鯨は52ヘルツの呼吸《いき》をする
夢見里 龍
鯨は52ヘルツの呼吸《いき》をする
「僕はとにかく、意味というものをつけられることにうんざりとしてるんだよ」
そういいながら画筆を動かし続ける横顔は、細い木洩れ日を受けて石膏の彫刻みたいにとがっていた。色素の薄い瞳は
「人生の意味だとか命の意味だとか。生きているかぎり、どんなものにでも価値があるとか。そんなことはあるはずがないのにね。いや、どんなものにだって、等しく価値なんてものはない。ただ死という終着にむかい、直線を描いて進み続けるだけ。そのことを受けいれられず、綺麗事で塗りかため、なかみのない意味を後づけして、さもはじめから価値があったような顔をしている。そんな世界にほとほと愛想がつきたんだ」
君にはわかるだろうと、彼は睫毛をふせて言い添える。
「それはわかるけど。……わかったら、おしまいだろ」
絵画を描いている彼とは違って俺はなにもすることがないので、そのあたりに群生していたすすきをひとつ摘んで、弄ぶ。まだ若いすすきの穂が光と影を散らす。
俺の言葉に彼はちょっとだけわらって。
「なんで」
「だって意味がないことなんて続けられない。意味があると誤解しているうちは続けられる。けっきょくはそういうことだろ」
「だからって、無意味なものに意味というふだを提げることには耐えられないんだ」
「それはあんたが潔癖なんだよ」
そうかもしれないねと彼は筆を洗い、水気を拭きとってから新しい絵の具に浸す。あざやかな緑が筆を染め、画布に描かれた枝の先端に葉が繁る。細かな葉の一枚一枚に息吹を吹きこみ、枝の季節を冬から夏に変えてから、彼は振りかえった。
異境の偶像めいた貌で彼は笑いかける。俺に。
「けれど、君だってたえられなかったから、ここにきたんだろう?」
さああと廃墟に風が吹き渡る。
崩れたコンクリートの壁に折れて垂れさがった屋根の鉄骨。鉄骨を折り、天を目指し続けた名も知らない木が屋根のかわりに枝葉を広げ、この空間をかろうじて屋内に留めている。鉄骨や葉に切り取られた幾筋もの細い光が、草に覆われた地面に紋様を描いていた。光と影の絨毯だ。日が傾く度にその模様は刻々と移り変わり、黄昏が過ぎれば暗闇に落ちる。木製のイーゼルの足もとには雑草の白い花がさわさわと揺れていた。
錆びた鉄と絵の具と草いきれがまざった、重いにおいがなぜか心地いい。
すべてが緩やかに滅んだ景色のなかで、俺とあんただけが呼吸をしていた。
◇
誰もいない、どこかにいきたかった。
その廃墟を訪れたことに理由があるとすれば、ただそれだけだ。気紛れといってもいい。ようするに疲れていたのだ。
森の奥に工場跡があるという噂は聞いていた。普段から通っていた国道を逸れて、自転車で雑木林を進んだ。夕暮れをひかえてもまだ蝉はうるさく騒いでいる。鼓膜が痺れるような音だ。道幅はどんどん細くなり、倒木や石が増えてきた。諦めて落葉松の根方に自転車を置き、草叢を掻きわけて轍の跡を踏んでいくと、急に雑木林が途切れ、大きな建物が前方に現れた。
コンクリートと鉄骨で造られた、無機質な廃墟だ。
ふり仰ぐほどの大きな建物が人に棄てられてなお無言で建ち続けている様子は、なにか巨大な生物の死骸を彷彿とさせた。どうしてか、こんな森のなかに打ちあげられてしまった鯨の骨が、赤錆びて横たわっている。
いつの間にか、あれだけ賑やかだった蝉が静まりかえり、死のにおいを漂わせた静寂がその場に鬱蒼と立ち込めていた。
