『辺境の宿屋「銀の匙」奮闘記 〜元商社マンの息子は、不味い飯で溢れる世界を調理する〜』
@SfgT
第1話:異界の産声、泥の味
五感のすべてが、同時に「否」を突きつけていた。
佐藤健二が意識の混濁から這い上がった瞬間、最初に肺を満たしたのは、埃っぽさと古いカビの胞子が混じったような、重く湿った空気だった。
(……なんだ、この息苦しさは)
深酒をした翌朝の不快感とは、根本的に質が違う。健二は重い瞼を押し上げた。
視界に飛び込んできたのは、見慣れたマンションの白い天井ではなかった。
節の目立つ太い木の梁が走り、その隙間を埋めるように塗り固められた石の天井。そこには、何十年もの間、階下から昇ってきたであろう薪の煙が煤(すす)となり、幾層にも重なって黒い染みを作っている。
「……あ、……」
声を出そうとして、健二は自分の喉から漏れた音に戦慄した。
酒と接待に磨り減らされた三十代半ばの男の声ではない。変声期を迎える直前の、高い、少年の悲鳴のような声。
反射的に自分の手を見つめる。
そこにあったのは、書類をめくり、キーボードを叩いてきた清潔な指ではなかった。
指先は泥と煤で黒ずみ、節くれ立ち、至る所に小さな切り傷や火傷の痕がある。掌は、重い道具を握り続けてきたことが分かるほど、不自然に厚くタコができている。
「……嘘だろ。なんだこれ……夢か?」
動揺を抑えきれず、彼は体を起こそうとした。その瞬間、背中に走る激痛に呻き声を漏らす。
寝ていたのはベッドではなかった。
木枠に無理やり藁(わら)を詰め込み、その上に薄汚れた粗末な麻布を敷いただけの代物。動くたびに「ガサリ、ボソリ」と不快な音が立ち、詰められた藁の節が容赦なく背骨を突き上げる。
健二は混乱の中で部屋を見渡した。
広さはせいぜい三畳ほど。壁には窓と呼ぶにはあまりに小さな、縦に細長い隙間があるだけで、そこから差し込むわずかな光が空気中に舞う埃を白く浮き立たせている。
家具らしい家具は何もない。隅に置かれた木製の水桶と、使い古されて持ち手が半分折れた不格好なチェスト。
パニックが心拍数を跳ね上げる。
自分は確かに、大規模なプロジェクトの打ち上げを終え、自宅で眠りについたはずだ。
それがなぜ、こんな中世の納屋のような場所にいる。この小さく、薄汚れた体は何だ。
その時、一階からギシ……ギシ……と、階段を一段ずつ踏みしめる音が聞こえてきた。
誰かが、様子を伺うようにゆっくりと上がってくる。
扉が静かに開け放たれた。
そこに立っていたのは、一人の女性だった。
赤茶色の髪を無造作に束ね、汚れの目立つ麻のワンピース。その上から、幾層ものシミが地図のように広がったエプロンを巻いている。
彼女――母マーラは、ベッドで上体を起こしているケント(健二)を見ると、その顔にパッとひまわりのような明るい笑みを浮かべた。
「ああ、よかった……! ケント、気がついたんだね。ずっと心配していたんだよ」
マーラは枕元に歩み寄り、ケントの額にそっと荒れた手を当てた。
「具合はどうだい? どこか痛むところはあるかね。急に倒れるなんて、お母さん本当に生きた心地がしなかったんだから」
健二の脳内に、彼女の記憶が逆流してくる。この人はマーラ。家業の宿屋を明るく切り盛りし、自分をいつも気にかけてくれる母親だ。
「……う、うん。大丈夫。少し……体が重いけど」
「そうかい、そうかい。返事ができるなら安心だね。急に立ち上がったりしちゃいけないよ。気分が悪くなったりはしていないかい?」
マーラは何度も顔を覗き込み、ケントの顔色を注意深く観察した。ケントが「本当にもう大丈夫だから」と少し困ったように頷くと、彼女は安堵の溜息を漏らし、その肩を優しく叩いた。
「それならよかった。ずっと寝ていたからお腹も空いているだろ? 下に降りといで。お父さんが精のつくスープを作って待ってるよ。食べて体力をつけないと、また倒れちまうからね」
「……わかった。行くよ」
健二は、まだ慣れない子供の体を操り、急すぎる木製階段をマーラに支えられながら一段ずつ下りた。手すりに触れると、ざらついた木のトゲが掌に刺さる。ここが夢ではないことを、痛みと不快感が冷酷に証明していた。
