わざわいは口より出でて身を破る

ぴのこ

わざわいは口より出でて身を破る


二〇二六年 一月二十二日 夜


 白々とした月光と冷気が肌を刺す、真冬の帰り道。天上の月の他にもうひとつ、夜闇を明るく照らすものがあった。私の手元のスマートフォンだ。

 私は物語を読了すると、手でまぶたを覆った。

 目の前の画面に表示されていた、一作の小説が手のひらで隠される。だが指の間から見え隠れする文字列が疎ましく、両の瞼を閉じた。

 それでも、たった今読んだばかりの小説が意識から消えてくれない。瞼の裏の暗闇に、これを書いた男の薄ら笑いが浮かんでいるように思われた。


 かぶりを振る。こんなものは、まやかしだ。この小説は、これから私の身に起きることを予言した作品ではない。これを投稿した作者は予言者ではない。彼はただ、私のTwitterの炎上騒動から短編小説の着想を得ただけだろう。小説を書いて、読んでほしいという純粋な思いでインターネットに載せただけだろう。

 だが、ふと考えてしまう。脳裏に浮かんでしまう。会ったこともないはずの彼の顔が。こちらを試すように微笑を浮かべている男が。

 空想の中で男の唇が割れ、愉しげな声を吐き出す。


「感想、言ってくれますよね?」



二〇二六年一月二十一日 昼


 普段よりも少しだけ業務に余裕がある。そう思える、平日の水曜日だった。

 ゆえに私は既定の時間よりも多少早く、昼の休憩に入ることに決めた。意識を業務から休息に切り替えるとともにスマートフォンを取り出す。仮にも管理職の立場に就いている五十一歳の男が、新人の若者となんら変わらない行動を取っていることには自分ながらどうかと思う。しかし仕事に支障は無いのだから特段気にする必要は無いだろう。

 Twitterのアプリをタップして起動すると、フォロー中のアカウントの投稿が滝のように流れるタイムラインが表示された。いつも通りの活発なタイムラインだ。

 しかしその画面の中で一点、普段と異なる点があった。通知欄だ。通知の量を示す数字が、おびただしい数にまで膨れ上がっている。


「なんや……?」


 思わず声が漏れ出る。何か不穏なものを感じながら、私は通知欄を開く。今この時にも絶え間なく通知が舞い込んできている。それは、今日の朝に投稿したひとつのツイートへの反応のようだった。



トドオカ @todooka

チェンソーマン2部の大失速、落差で言えばもはや漫画史に残るレベルになりつつある。

唯一気になってるのは「なんでこんな事になったか」で、公開するのが無理なのは分かってるけど、それだけはメチャクチャ知りたい。

午前7:46 · 2026年1月21日



 今日の零時に更新された漫画の最新話への感想だ。ここ数話の展開の意味を台無しにするような、無軌道な作劇を見ての言葉だった。

 このツイートに、多くの反応が寄せられている。リプライで、引用で、肯定的あるいは真逆の意見で。時には誹謗中傷に近い暴言ですら。


「なんでこんな伸びとんのや……」


 それが炎上に近い現象であることも、ツイートの削除が安全な対処法の選択肢に上がることも、私はTwitterでの経験から知っていた。だがそれよりも、私の胸を占めたものは困惑と感心が入り混じった思いだった。

 感嘆の息を漏らしながら、その感情を文章として綴る。


『リプ数が100を超えてるのに、大半がちゃんと中身のある内容なのスゴイね。やっぱみんなチェンソーマン大好きなんだよ。私も元々好きだもん』


 本心だった。インターネットの作品ファンたちの熱量を見直した思いになったのだ。予期せぬ事態ではあったが、良い面も確かにあった。

 とはいえ通知を稼働させたままでは鬱陶しいし、バッテリーを無駄に消費してしまう。私はそのツイートの通知をミュートに設定し、昼食を摂るためにTwitterから離れた。



二〇二六年一月二十一日 夜


 帰宅後、私は妻の手料理を味わいながら雑談に興じていた。妻の穏やかな笑顔を見ると日中の疲労が溶けていく気分になる。


「そんでなあ、何気なく呟いたやつがこんなバズったんや。こんなん予想できへんやろ」


 話題がTwitterでのことに移行したあたりで、私は例のツイートを妻に見せた。

 私がTwitterで活動していることは妻に打ち明けている。円満な夫婦生活を送るためには、夫婦間での隠し事など無いほうが良い。配信をする時も、フォロワーから贈られた食べ物を実食する時も、私は常に誠意を持って妻に説明する。

