第3話 風紀委員は、図形より正しい
俺には悩みがある。
中間テストだ。
迫り来る現実の前で、俺はノートを開いたまま固まっていた。
何が分からないのかすら、分からない。
「はー……」
そんな俺の横から、笑い混じりの声が飛んできた。
「さすがにお前には負けないわ」
秋山だ。
同じクラスで、成績は中の下。
嫌な奴じゃないが、こういう時だけは余計な一言を言う。
「ノート真っ白じゃん。諦めたの?」
「……うるせ」
「いやいや、現実見ろって。
俺の方が出来るの、もう証明されてるし」
軽口だ。
分かってる。分かってるが――。
俺は、ペンを握り直した。
「……じゃあさ」
「ん?」
「負けた方、校庭百周な」
一瞬、秋山がきょとんとした顔をする。
「は? いいけど?」
そして、すぐに笑った。
「別にいいぞ。
どうせ俺が勝つしな」
その余裕が、無性に腹立たしかった。
昼休み。
俺は、ある人物の前に立っていた。
「……山本」
声をかけると、彼女は顔を上げる。
風紀委員・山本董子。
「何ですか」
「中間テスト、勉強教えてほしい」
我ながら、ずいぶん素直な頼み方だった。
董子は一瞬だけ目を瞬かせ、それから腕を組む。
「……勉強は日頃からやるべきものです」
「はい」
「テスト前だけ慌てるのは――」
「分かってる。
でも今、慌ててる」
董子は言葉を切ったまま、俺を見る。
「……理由は?」
「秋山の奴と勝負することになった」
「負けた方が、校庭百周」
「さすがに死ぬ」
董子は、ゆっくりと息を吐いた。
「……他の人に頼めばいいじゃないですか。
例えば、高坂君とか。勉強できるでしょう」
「秋山に教えるんだってさ」
「だから、もう俺に頼れるのは山本しかいない」
「はぁ……」
深いため息。
いかにも呆れた、という顔だ。
「……学力の低下は、風紀の乱れに繋がるという言葉もあります」
「言わないだろ、そんなの」
「あら? だったら――」
「あああ、言います言います。超有名」
食い気味に訂正すると、
董子はわずかに口元を緩めた。
「ふふふ。だったら……」
一拍置いて、言う。
「放課後に」
「おう。放課後、図書館な」
「え?」
董子が、少しだけ目を見開く。
……なぜ驚く。
まさかこの風紀委員、
自分の部屋に招くつもりだったとか?
いやいや、風紀乱れすぎだろ。
……いや、ない。
さすがにそれはない。
きっと、別の場所を想定していただけだ。
「……まあ、いいです」
「高坂君と私の勝負でもあるんですから」
「絶対に勝ちましょう」
その言い切りが、妙に頼もしかった。
放課後の図書館は、静かだった。
机を挟んで向かい合い、ノートを広げる。
数学。
図形問題。
「まず、ここからです」
董子は迷いなく定規を取った。
「この補助線、引き方が違います」
身を乗り出して、俺のノートを覗き込む。
……近い。
髪が、かすかに揺れる。
インクと紙の匂いの向こうに、彼女の気配がある。
「角度を見てください。
ここが直角です」
「……あ、ああ」
理解より先に、意識が散る。
問題より、彼女の字の方がやけに綺麗で、目が行く。
定規を取ろうとして、
同時に彼女の指が伸びた。
指先が、触れる。
一瞬。
「……っ」
二人同時に、手を引いた。
「……続けます」
何事もなかったように、董子は言った。
けれど、耳がほんのり赤い。
……前にも、あったな。
そう思った自分に、少しだけ戸惑う。
「……分かんねぇ」
しばらくして、俺は白旗を上げた。
董子はノートを覗き込み、少し考える。
「……もう一度説明します」
投げない。
面倒くさがらない。
ただ、正しく教える。
その横顔を見ながら、思った。
補助線一本で、
見えなかった答えが見えることがある。
……人も、同じなのかもしれない。
テスト結果は、翌週に出た。
俺は――負けた。
僅差だ。
でも、負けは負け。
「はい、校庭百周な」
秋山は笑ったが、どこか申し訳なさそうでもあった。
「……放課後な」
夕方の校庭。
秋山が少し離れた場所で見ている中、
俺は一人、走り始めた。
十周。
二十周。
息が上がる。
三十周。
四十周。
もう限界だった。
足が止まり、俺はその場に倒れ込む。
「……待ってください」
足元から、声。
顔を上げると、董子が立っていた。
「……何でここに」
「私が指導したんです」
迷いのない声。
真っ直ぐな目。
「結果が出なかったなら、私にも責任があります」
「関係ないだろ」
「あります」
短く、きっぱり。
「私が、代わりに走ります」
そう言うなり、彼女は校庭を駆け出した。
……格好悪いな、俺。
歯を食いしばって体を起こす。
彼女が一周して戻ってくるのに合わせて、隣に並んだ。
「……お前、真面目すぎ」
「風紀委員ですから」
走り出す。
同じ速さで。
言葉は減り、
並ぶのは呼吸の音だけになる。
夕焼けが、校庭を静かに染めていった。
「……でも」
走りながら、董子が言う。
「今日は、少し楽しいです」
その一言で、
なぜか胸に残った。
二人合わせて、百周目。
俺はそのまま校庭に倒れ込む。
背中に伝わる土の感触と、湿った匂い。
不思議と、心地よかった。
董子は、両手を膝につき、息を整えている。
……タフだな。
「……お疲れ様です」
「ああ」
汗だくのまま、笑った。
俺は思う。
この風紀委員は――
正しいだけじゃない。
「おつかれー。頑張ったじゃん」
気の抜けた声がして、顔を向ける。
秋山だった。
「……まあな。手伝ってもらったけど」
そう言って、俺は董子を見る。
「なに、いいさ」
「お前が言い出したことだしな」
秋山は軽く肩をすくめると、
ポケットからペットボトルを取り出した。
「ほら、ご褒美。
水分補給は大事だぜ」
董子は、倒れたままの俺に一度だけ視線を向け、
小さく頷いてから、ペットボトルを受け取った。
「おいおい。俺の分は?」
「一人で走る予定を、二人にしたのはお前らだろ」
にやっと笑って、続ける。
「仲良く分けてくれ。じゃあな」
それだけ言って、秋山は校門の方へ歩いていった。
残された俺たちは、しばらく無言だった。
見ると、董子はもうペットボトルに口をつけている。
「あ……ごめんなさい」
少し慌てて言ってから、
「じゃあ……半分」
そう言って、
飲みかけのペットボトルを差し出してきた。
……またかよ。
俺はそれを受け取り、天を仰いだ。
「あきやまぁ……」
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