れた顔をしている。目の下にはクマがあり、髪も少し乱れている。
確かに、鏡の中の俺は、冴えない「つまらない男」に見えた。
華やかな「起業家」とやらに比べれば、俺なんてただの歯車の一つに過ぎないのだろう。
「……でも、だからって」
俺は小さく呟いた。
だからって、裏切っていい理由にはならない。人の心を踏みにじっていい理由にはならない。
コーヒーを飲み干し、俺はスマホの連絡先リストを開いた。
「田中美奈」の名前が表示される。
指先が迷ったのは一瞬だった。
通話履歴も、MINEのトーク履歴も、写真フォルダも。全てが俺の愚かさの証明のように思えた。
俺はMINEを開き、美奈へのメッセージ入力画面を表示した。
長文の恨み言を書き連ねようかとも思った。どれだけ傷ついたか、どれだけ愛していたか、伝えてやりたい衝動に駆られた。
だが、文字を打ち込んでは消し、打ち込んでは消しを繰り返すうちに、そんなことさえ無意味に思えてきた。
彼女にとって俺は「つまらない男」なのだ。感情的な長文を送れば、それをまたネタにしてあの男と笑い合うだけかもしれない。
ならば、最後まで「つまらない男」らしく、事務的に終わらせてやるのが一番の復讐だ。
『別れよう。荷物はまとめた。弁護士から連絡が行くから、あとはそこで話してくれ』
送信ボタンを押す。
「既読」がつくのを待つことなく、俺は彼女のアカウントをブロックした。
着信拒否の設定も済ませる。
これで終わりだ。あっけないほど簡単に、三年の月日がデジタルデータ上の処理として消去された。
カフェを出ると、冷たい夜風が吹いていた。
行く当てはない。実家に帰るには遠すぎるし、心配もかけたくない。今日はビジネスホテルに泊まるしかないだろう。
駅前のビジネスホテルに空室があるか確認するため、スマホを操作しながら歩き出す。
その時、ふと目に入ったのは、駅ビルの巨大なスクリーンに映し出された広告だった。
『世界を変えるのは、逆境を知る者だ。サイバーフロント・テック、中途採用募集中』
国内最大手のIT企業、サイバーフロント・テック。
業界の人間なら誰もが知るトップ企業であり、その採用基準の厳しさでも有名だ。
実は半年前、ヘッドハンターから一度連絡があった。その時は美奈との結婚を考え、環境を変えるリスクを避けて断ってしまったのだ。
「……逆境、か」
今の俺は、まさに逆境の只中にいる。
住む場所を失い、婚約者を失い、未来を失った。
失うものはもう何もない。
俺の手元に残っているのは、エンジニアとしての技術と、この理不尽な状況でも冷静さを保とうとする、ある意味で「つまらない」性格だけだ。
皮肉なものだ。美奈が俺を捨てた理由であるその「つまらない」冷静さが、今まさに俺を支えているのだから。
俺はその広告をスマホで撮影した。
明日、今の会社に退職届を出そう。
そして、このヘッドハンターにもう一度連絡を取ってみよう。
どうせ全てリセットされた人生だ。やれるところまでやってやる。
ポケットの中で、婚約指輪のケースを強く握りしめた。
この指輪は、明日一番で返品する。そしてその金は、新しい人生のスタート資金にするんだ。
俺は顔を上げた。
夜空には星が見えない。東京の空は明るすぎて、星の光などかき消されてしまう。
けれど、今の俺にはその明るさが、ほんの少しだけ希望のように見えた。
「さようなら、美奈」
声に出して呟くと、不思議と胸のつかえが取れたような気がした。
俺はビジネスホテルに向かって、力強く歩き出した。
まだ物語は終わっていない。いや、俺の本当の人生は、ここから始まるのだ。
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