 よって妻は、Twitterでの私をよく把握している。その冷静かつ客観的な視点は、“トドオカ”という存在を私自身よりも正しく掴んでいると評してもいいだろう。

 その妻が、こんなことを言ったのだ。


「もっと伸びるんじゃないの?」


 たった一言のその言葉で、肝が冷えた。

 思わず箸を止めた私の瞳を覗き込み、妻は言い聞かせるように告げる。


「あなたは理解できないかもしれないけど、世の中には好きな作品をけなされるだけでストレスになる人が大勢いるの。何かに乗じて、嫌いな作品を貶したい人も。あなたが書いたこれって、その両方の人の神経に障るものじゃない?ましてや、あなた影響力あるんだから」


 確かに、私のアカウントには六千人を超えるフォロワーがいる。だがその程度だ。インターネットにおいては私など無名の木っ端に過ぎない。影響力があるとフォロワーたちに言われることはあるが、私自身としてはいまいち釈然としない感覚になる。

 しかし妻に面と向かって指摘されてしまうと、それは紛れもない事実であるかのような質感をもって私の鼓膜と脳を揺らした。


「ま、まあ……もし伸びても大丈夫やろ」


 はは、と乾いた笑みを零しながら、私はまた料理を口に運ぶ。

 今の言葉が妻に放ったものか、自分に言い聞かせたものか、自分自身でも判然としなかった。



二〇二六年一月二十二日 朝


 自身のツイートが炎上している。Twitterの“本日のニュース”にも取り上げられている。

 朝目覚めた私が、Twitterを開いて最初に知った情報はそれだった。


『チェンソーマン第227話でファン反応二極化』


 AIによって作成されたニュースは、私のことを“漫画評論家トドオカ氏”として紹介していた。その上で昨日の私のツイートが最上部に表示され、大勢の目に触れられる形となっている。いつの間にかインプレッション数は七桁に到達していた。


『なんかもうこういうのがほんとに嫌い』


 メインのタイムラインに画面を切り替えると、そのニュースへの反応ツイートが目に入った。投稿者は作品の大ファンらしい。簡素な一文から、抑えきれないほどの厭悪えんおが滲み出ている。


「昨日のあれな、やっぱり燃えたわ」


 妻と顔を合わせ、朝の挨拶の直後にその件を報告する。妻は口を開くよりも先に、案の定だという思いを目に宿らせていた。



二〇二六年一月二十二日 昼


 昼食を済ませ、午後の業務に取りかかろうと気合いを入れ直す。今日は昨日とは打って変わって忙しい。仕事に集中しなければいつ退社できるかわからない。妻は私の帰宅が夜遅くになっても起きてねぎらいの言葉をかけてくれるのだ。あまりに帰りが遅くなっては妻に申し訳ない。

 Twitterでは今この瞬間にも私への反応が届き続けているのだろうが、今日は構っている暇は無い。スマートフォンをポケットに収め、パソコンの画面を睨み付けた時だった。

 私を呼び掛ける声が耳に届いた。


藤堂とうどう部長、お時間よろしいでしょうか?こちらの企画書の確認をお願いしたいのですが」


 私の部下だった。彼は二十代半ばでまだ未熟な面こそあるが真面目かつ優秀で、私としても彼には好感を抱いている。


「ええよ。早速見せとくれや」


 出来る限り威圧感を与えないよう穏やかな声色で答え、彼から書類を受け取る。私はページを指でなぞりながら、迅速に、かつ見落としの無いよう内容を確認した。

 今度から売り出す新製品のサプリメントのプロモーション企画だ。ターゲットは二十代の若年層。インフルエンサーを起用し、SNSを活用して大規模な拡散を狙うと記されている。

 アイデア自体は悪くない。市場分析も綿密に練られており、一目見ただけで努力の痕跡が読み取れる。

 その点の感想を柔らかい口調で褒め称えると、彼の肩から少し力が抜けた。


「ただ、穴は見過ごせんな」


 私は声を一段落とし、続く言葉を発する。


「インフルエンサーの選定基準が曖昧や。誰をどう選ぶかを誤れば、今の時代とんでもない炎上を招くで。競合他社の類似キャンペーンをちゃんと分析したんか?炎上リスクの考慮ってもんが甘いんやないか」


 自分もTwitterで炎上したばかりの身で何を言っているのかという思考が頭をよぎる。余計な思いを振り払うように、別の点への指摘に話題を切り替える。


「予算は五百万って事前に話しとったな。せやけどこれ、相手方との契約費用を含めとるか?含めとるんなら、見積もりが甘いんやないか」

「ええ……一人あたり五十万の見込みで……」

「安すぎや。実際に有用なほど知名度のある相手なら、少なくとも百万以上はかかるで。それ以外にも、スケジュールも見積もりが無茶や。これを二週間足らずで押し通そうとしとったらチームの負担が増えてクオリティが落ちるんは目に見えとる」


