鬱ゲーのヒロインたちが自らの過ちに気が付くまで

AteRa

第1話

 泥水を啜るような味がした。

 いや、実際に俺は今、泥の中に這いつくばっているのだから、それは比喩でも何でもない現実だ。


「……あーあ。本当に無様ね、元公爵令息様?」


 頭上から降り注ぐのは、冷ややかな侮蔑の声と、容赦のない雨。


 王立学園の中庭。本来ならば貴族たちが優雅に談笑するその場所で、俺――レン・アシュフィールドは、制服を泥まみれにして倒れ込んでいた。


 視線を上げると、そこには美しい少女が立っている。


 燃えるような紅蓮の髪に、宝石のような瞳。

 この国の王女であり、学園の生徒会長、そして俺の元婚約者であるシルヴィアだ。

 彼女の背後には、俺を取り押さえた男子生徒たち、そして俺を蔑む全校生徒の視線があった。


「身の程を知りなさい、レン。あなたが私に毒を盛ろうとしたこと、そして数々の不正。父上も呆れていらしたわ」

「…………」

「家は取り潰し、魔力回路の剥奪。それでも学園に置いてもらえるだけ、温情だと思いなさい。……もっとも、これからはゴミとして扱われるでしょうけど」


 シルヴィアは汚いものを見る目で俺を一瞥すると、踵を返した。

 彼女の隣には、聖剣に選ばれた主人公の姿がある。彼は正義感に溢れた顔で、シルヴィアの肩を抱き寄せていた。


 完璧だ。

 完璧な悪役の断罪イベントだった。


 遠ざかる足音を聞きながら、俺は泥の中で口元の血を拭った。

 その瞬間、脳裏に走った激痛とともに、前世の記憶が完全に定着する。


(ああ……間違いない。ここは〈エターナル・デスペア〉の世界だ)


 世界的な大ヒットを記録しながらも、あまりにも救いのないシナリオで数多のプレイヤーをトラウマに叩き落とした、伝説の鬱ゲー。


 そして俺は、その序盤で退場する噛ませ犬の悪役、レン・アシュフィールドに転生してしまったらしい。


 だが、問題はそこじゃない。


 俺が泥まみれの体を起こし、誰もいなくなった中庭で空を仰ぐ。

 魔力回路は破壊され、体の中にあったはずの魔力は空っぽだ。ただの人間以下の存在に成り下がった。


(……詰んだな)