草を踏む自分の靴音だけが耳障りに響いては、静寂に吸い込まれていく。
工場跡の壁は剥がれ、崩れ、青々とした蔦に覆われていた。赤い根を無数に喰いこませて蔦はどこまでも伸長している。天井を突き破り、木が育っていた。緩慢に、だが確実に自然へと還っていく人工物の骨格。いつ閉鎖されたのか。なにを製造していたのか。すべてが撤去され外郭だけが残されている現在では想像もつかない。
瓦礫を跨いで、俺は廃墟のなかに踏み込んだ。
緑と錆に侵食された鯨の体内。折れた鉄骨から垂れさがる蔦が視界を遮る。腕で払い、そうして視界に入ってきたものに一瞬、目を疑った。
誰もいないはずの廃墟のなかに人がいた。
男だ。制服は着ていないが、おそらくは俺とおなじくらいの歳。彼は木製のイーゼルを立てて、絵を描いていた。ばきりと俺の靴が瓦礫の破片を踏み抜く。その音に驚いた様子もなく人影が振りかえる。
石膏の彫像かと思った。すっと通った鼻筋に猫のような眼。不健康に痩せていて、肩幅だけみれば女みたいに華奢だ。かといって、教室の隅で教科書に齧りついて勉強だけに執心するお堅い学生みたいな貧相さはない。痩せぎすのその輪郭はなぜか柔い。そうして、どこまでも透きとおっている。
あ然とする俺をみて、男は微笑んだ。
「やあ」
変声期を迎えることなく、おとなになったような柔らかい声が静寂にぽかりと漂った。親しみすら滲ませて掛けられた声にどうかえせばいいのかわからず、俺はただ突っ立っていた。
「いいところだろう? 静かで、暗くて、何にも侵害されない。あたりまえか。ここはすでに終わった場所なんだから」
彼は腕を広げて、廃墟と青く繁る樹木の天蓋をふり仰ぐ。
つられて、俺も視線を持ちあげる。
苔と蔦に覆われた幹。奔放に伸び続けた枝は、天井ぎりぎりにある横長の窓を突き破っていた。そんな朽ちた鉄と葉蔭の額物から降りそそぐ白い黄昏。床に落ちては割れた硝子の破片にあたって、拡散し、コンクリートの壁に白濁が散る。濁った万華鏡。霞んで遠い光が、何故だか優しい。海の底から、地上を眺めているみたいだ。
「なんの意味もない場所だ。あらゆる価値をはく奪されて久しい場所。後はただ、緑に還っていくだけ」
俺が黙っていても、男は気にすることもなく喋り続ける。
「ひどく落ち着くと思わないか。緑と鉄くずと、曖昧な光のなかにたたずんでいるとき、僕らは確かに自由だ。呼吸することにも、指を動かすことにも、なにひとつの意味もなくて、いい」
「どういう意味だよ、それ」
なんとかそれだけ、言葉にする。
男は笑った。
「どういう意味もないんだよ」
男はこちらに近寄ってきた。磨かれた革靴が割れ硝子を踏んだ。彼は気にとめない。ぱきぱきと硝子を割る音をひき連れて、彼はゆっくりと俺の側に踏み込んでくる。
「君も疲れたんだろう? 意味を持たされることに」
声が響く。遠く近く。
「だからここにきたんだろう」
「……、そうかもしれない」
現実から逃げたかったわけじゃない。逃げ続けるだけの勇気も、すべてを棄てる気概もない。現実のなかでしか暮らしていけないことはわかっている。ただ、ほんのちょっとだけ、息を吸う間だけでも。
「どこかにいきたかったんだ。誰もいない、どこかに。誰も、俺を俺だと知らないところに。たぶん、俺であることに疲れたんだと思う。誰かの認識のなかの俺であることに」
ぐったりと瓦礫に腰掛ける。
落ち着いて息を吸うと、草いきれでもかき消せないほどに強い絵の具のにおいがした。