 彼が見落としていた点をひと息に語り、書面から視線を外して彼の表情をうかがう。彼は何も言わず、じっと押し黙っていた。

 少し言い方が厳しかっただろうかと、内心で反省する。昨今さっこんはハラスメントに厳しい時代だ。指導とパワハラの境目を見誤っては面倒な事態を招く。

 私がフォローの言葉をかけようとした時、彼の口から飛び出たのは思いもよらない言葉だった。


「説教する前に、まず自分の年齢を考えたほうがいいですよ。SNSに慣れてる世代は私のほうなので、ただあなたの認知にズレがあるだけです」

「……は?」


 投げかけられた言葉を、私はすぐには処理できなかった。

 彼は上司に対し、刺々しい言動で反抗する若者ではない。普段の彼ならば決して言わないことを、今の彼は言った。

 部下が礼を欠いたならば、上司としては叱責しなければならないはずだ。だが私の心には怒りよりも先に、心配が渦巻いた。これは精神的不調のサインか何かではないか。彼が心の余裕を崩すほどの原因があったのではないだろうか。


「……大丈夫か?なんかあったんか?」

 

 部下に精神面の問題で退職でもされれば自身の評価に関わるという恐れも、そもそも優秀な部下を失うことが損失だという打算も含まれていたことは否定できない。だが私はそれよりも、目の前の若者の心情が気がかりで仕方なかった。


「……」


 しかし彼は私の問いかけに応じず、ただ能面のような無表情を貫くのみだった。その瞳の無機質さに、表情筋の脈動を感じさせない頬の硬直に、私はぞくりと身震いする。二の句が継げない。何か、得体の知れない怪物が彼を乗っ取ってしまったかのような異質さが私を怯ませた。

 やがて彼はきびすを返し、私の前から去って行った。その背中を呆然と見送る。私には、それしかできなかった。



 異様な事態が起ころうとも、会議の時刻は繰り下がってくれない。あれから数十分と経たないうちに、私は会議室の椅子に座っていた。

 モニターには赤字の棒グラフが並んでいる。しかし私はグラフをぼんやりと見つめるばかりで、まるで会議に身が入らなかった。直近四半期の業績の低迷についての議論を周囲が語っていることはわかる。だが先ほどの件に意識を奪われ、今考えるべきことに集中できないのだ。


「……藤堂部長のご意見は?」


 突如として水を向けられ、はっと我に返る。珍しく私が全く発言しないため不審に思われたのかもしれない。

 何か所感を喋ろうとするが、うまく頭が回らない。何かヒントは無いかとモニターを凝視する。表示された棒グラフは、目標達成率が六割を下回っているものばかりだ。私はそれを見て、寝ぼけたような声で語り出す。


「気になっとることは……なんで成果がこんなんなっとんのか……それだけは知りたいですね」


 言い終わってから、ふと気付く。

 今の発言はあまりに言葉足らずが過ぎた。声色も重々しく、意図しない印象を周囲に与えてしまったかもしれない。

 慌てて訂正しようとした時、一人の男が椅子をがたりと引いて勢い良く立ち上がった。彼は、営業一課の。


「部長!それはつまり、我々の努力が足りないと仰りたいんですか!?これだけ身を粉にして、毎月毎月ノルマを超えて!それでも低迷の原因が俺たちにあるって言うんですか!?」


 怒りを叫ぶ声には、次第に震えが入り交じる。彼は俯いて机を見つめるばかりでその表情は窺い知れないが、もしかしたら涙を堪えているのかもしれない。

 私は彼をなだめようとした。しかしそれよりも早く、彼の隣に座る若手の女性が口を開いた。


「そもそもの話として、製品の質が悪いのが問題ですよね。他社の同じようなサプリに比べて有効成分が少ないし、そのくせ高いし。そんな粗悪品より他社のを買いたがるのは当たり前でしょ。むしろ私たちはそんなものをよく頑張って売ってますよ」


 冷静に、表情を崩さずに彼女は淀みなく語る。すると今度は開発部の者が声を荒らげた。


「予算が無いのに良いもの作れなんて無理な話だろ!それを言うなら宣伝が悪いんじゃないのか!?マーケティングがちゃんとトレンド読んで宣伝してなきゃ売れるわけ」


 その怒号は、途中から耳に入らなくなった。会議室の喧騒が妙に遠く感じ、部下の女性が椅子を倒す音だけが意識に大きく響く。


 無表情だ。誰もが、みんな。

 たった今立ち上がった彼女も、彼女を指差して何か言っている彼も、最初に怒鳴った彼も。

 熱を帯びて激論を交わす口ぶりが嘘のように、いだ表情を顔面に貼り付けている。誰一人として感情を顔に出していない。まるで等身大の人形を使った人形劇が目の前で行われているかのようだ。