 俺の人生が、ではない。

 この世界が、だ。


〈エターナル・デスペア〉には一つの隠された設定がある。


 それは、悪役レン・アシュフィールドが持つ闇の魔力こそが、ラスボスとなる厄災を封印する唯一の鍵だったということ。


 本来のシナリオなら、レンは改心するか、あるいは利用される形でその力を使い、世界を救う手助けをするルートが存在した。


 だが、今の俺は完全に魔力を失った。

 この断罪イベントが起きた時点で、正規のハッピーエンドルートは消滅したのだ。


 これから訪れるのは、絶望の未来。


 シルヴィアは敵国の捕虜となり、目を覆いたくなるような陵辱の末に処刑される。

 他のヒロインたちも、あるいは魔物に喰われ、あるいは精神を病んで自害する。

 主人公は誰も救えず、崩壊する世界で一人泣き叫ぶ。


 そんな、胸糞の悪いバッドエンドに向かって、世界は動き出してしまった。


「……ふざけるなよ」


 泥を握りしめる。

 そんな結末、絶対に見たくない。

 あんな気高いシルヴィアが、あんな優しい聖女が、無惨に散っていく未来なんて認めない。


 俺はふらつく足で立ち上がった。

 向かう先は寮ではない。学園の裏手に広がる、立ち入り禁止の旧校舎だ。


 ゲーム知識として俺だけが知っている、隠し部屋がある場所。


 そこには禁術の書が眠っている。



   ***



 埃っぽい地下室で、俺は分厚い古書を開いていた。


生命変換術式ライフ・コンバート】。


 自らの寿命を燃料とし、爆発的な魔力を生成する禁断の秘術。

 魔力回路を失った今の俺が、戦う力を得る唯一の手段だ。


「……代償は、命か」


 迷いはなかった。

 俺はどうせ、社会的に抹殺された身だ。

 誰からも愛されず、誰からも必要とされない。

 ならば、その命を燃やして、彼女たちの未来が守れるなら安いものだ。


 俺は短剣を取り出し、掌を切り裂いた。

 滴る血を魔法陣に垂らす。


『汝、契約を望むか』


 脳内に響く無機質な声。


「望む。俺の命を喰らって、力を寄越せ」

『契約成立。残存寿命を算出……魔力へ変換を開始する』


 ドクン、と心臓が跳ねた。

 血管の中を、血液ではなく灼熱の鉛が流れるような激痛。

 破壊されたはずの魔力回路が、寿命という燃料によって無理やり焼き繋げられていく。


「ぐ、ぁあああッ……!!」


 喉から悲鳴が漏れるのを必死で噛み殺す。

 爪が食い込み、床板が軋む。

 視界が赤く染まり、全身の細胞が悲鳴を上げているのがわかった。命が削れていく感覚。それは想像を絶する恐怖と苦痛だった。


 やがて、痛みが引いていくと同時に、身体の奥底からどす黒い力が湧き上がってくるのを感じた。

 かつてのレンが持っていたものより、遥かに強大で、禍々しい力。


 そして、視界の隅に、奇妙な数字が浮かび上がった。


【残り寿命:365日】


「はは……ちょうど一年か」


 一年後。それは俺たちの卒業式の日であり、ゲームにおける世界崩壊の日でもある。

 あまりにも出来すぎた数字に、俺は乾いた笑いを漏らすしかなかった。


 あと一年。

 たった一年だけ、俺はこの世界に留まることを許された。


「十分だ。すべてを覆すには」


 俺は黒く染まった自分の手を見つめる。

 この力があれば、陰から彼女たちを守れる。

 誰にも知られず、誰にも感謝されず、ただひっそりと消えていくとしても。



   ***



 その日の夜、さっそく最初の予兆が現れた。


 女子寮の裏手に広がる森。

 本来なら低級の魔物しかいないはずのその場所に、異様な気配が漂っている。


 ゲーム内イベントの一つ、さまよう悪意の出現だ。

 本来なら、主人公とシルヴィアが二人で協力して倒し、絆を深めるイベントだった。

 だが、今の主人公はまだレベルが足りない。今日の断罪騒ぎで浮かれ、訓練をサボっていたからだ。

 このままでは、夜の見回りに来たシルヴィアが殺される。


 俺は黒いローブを目深に被り、闇に紛れて森を走った。


 寿命を削って得た身体能力は、以前の比ではない。

 森の奥、開けた場所に出ると、そこには既にシルヴィアの姿があった。


 彼女の前には、巨大な影。

 全身が腐った泥のような不定形の魔物――マッド・ストーカー。物理攻撃が効きにくく、魔法耐性も高い難敵だ。


「くっ……炎よ! 我が敵を焼き尽くせ!」


 シルヴィアが杖を振るい、紅蓮の炎を放つ。

 だが、炎は魔物の表面を焦がしただけで、再生能力の前に無効化されてしまう。


「嘘……効かない……!?」

「グルルルァァ……!!」


 魔物が腕を振り上げる。

 その質量のある一撃を受ければ、華奢なシルヴィアなどひとたまりもない。

 彼女は恐怖に足をすくませ、動けなくなっていた。


「しまっ――」


 死の影が彼女を覆う。

 その瞬間。

 俺は二人の間に割って入った。


「――失せろ」


 右手に凝縮させた漆黒の魔力を、魔物の懐に叩き込む。


 音はない。

 だが、俺の放った闇は魔物の核を一瞬で浸食し、その存在を内側から食らい尽くした。

 ボォッ、と音を立てて、巨大な魔物が黒い霧となって消滅する。


 一撃だ。

 だが、その代償として、俺の胸に鋭い痛みが走る。


【残り寿命:364日 22時間】


 数字が減るのが見えた。魔法を使うたびに、俺の時間は削られる。


「……え?」


 呆然とした声が背後から聞こえた。

 俺はローブのフードを深く被り直し、顔を見られないように背を向ける。


 去ろうとしたその時、鋭い声が俺を止めた。


「待ちなさい! あなた、何者なの!?」


 シルヴィアの声だ。

 助けられたことへの感謝よりも、不審者への警戒心が勝っている。当然だ。今の俺が纏う魔力は、どう見ても邪悪なものなのだから。


「……通りすがりの、ただの影だ」


 声を変えて答え、立ち去ろうとする。

 だが、シルヴィアは俺の背中に向けて杖を構えた気配がした。


「答えなさい! その禍々しい魔力……まさか、魔族の手先ね!? この学園に何をしに来たの!」


 正義感の強い彼女らしい反応だ。

 俺は苦笑する。

 かつて愛した女性に、魔族の手先と疑われる。

 それもまた、悪役である俺にはお似合いの役回りか。


「好きに思えばいい」

「待てと言っているでしょう!」


 彼女が放った小さな火の玉が、俺の足元に着弾する。威嚇射撃だ。


 俺は振り返らない。

 ただ、冷たく言い放つ。


「君は、こんな夜更けに一人で死に急ぐつもりか? ……自分の命の重さを、少しは考えろ」


 それは、寿命を削って生きる俺からの、精一杯の皮肉であり、本心からの忠告だった。

 俺の言葉に、シルヴィアは一瞬息を呑む気配を見せたが、すぐに侮蔑の色を強めた。


「あなたのような不気味な輩に言われる筋合いはないわ! ……今の口調、どこかで聞いたような……まさか」


 正体がバレる前に、ここを離れなければならない。

 俺は闇魔法【影渡り】を発動させ、その場から姿を消した。


「っ! 逃げた……!?」


 悔しげなシルヴィアの声が遠ざかる。

 学園の屋上に転移した俺は、大きく息を吐き出し、その場に膝をついた。


 寿命を削った反動で、全身が熱い。

 口元を手で覆うと、べっとりと赤い血が付着していた。


「はは……たった一匹倒しただけで、これかよ」


 夜風が汗ばんだ体を冷やす。

 視界の隅にあるカウンターは、無情に時を刻み続けている。


 眼下には、平和な学園の夜景が広がっていた。

 あの光の一つ一つに、これから守るべきヒロインたちが眠っている。


 俺を嫌い、俺を蔑む彼女たち。

 それでも、構わない。

 彼女たちが生きて、笑って卒業を迎えてくれるなら。


 俺が泥を啜り、血を吐き、孤独に死んでいくことになんの不満があるだろう。


「……上等だ。絶対にお前たちを幸せにしてやる」


 誰にも届かない宣誓を夜空に吐き捨て、俺は立ち上がる。


 悪役には悪役の、戦い方がある。

 俺の寿命が尽きるまで、あと365日。

 孤独で、残酷で、愛おしい一年が、今始まった。

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