「僕はここで絵を描いているんだ、なんの意味もない絵を描いている」
彼は「君になら、みせてあげる」と絵の表側に俺を誘った。つられて画布の表にまわる。
息を呑んだ。
黒い風景画だった。
黒地に立ち枯れた木々が描かれているのだが、その木々がことごとく叫んでいる。とがった枝の先端から、乾いた幹の質感から、それが見て取れる。悲嘆か。絶望か。憤怒か。それでいて、木々の雄たけびは静かだ。大地を割ることもなく、空を落とすこともなく。背景に渦を巻いた雲からは、一縷の青い絵の具が流れていた。曇天の裂け目から青空が覗いているのか。木々の絶叫に涙を流しているのか。あるいは血を、流しているのか。ただ漠然と濡れた青。
一枚の絵画にこれだけ圧倒されたことはない。
木々のひずんだ反響が聴こえてきそうで、俺は耳を塞ぎたくなった。
青ざめた木が根を張る大地には、一頭の鯨が打ちあげられていた。どこから漂流してきたのか。乾いた大地に放りだされた鯨は静かに、ただ死を待っている。
「凄い……絵だな」
彼はにっこりと笑い、絵の具の乾き具合を確かめるように画布の表に指を乗せた。
「夏のあいだに描けるだけ描くつもりだ」
絵は、廃墟のあちらこちらに飾られていた。それらはあまりにも場違いであるはずなのによく馴染んでいた。荒廃した工場跡の風景ごと、彼の芸術のようだ。
飾られたすべての絵画に鯨がいる。都会の夜景に、枯れた大地に、星の瞬く夜の帳に、孤独に横たわっている。死に瀕しても王者の風格を残して。
「他の場所で描いた絵には意味がつけられてしまうから」
彼はそれをひどく悲しいことのように語る。
「意味っていうのはつまり価値だろ。絵なら、価値がつく方がいいんじゃないのか」
「そうだね。必要なものだ」
否定はしなかった。
「絵筆を握り続ける為には、価値のあるものを描かないといけない。それが現実で。けれど僕はそれをわすれたかった。なにひとつの価値も、意味もない、絵画を描きたかった」
色素の薄い瞳をすがめて、彼は薄く微笑んだ。長い睫毛が痩せた頬に影を落とす。
「夏が終わって、僕がここを離れても、ここにある絵画はそのままにしておくつもりだ。嵐に曝され、じけじけと憂鬱な秋を越えて、冬を迎えれば雪も降る。野ざらしの
想像する。
これらの絵画が、朽ちる様を。
九月。一ヶ月程度ならば、さほど変わらない。絵の具のにおいを嫌って、鹿などの動物が近寄ってくることはないはずだ。十月。秋も本番になり、埃の積もった画布に落ち葉が被さる。落葉松の嵐は絵画の表に張りついて、乱雑な落書きを施すだろう。幾筋もの細い落葉は筆の跡に似る。やがて夏を終えてもまだまだ勢いの衰えない蔦が木製のイーゼルに絡みつき、赤い根を喰いこませる。季節はずれの台風がきても、その硬い蔓は最後までイーゼルを大地に繋ぎとめてくれるはずだ。
秋雨前線はあざやかに描かれた風景を霞ませる。乾いた絵の具は水を弾くが、数えきれない雨筋が画布を伝えば、劣化は避けられない。雨が亜麻の繊維に浸み、裏側に黒いしみが浮かびはじめる。黴だ。黒い斑紋は侵食し続け、ついに絵の表にも及ぶ。
十一月。冬になれば、寒さにやられてとうとう絵の具が罅割れる。雪はさほど積もらないだろうが、脆くなった絵画には霜ですら大敵だ。その頃には剥落した絵の具のかけらが、割れ硝子や落ち葉と一緒に散乱しているかもしれない。はらはらと、色彩の破片が木枯らしに吹かれて巻きあがる。
緩やかに朽ちていく絵画。誰の審美に曝されることもなく。