「なん……や……?」


 私は飛び退くように立ち上がり、一歩一歩と後ずさる。背中が壁にぶつかった時、衝撃で心臓が跳ね上がった。

 異常事態が起きている。何もわからないが、それだけは確かだ。


 怒号を飛ばし合っていた彼らが、不意にぴたりと静止する。会議室に満ちていた喧騒が止み、時が止まったかのような静寂が訪れた。

 全員の首が、ぎぎぎ……とこちら側に動く。壊れた玩具のような動作で私に向けられたいくつもの顔が、一斉に唇を開いた。


「「「藤堂部長の、ご感想は?」」」



 一心不乱に走る私の頬を、冷たい微風が撫でる。

 私は会議室を飛び出し、鞄も回収せずに手ぶらのまま会社から逃げ出した。あの恐ろしい場所に留まっていたくはなかった。

 化け物に追い立てられるかのように怯えた様子で駆ける私を、通行人が不審げな目で見る。それさえ有難かった。彼らが中身のある人間であることを実感できる動作だからだ。


 ようやく家に辿り着いたその時、鍵を会社に置いてきてしまったことに気づく。鍵も鞄の中に入れてあったのだ。

 私は妻が外出してしないことを願いながらインターホンを押す。応答を待ちながら、膝に手を置いて荒い呼吸を整える。動きを止めた私を寒気が容赦なく包み込み、服の内側の汗を冷やした。


「はい?」


 家の中から、妻の声が響いた。ただそれだけで安堵の念が湧き起こる。

 私は名乗りを上げ、事情で早く帰宅したことを告げた。妻は何か察したのだろう。少し心配そうな声を漏らし、玄関ドアを開けてくれた。

 汗だくで帰宅した私を、妻は気遣わしげに見つめてくれた。少しの罪悪感と、日常に帰ることができたという安堵がい交ぜになって胸に渦巻く。

 とにかく、妻には正直に話そうと決めた。会社で起きた出来事を伝えても信じてもらえるとは思えない。それでも妻に嘘はつきたくなかった。


「えらい目に遭ったんや……」


 記憶を振り返り、今日起きたことを一から話す。会議室から逃げ出した場面までを話し終えると、疲労が押し寄せたのか私はぐったりと項垂うなだれてしまった。

 そこで、ふと気づく。

 そういえば、私に暴言を吐いた彼も、会議室の社員たちも、同じような顔をしていた。

 そうだ。二件とも、私が感じたことを話した直後に起こったのだ。まさか、原因は私なのだろうか。私の不用意な発言が、彼らをおかしくさせてしまったのか?

 待て。私の言葉に原因があるというのなら、今、この時も。

 

 ぱっと顔を上げる。目の前で話を聞いてくれていた妻の姿を直視する。


 妻の、顔は



二〇二六年 一月二十二日 夜


 帰宅した私を妻が出迎えてくれるまでの間、先ほど読んだ小説がまたしても脳裏に蘇った。

 Twitterの相互フォロワーが書いて投稿した小説だ。私の感想をきっかけに、周囲の人々がおかしくなるというホラー小説。その大部分は実際に起きたことではない。そう、大部分は。

 今日の日中は激務でこそあったが、小説で書かれていたような事態など会社で起きていない。当然だ。あんなことが現実で起きたらたまったものではない。

 ただ、小説の序盤にあったあの炎上。あれだけは事実を基にしたものだ。私はあのツイートを確かにこの手で書いたし、あれを火元とする炎はインターネットの中で燃え広がった。


 もしも……と嫌な想像をしてしまう。それは予言めいた予感となって、脳の奥ではっきりと実像を結ぶ。

 妻と雑談を交わし、今日起きたことを話す。そんな愛しい日常をいつも通りに繰り返そうとした時、“あれ”が起きてしまう。そんな忌まわしいイメージが意識に巣食っていた。

 本当に、大丈夫なのだろうか。私は口をつぐむべきではないのだろうか。


 室内からの足音が夜の静寂に響き、鍵が解錠される金属音が鳴る。

 ぎいい、と音を立ててドアが開かれる。

 にいい、と唇をしならせる誰かが頭の中に居る。


 妻は私に向かって優しく微笑み、穏やかに問いかけた。


「おかえりなさい。会社、どうだった?」

 

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