一階の食堂。
そこは、食品流通の最前線で働いてきた健二にとって、地獄の入り口のような光景だった。
薄暗い室内。換気など概念すら存在しないのか、調理場から漏れ出す煙が霧のように漂い、視界を白く濁らせている。
板張りの床は、長年こぼれ続けたスープや酒が染み込み、歩くたびに「ギギッ」と嫌な悲鳴を上げ、さらに靴の裏にわずかに吸い付くような不気味な粘り気がある。
彼は吸い寄せられるように厨房へと視線を向けた。
そこにあるのは「調理場」ではなく「戦場」だった。
石造りの台には、いつから放置されているのか分からない野菜のクズがしなびて転がり、壁には煤と脂が混ざり合い、黒い鍾乳石のように固まって光っている。
水桶の中に溜められた水は、表面に薄く埃が浮き、そこらに置かれた包丁の刃は、研がれた形跡もなく、以前使った肉の脂が白く曇ったままこびり付いていた。
「おう、ケント! 起きたか、この野郎。心配させやがって」
厨房から現れたのは、熊のような体格をした父ガリウスだ。
彼は、およそ繊細さとは無縁の、煤で真っ黒になった太い指で、何かが煮える大鍋を雑にかき混ぜていた。
「座ってろ。特製スープだ。これを食えば、どんな病気だって治るぞ」
ガリウスはケントを食堂の隅のテーブルへ促すと、再び厨房の熱気の中へ戻っていった。彼は息子の回復を喜びつつも、山積みの仕事へ戻るために一刻も早く食事を済ませてほしいようだった。
ケントは言われるがまま、ベタつくテーブルに指が触れないよう気をつけながら腰を下ろした。
数分後、ガリウスが木製の深い皿を運んできた。
「ほら、これを食え。肉も多めに入れておいた。……じゃあ俺は、裏の薪割りを片付けてくる。」
ガリウスはケントの返事も待たず、慌ただしく裏手へと消えていった。母マーラもまた、愛想よく客をあしらいながら、空いた酒瓶を抱えて奥へと走っていく。
一人残されたケントの前には、灰色をしたドロドロの液体が置かれていた。
皿の縁には、拭き残された前の料理のカスが乾いてこびり付いている。
スープの表面には、不自然に黄色く変色した古い脂が水たまりのように浮き、そこから立ち上る湯気は、およそ「食欲」とは無縁の、鉄臭いような、鼻を刺す生臭い匂いだった。
ケントは、震える手で木のスプーンを持ち、そのスープを一口、口に運んだ。
「…………っ!!」
衝撃が走った。
口の中に広がったのは、暴力的なまでの「塩気」と、それに負けないほどの「エグみ」だった。
肉を噛みしめると、血抜きが不十分なせいで、酸化したドリップの味がジュワリと染み出し、鼻の奥へ抜ける。根菜は、土落としが甘かったのか、奥歯で噛むたびに「ジャリ……」という砂の不快な振動が脳に響く。
前世で最高の食材を買い付けてきた佐藤健二にとって、それは「食べ物」の形をした、この世界の暴力そのものだった。
(無理だ……こんなの、無理だ……。これじゃ、栄養どころか毒だ……)
胃が激しく拒絶反応を起こす。現代で培われた感性が、この世界の「当たり前」を拒絶し、悲鳴を上げている。
そこへ、戻ってきたマーラがケントの青ざめた顔を見て、心配そうに駆け寄った。
「ケント? やっぱりまだ無理だったんだね。顔が真っ白だよ。……いいから、今日はもう二階で休んでいなさい。お父さんには私から言っておくから」
「……あ、……ごめん。……ごめん、母さん」
ケントは逃げるように立ち上がった。
足元がふらつき、視界がぐるりと回る。
階段を一段上るたびに、手に残る脂の感触と、口の中に残るあの「鉄臭い後味」が、彼を現実から切り離そうとする。
ようやく辿り着いた、あの藁のベッド。
ケントは崩れ落ちるようにして横になった。
(俺は……一体……。どこに……来てしまったんだ……)
混乱と、激しい疲労。そして何より、あの絶望的な「スープの味」が、彼の思考能力を完全に奪い去った。
ケントは震える体を丸め、逃げるように深い闇へと意識を沈めていった。
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