そうして、ようやっと、彼の芸術は完成する。
とても無意味に。
「………………いいな」
ぽつりと、言葉が零れた。
きっと凄く、美しいだろうと思った。
知らず、笑みすら浮かべていたのだろう。彼は俺を見つめて、嬉しそうに頷いた。異境の土地でやっと言葉の通じる相手を見つけた、放浪者の表情だった。
「あんたは」
「僕は誰でもないよ」
問いかけはかたちにするまでもなく否定される。
「君は、誰かなのか」
意味のある、なまえがあるのかと、尋ねかえされる。「俺は」と言いかけて、ああ、違うと考えなおす。
「俺も。誰でもない」
すとんと、俺の発した言葉が、鼓膜ではなく瞳のなかに落ちてきた。
そう思ったのは一瞬で、実際には日が傾いて廃墟が影に落ちただけだった。相手の顔が影に覆われて、表情ひとつ汲み取れなくなる。俺の言葉を受け取って、どんな顔をしたのか。安堵したのか。笑ったのか。空にはまだ昼の名残があるのに、無秩序に繁る枝葉のせいか、地上は布でも被せたみたいに暗い。
こんなに暗くなってしまって、帰り道はわかるだろうか。急に置いてきた自転車のことが気にかかり始めた。
「帰る」
背をむけて歩きだす。
足もとは暗く、折れた鉄骨に引っ掛からないように気をつけて進む。彼は追い掛けてくることなく、声だけが俺の背に触れた。
「僕はここにいるつもりだよ。夏が終わるまで」
錆びた鉄が声を拡散するのか、澄んだ声が廃墟に反響する。
弦の奏でが海の底から響いてくるような、奇矯な音の波長だ。
ふと思い至る。
彼の声は、鯨に似ている。52ヘルツの。
どこまでも響くのに誰にも響かない。
海の端から端までを彷徨っても、その鯨が同族の群に逢うことはない。彼だけが、他とは違う声で叫んでいるから。俺はその声を拾ってしまった。
だからたぶん。
「君を歓迎する」
またここにくるのだろうと思った。
◇
「社会の歯車って言葉を知っているかい」
前触れもなく、彼がそんなことを言いだす。いや、彼の言葉に前置きとか脈絡があった試しがない。
「社会の歯車と言えば、否定的に受け取られがちだ。けれど人の本能は、常に歯車であろうと働き続けている。人は役割に準じることでみずからの価値を認識する」
そう語る彼にも、それに頷く俺にも、等しくふだはついている。
あれから俺は幾度となくこの工場跡を訪れ、彼はかならずそこにいた。繁る枝葉と錆びた鉄にかこまれて、彼は絵を描き続けていた。知らずに打ち解け、夏も中頃に差し掛かるいまでは、こんなふうに気兼ねなくたわむれられるほどにまでなっていた。彼の散漫な会話にも慣れていたし、適度な沈黙にも気まずさを感じることはない。俺は文庫本を片手に、彼は画筆を握って、無意味な時を過ごす。
互いのことはなにも聞かない。だって、俺も彼も、ここにいるかぎりは誰でもないのだから。
いっさいの素性を持ちこまないのが暗黙の規則だ。
「意味というものの無意味さを。他人からつけられた価値の無価値さを。認識しながら、僕らは生きていくことができる」
喋りながらも画筆を握る指は細かく動き続けている。筋張った指の関節は鯨の骨格標本を想わせた。
鯨の骨格標本は、子供の頃に博物館で観たことがある。頭部や胴体は恐竜に似ていて、それなのに鰭の骨格は人の指の骨と大差がなかった。綺麗に接がれた幾つもの細かな骨をみて、幼かった俺ははじめて鯨が魚ではなく哺乳類だということを理解したのだった。
