第4話 風紀委員は、傘を一本しか持っていない

 今日の俺は、少しだけ早く家を出ていた。


 理由はたいしたことじゃない。

 ただ、目が覚めたから。それだけだ。


 朝の空気はまだ冷たくて、道も静かだった。

 こんな時間に歩くのは久しぶりで、少しだけ気分が軽い。


 ……その油断がいけなかった。


 ぽつり、と水滴が落ちる。


 見上げた空は、いつの間にか灰色に変わっていた。


「……まじか」


 次の瞬間、雨脚が一気に強まった。


 俺は慌てて近くの軒下に逃げ込む。

 傘はない。天気予報も見ていなかった。


 まあ、そのうち誰か来るだろう。

 クラスの奴か、秋山か……。


 秋山はたしか、体育館でやる競技の朝練をしているはずだ。

 そろそろ、この道を通る時間だろう。


 雨の降る道を忌々しく眺めていると、

 朝練に向かうらしい生徒たちが、ぽつぽつと現れ始めた。


 ――来た。


 秋山だ。

 しかも全力で走っている。


 あいつも傘を持っていないらしい。

 同類か――と思った瞬間、


 雨合羽じゃねえか。


 ずるい。


「おはようございます。秋山さん」

「その雨合羽、貸してください」


「貸すわけないだろうが」

「つーか、お前がこんな早く来るなんて珍しいな」

「雨でも降るんじゃねーの?」


「もう降ってるだろうが」


 秋山は肩をすくめる。


「俺、置き傘あるけど。貸そうか?」


「いらん。他の奴の傘に入れてもらうさ」


「みんな雨合羽だったら?」


「その時は遅刻すればいい。風邪引くよりマシだろ」


「……相変わらずだな」

「部活終わったら、届けてやるよ」


 それだけ言い残して、

 秋山は雨の中を走り去っていった。


 ……なんだか、急に寒くなってきた。


 早く、誰か来ないかな。



 そう思って道を眺めていると、

 規則正しい足音が近づいてくる。


「……何をしているんですか」


 顔を上げると、

 そこに立っていたのは風紀委員・山本董子だった。


 折りたたみ傘を差し、いつもの澄ました顔。


「見ての通り。雨宿り」


「傘は?」


「ない」


 董子は一瞬だけ眉をひそめ、それからため息をついた。


「……だから言ったじゃないですか。天気予報くらい確認を」


「風紀委員かよ」


「風紀委員です」


 一拍置いてからの、即答だった。


 それから、少し視線を落とす。


「……このままだと、遅刻ですよ」


「まあ、そのうち止むだろ」


 そう言いながらも、俺は道から目を離さなかった。


 雨はむしろ強まっている。

 この調子じゃ、遅刻は確定だ。


 隣で董子が、ちらりと時計を見る。

 眉が、ほんのわずかに動いた。


 ――風紀委員の顔だ。


 規則、時間、登校時刻。

 頭の中で計算しているのが分かる。


 数秒の沈黙。


「……仕方ありませんね」


 そう言って、傘をこちらに傾けた。


「入ってください」


 一瞬、言葉に詰まる。


「いや、狭いだろ」


「折りたたみですから」

「それに……校則的にも問題ありません」

「……たぶん」


 その一言が、妙に可笑しかった。


「じゃあ……お言葉に甘えて」


 傘の下に入る。


 思ったより近くて、息を詰めた。

 肩が触れそうな距離に、彼女の存在を否応なく意識してしまう。


 歩き出すと、自然と歩幅が揃った。


 董子は無言で傘を少し内側に寄せる。

 理由はないはずなのに、胸が落ち着かない。


 心臓の音が、雨音に紛れてくれと願った。


「……はみ出ないでください」


「そっちが寄せてきたんだろ」


「濡れるよりは、マシです」


 それ以上、会話は続かなかった。


 道の先に、大きな水たまりが見える。


「……止まってください」


 董子が足を止め、時計を見る。


 回り道をする時間はない。


「……渡るしかありませんね」


 董子は水たまりの手前で、足を止めた。

 一歩踏み出そうとして、靴先を引っ込める。


「……どうする?」


 俺が言うと、董子は一瞬だけ唇を噛んだ。


「……迂回すれば、遅刻です」

「このまま進めば……」


 言葉が途切れる。


 俺は、小さく息を吐いた。


「だったら――」

「選択肢は一つしかない」


 視線が、こちらに向く。


「お姫様ダッコ」


 一拍。


「……冗談を言っている場合じゃありません」


「冗談じゃない」

「一番、余計なことが起きない」


 董子は、言葉を失った。


 数秒、沈黙。


「……確かに、一時的措置としては……」

「でも……それだと、あなたの靴が……」


「俺の靴、もう水浸しでダメだし」


 少し間があって、彼女は小さく息を吸った。


「……合理的、ですね」


 視線を逸らしながら、そう言う。


「……掴まってください」


 俺は、なぜか敬語になっていた。


 彼女は一瞬だけ固まり、

 それから、そっと俺の首に手を回した。


 妙に胸が落ち着かなくて、

 理由を考えるのが、怖かった。


「……短時間でお願いします」


 俺は頷くだけで、

 それ以上、何も言わなかった。


 持ち上げる。

 水たまりを、一気に渡る。


 思ったより、確かな重さ。

 体温と、近すぎる距離。


 靴底が水を弾く音だけが響いた。


 渡り切ると、すぐに下ろす。


「……助かりました」


 董子はそう言って、

 まだ少しだけ、傘を強く握っていた。


 校門が見える頃、雨はさらに強まっていた。


「……もうすぐですね」


 声はいつも通り。

 でも、どこかだけが違って聞こえた。



「ああ」


 それだけで、何となく分かってしまう。

 この時間が、終わること。


 校舎に入ると、董子は周囲を確認してから言った。


「……タオル、借りてきます」


「いいって」


「……風紀委員として、です」


 言い切って、保険室の方へ向かう。


 戻ってきた董子は、白いタオルを差し出した。


「ちゃんと拭いてください」


 言われた通りに、頭と上着を軽く拭いてタオルを返す。


「……雑です」


 すぐに、ダメ出しが飛んだ。


「細かいな」


「当然です」


 言い方はいつも通りなのに、

 声だけが、少しだけ柔らかい。


「仕方ありませんね」


 そう言って、董子はタオルを取り直した。


「ほら、頭、下げてください」


 言われるままに、少し屈む。


 タオルが、丁寧に動く。

 乱れた髪を、そっと整えるように。


「……それから、足も」


「自分でできるって」


「私を運んでくれたお礼です」


 短く、きっぱりと。


 しゃがみ込み、タオルで足元を拭く。

 指先が、靴下越しに触れる。


 それだけのことなのに、

 なぜか、視線を逸らしてしまった。


「……もう、大丈夫そうですね」


「ああ、ありがと」


 一瞬だけ、視線が合う。


 すぐに、董子は目を逸らした。


 教室へ向かう廊下で、彼女はぽつりと言った。


「……また降ったら、困りますね」


「だな」


 困るのは、雨じゃない。


 そう思ったけど、口には出さなかった。


 傘を閉じた後も、

 さっきまでの距離感が、なぜか頭から離れなかった。


 校則は守った。

 ――それだけでは、足りなかったらしい。

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