痩せた彼の指は、もしかすると鰭だったのかもしれないと、時々に思う。平らな画筆を振るっている時などはよけいに。
こんなに綺麗な手なのに筆
不意に筆を拭いて、彼はこちらに歩み寄ってきた。瓦礫に腰かけ、彼が俺の手もとを覗き込む。
「君は、バイオリンを弾くんだね」
驚いて視線をあげる。
「はじめは顎のところに跡があるのが気になった。髪を伸ばしているのはそれを隠したいんだと思った。この頃になって、指に
まさか、そんなふうに観察されているとは思わなかった。
「弾いてた。春の終わりごろまで」
「いまはやめたのか」
「そう、やめた。というか、急に弾けなくなった」
色素の薄い瞳が細められた。
「啼くんだよ、弦が」
「啼いたら、いけないのか?」
「バイオリンの弦が啼くのは褒められたことじゃない。押弦しているはずなのに、開放弦の音になるんだ。そんなのは技巧じゃない。弦が暴れてるだけだ」
「ふうん」
そう、いつからか、俺の
奏者である俺がどれだけなだめても、啼きやむことはなかった。砂をかんでしまった歯車のような、耳障りな開放弦の音。狂ったように絶叫するみずからの楽器を前に、俺はどうすることもできずに逃げた。
いまだって視線は、文庫本に印刷された文章の群の真上を彷徨っている。
逃げている。逃げ続けている。
彼はなにを思ったのか、俺の指からすっと文庫本を抜き取った。戸惑い、顔をあげると真剣な瞳が飛びこんできた。
「君の演奏が聴きたい」
驚愕して、言葉を失った。
数秒の沈黙を挿んで、俺は首を真横に振る。「弾けないんだよ」言いわけじみた呟きが喉から溢れた。「弾けないんだ」
「弾けなくていい、聴かせてよ」
彼はなおも食いさがってきた。
「は……なんだよ、セロ弾きのゴーシュの真似事でもさせるのか? 俺には、才能がなかったんだよ」
吐き棄てた。態と攻撃的に。
やっと、諦めたのだ。意味とか価値とか。つけられても窮屈なだけだった。勝手に期待されて、勝手に失望された。ただそれだけのことが、こんなにもひどい傷になるとは思いもよらなかった。俺はただ楽器と演奏が好きなだけだったのに。そのころから弦が啼くようになった。
けれど、俺の拒絶にも彼はひるまなかった。
「違うよ。才能があろうがなかろうがどうだっていい。僕はただ、意味のない、君の演奏が聴きたいんだ」
鯨の細波が、俺を揺さぶる。押しだされるように肺に詰めていた酸素が、唇の端から零れた。様々な葛藤があぶくになって、光のなかを巻きあがっていく。
「そうか」
俺はなにを恐れているのか。うまく演奏できないことか。才能が枯れたのかと、またも叱責されることか。
それとも、無意識に彼の凄絶な絵画の才能とおのれを比べていたのか。
「そうだったな」
窒息ぎりぎりまで息を吐いてから、すうと酸素を吸い込む。
濡れた緑と絵の具と鉄錆のにおいが肺を満たす。よい香りとはいえないそれらが、ひどく心を落ち着かせてくれる。
「…………わかった」
ここにいる俺は、いまここにいる俺であって、他の誰でもない。挫折した時の俺も、褒められた頃の俺も、この俺と重なることはないのだ。
「近いうちに聴かせるよ」
彼は瞳を輝かせて、「約束だ」と屈託なく笑った。
◇
久し振りに構えたヴァイオリンは変わらず、指に馴染んだ。革袋に収めて抱えてきた時にはこんなに重かっただろうかと首を傾げたが、構えてみれば程よい重さがずんと肩に掛かり、音楽が頭のなかを廻りだす。
目を閉じ、頭を傾けて、ヴァイオリンを支える。
棹をしっかりと握り、弓を弦に乗せると、いんと弦が震えた。
目蓋を持ちあげれば色素の薄い瞳と視線が絡む。意味のない絵画を描く、鯨のような彼。彼はじっと、聴いている。
ひとつ、弦を鳴らす。
思う存分啼けばいいと俺は相棒に語りかける。
影が差すように音が、産まれた。
柔い鉄の響きが、波紋のように拡がる。
呼吸するように身体ごと傾けて、ゆったりと弦を奏でた。歯車の檻からなにか輪郭の曖昧なものが逃げだして、緑の繁茂する廃墟を回遊する。
枝葉が揺れる。鉄骨が震える。さわさわと梢の噪ぐ潮騒が、弦の旋律に悲しく寄り添った。鉄骨と壁から剥きだしになった鉄筋が音を砕き、ゆがめて、反響させる。
音はとうとうと流れ、苔むして硝子の散乱した地をしとどに濡らす。
前触れもなく、弦が撥ねた。
鉄を裂くような、高音域の音波が爆ぜる。
ああ、やっぱり。
啼いた。
けれどそれは、指導者の叱責ほどには、耳障りな絶叫ではなかった。
まばらに差す光の筋が、地に残留する錆と埃を吸いあげていく。それらは枝葉の天蓋に濾過され、細かな光になり揺らめく影になり、ふたりの頭上に降りそそいでいた。まるで泡沫。だとすればここは海の底なのか。
響き渡る演奏は、水の膜を透しているように遠い。それでいて、憂いを帯びた音響はいんいんと骨を震わせ、あまい痺れを残す。重い、水の響き。人間の身体は水で出来ている。俺と彼の身体にはいま、音楽が流れている。
ああ、音を。意味のない音を。
満ち潮のように音が飽和する。
時に激しく、時に穏やかに。
最後にしめやかな音の波を残して、演奏が終わる。
弓をおろして、俺は空を振り仰いだ。満ち足りた心地だった。
「鯨の声だね」
彼は嬉しそうにつぶやいた。
「誰にも聴こえないはずの52ヘルツの鯨の歌がいま、君の演奏を透して、聴こえた。そんな音だった」
「そう、か。それは、うん、嬉しいな」
それは、きっと無意味なものだ。
陸に響かせるには、いや海であってもきっと、なにひとつの意味もないもの。それが、俺は嬉しい。
久し振りの演奏を終え、俺は穏やかな疲労を感じ、硝子の散乱していないところに腰をおろす。柔らかな苔の絨毯に背を預けるように寝転がった。視界には青。雲ひとつない夏の青さは鯨が泳ぐのにふさわしい。彼は隣にやってきて、俺とおなじように身を横たえる。ほんとうに座礁した鯨にでもなったみたいだ。
ふたりして呼吸する。
「夏もじきに終わりだね」
彼の言葉に胸が騒めく。
「まだ暑さは続くだろ」
曖昧に答えながら、ほんとうは知っていた。
気がつけば、八月も下旬。舗道で蝉の死骸をみることも増えてきた。力なく肢をまるめて静まりかえる蝉を見掛ける度、胸が締まる。月が替わるまで残り一週間。小学生の頃ならば、夏休みの宿題が終わっていないことに気がつきながらもずるずると怠けていたくらいの。
絵は増え続けていた。
崩れた瓦礫の頂、かろうじて割れていない窓枠の片隅、晴れた日には光が差す抜けた天井の真下、羊歯の生い繁る草叢、割れ硝子が散乱する窓際――その数、二十四枚。
「あと一枚だ」
夏は終わる。どれほど惜しんでも。
時が流れ続けることは、この廃墟の有り様がなによりも雄弁に語っている。
俺たちには。
その不安定さに縋り続けた俺が、どうして今さらその事実を悲しめるというのだろうか。悲しいと思ってしまうことがただ、ひたすらに悲しかった。
◇
草を掻き分けて、走る。
午前中に降り続いていた雨の名残か、草についた露が制服を濡らしても俺は構わずに走り続けた。覆い被さるような葉を透かして、紫の夕焼けが滲んでいる。
昨日までは笑っていた。一緒に、他愛のないことを語らって。
最後まで。
尋ねることはできなかった。
「月が替わっても、まだここにいるのか」
「あんたがいう夏はいつまでなんだ」
「俺はまだここにいてもいいのか」
この場所は。
この時は。
このなまえもない関係は。
この夏は。
「終わるのか」
青い夜が明けたら。
青い月を跨いだら。
「終わっていくのか」
月が替わった。
ただそれだけのことが、これほどまでに胸を焼いたことはない。始業式をすっぽかして走り続け、ようやっと鯨の亡骸のような、あの工場跡が見えてきた。
剥きだしの鉄骨からは、いまだにほたほたと雨垂れが群れをなして落ち続けている。それが蔦の葉を揺する。濡れた葉の簾をくぐり抜けて、俺は鉄と緑のなかに飛びこんだ。
いつのまにか見慣れた人影はなく――――
絵画だけが、樹木の下に飾られていた。
見たことのない絵画だった。
横長の、俺が両腕を広げても足りないほどに大きな
碧い森。瑠璃の青さが、目に浸みた。
森は静まりかえっている。霧が森の稜線を曖昧に暈す。天地の境はない。生を歓ぶほどに若くはない夏の葉が、ひたすらに黙していた。時がそれでも移ろってしまうことを忘れようと試みているのを感じた。留まれぬならば、せめてただ無意味に朽ちていきたいとする抗いが、あまりにも静かなその渕には澱をなしていた。水底に身を横たえれば、逃れられるなんてそんなはずはないのに。
森は沈んでいる。
森は黙っている。
「鯨が」
俺は絵の前によろよろと歩み寄る。
碧い森には鯨がいた。
一頭ではない。白鯨と、黒い鯨だ。二頭の鯨は互いにつかず離れずのところを穏やかに泳いでいた。碧い森を回遊する鯨。歌っているのか。啼いているのか。これまでとは違い、鯨は楽に呼吸をしている。
けれど気がついてしまった。
鯨は森を離れようとしている。
森の外にも鯨の歌を愛するものはいるのか。鯨は歌えるのか。
「なあ」
鯨は。それでも歌うだろう。
歌えてしまうのだろう。肺で呼吸をするいきものだから。けれどそれは楽なことではない。鯨の声は陸では響かないのだ。意味のない歌は歌えない。もう二度と。
俺は
あんたの夏はいつまでだったんだ。尋ねる声は喉で潰れる。言葉になったところで誰が答えるというのか、この夢の終わった後の場所で。
膝をついて崩れ落ちる。
震える背をまるめて、俺はただ、絵が朽ちる時を想った。
季節に曝されて、絵は段々と色褪せていくだろう。雨に穿たれた裏地からは、血が滲むように黒いしみが拡がり、赤い都会も緑の湖も紺碧の森もすべてが緩やかに侵食される。絵の具の鯨は鱗のように剥がれ、苔か、あるいは雪に埋もれて朽ちるに違いない。
春まではもたない。まして来年の夏なんて。
これらの絵は、誰の視線にも誰の思考にも侵害されることなく、なにひとつの意味もつけられることなく、この赤錆びた鯨の骨格のなかで滅びていくのだ。
それはとても幸いだ。確かにそれは、幸いだ。
なぜならばその終わりはひどく、美しい。
「……っふ……」
喉からひとつ、あぶくのように呼吸が洩れた。
塩辛い涙が、頬から顎まで垂れる。
夏の終わった空をふり仰いで。
俺はひとり。
声もあげずに、啼いた。
鯨は52ヘルツの呼吸《いき》をする 夢見里 龍 @yumeariki
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