第2話 風紀委員、流行歌を知らない
いつも通り、俺は音楽を聴きながら登校していた。
片耳だけ。
音量も小さめ。
それでも、校門の前で立ちはだかる人物は一人しかいない。
「……そこのあなた」
聞き慣れた声。
聞き慣れすぎた声。
俺は立ち止まって、イヤホンを外した。
「おはようございます、風紀委員さん」
「挨拶はいいですから。イヤホン、外してください」
「もう外してます」
「注意される前に外すのが理想です」
相変わらずだ。
正しさに一切のブレがない。
きっちり結ばれた髪。
背筋の伸びた姿勢。
朝の空気みたいに、澄ましている顔。
……なのに。
彼女は、そこで一瞬だけ言葉に詰まった。
「……」
「?」
視線が、俺の手元――正確にはイヤホンに落ちている。
そして、意を決したように顔を上げた。
「あなた……流行りの音楽に詳しいんですか?」
思わず、間の抜けた声が出た。
「……は?」
「いえ、その……」
彼女は少し視線を逸らし、咳払いを一つする。
「いつも音楽を聴いて登校していますよね。だから……」
「だから?」
「……よほど好きなのかと思って」
沈黙。
校門の前で、風紀委員が俺に“相談”している。
昨日までなら、ありえなかった光景だ。
「……で?」
「……今度、友達とカラオケに行くことになりまして」
声が、ほんの少し小さくなる。
「でも、流行りの曲が分からなくて……。
一人だけ浮いてしまうのは、避けたいんです」
なるほど。
浮かないために、事前に対策する。
いかにも彼女らしい。
「それで俺か」
「はい。あなたなら、詳しいと思って」
「偏見じゃない?」
「合理的な判断です」
即答だった。
俺は苦笑して、肩をすくめる。
「……まあ、嫌いじゃないけどさ」
「では、放課後。少し時間をもらえますか」
それはもう、依頼だった。
放課後。
俺たちはカラオケボックスにいた。
正確には、部屋に入る前の廊下。
彼女は、カラオケという空間そのものに少し緊張しているらしく、
背中がやけに固い。
「……風紀委員さん、緊張しすぎだろ」
「その呼び方、やめてください」
「じゃあ何て呼べばいいんだよ」
少し間があって、彼女は視線を逸らしながら言った。
「……もう学校じゃないんですから。
名前で呼んでください」
「名前ねえ」
俺は一瞬、考える。
「……山本、だっけ」
「そこまでは合ってます」
「……とうこ?」
即座に、彼女が振り向いた。
「違います!」
声が、思ったより大きかった。
「……山本董子です」
「董子?」
聞き返すと、彼女は一瞬だけ言い淀んでから、付け足す。
「……すみれこ、です」
廊下に、短い沈黙が落ちた。
「……読めねえ」
「そういう問題じゃありません!」
彼女はむっとした顔で言い切る。
「ちゃんと……名前で呼んでください」
その言い方が、妙に真剣で。
俺は一度だけ、咳払いをしてから言った。
「……分かったよ、菫子」
ほんの一瞬、彼女の肩が跳ねた。
「……っ」
「何だよ」
「……いえ。何でもありません」
でも、さっきより背中の力は抜けていた。
部屋に入って、マイクを持って、画面を見つめる。
さっきより、彼女の肩の力が少しだけ抜けている気がした。
「……カラオケ、来たことあるのか?」
「え?」
「ほら、友達とか。家族とか」
一瞬考えてから、彼女は首を振った。
「ほとんどありません。……一度だけ、家族と来たことはありますけど」
「へえ。何歌ったんだ?」
「……内緒です」
視線が泳ぐ。
「絶対、意外なやつだろ」
「……否定はしません」
その反応で、だいたい察した。
――なるほど。
じゃあ、無理に“正解”を歌わせる必要はない。
俺は、彼女が一番歌いやすそうな
いわゆる“流行りのラブソング”を選んだ。
無難で、王道で、
変なクセのないやつ。
――のはずだった。
画面に歌詞が表示された瞬間、
彼女は一瞬、固まった。
「……これは……」
「王道だろ。無難だし」
「……無難、ですか」
その返事に、微妙な間があった。
「まずは俺が歌うからさ。
耳で覚えてくれ」
そう言って、マイクを口元に寄せる。
メロディは覚えやすい。
音程も高すぎない。
――問題は、歌詞だ。
歌いながら、
彼女の方を見る。
視線が、画面と俺の間を行き来している。
曲が終わって、息を吐いた。
「……ふう。
どうだ? 歌えそうか?」
「ええと……その……」
歯切れが悪い。
「まあいいや。
次は一緒に歌ってみよう」
軽い気持ちで、マイクを差し出した。
彼女は一瞬ためらってから、受け取る。
曲が流れ出す。
最初は、小さな声だった。
音程は合っている。
リズムも悪くない。
――でも。
あるフレーズに差し掛かった瞬間、
彼女の声が、はっきりと詰まった。
マイクを握る指に、力が入る。
曲の後半。
自然な流れで、ハモるパートに入った。
彼女の声が、少しだけ近づく。
……近い。
思ったより、ずっと。
息が混じる距離で、
菫子は一度だけ、こちらを見た。
視線が合う。
その瞬間、声がわずかに震えた。
音程は合っている。
でも、感情が追いついていない。
それでも彼女は、
目を逸らさずに、歌い切った。
曲が終わる。
しばらく、誰も何も言わなかった。
「……」
菫子が、マイクを下ろす。
「……ごめんなさい」
「何が?」
「……ちょっと、緊張しました」
それだけ言って、
視線を落とす。
少し間を置いて、
ほとんど聞こえない声で、付け足した。
「……あなたにだけ、
聞かせる歌みたいになってしまって……」
「え?」
聞き返した瞬間、
彼女は勢いよく顔を上げた。
「な、なんでもありません!」
耳まで赤い。
完全に、照れ隠しだった。
「それに……その……」
小さく、呟く。
「“キス”とか……。
“欲しい”とか……」
「ラブソングだな」
俺がそう言うと、
彼女は一瞬、きっと睨んできた。
「……分かっています」
「でも……だめです」
「え、なんで」
「……これ以上歌ったら……」
「……風紀委員として、どうかと思います」
声が、妙に耳に残る。
――待て。
今のは、冗談で流していい言葉じゃない。
どこからどう見ても、ただのラブソングなのに。
「な、なに言ってるんだよ。」
「これが普通のラブソングだろ」
そう言ったはずなのに、
“意識してしまう”という言葉が、頭の中でやけに反響する。
先日の、あの間接キスが脳裏をよぎる。
まずい。
顔が熱い。
自分でも分かるくらい、はっきりと。
「それに……」
彼女は俯いたまま、続けた。
「こんな歌、クラスの子の前で歌ったら……」
……なんだ?
クラスの子の前でも、俺を意識してしまうとか
そういう話か?
確かに俺が選んだ曲だけど
そういう意味じゃないよな?
俺は黙って、続きを待った。
「……私、どういう目で見られるか……」
……ああ。
それもそうだ。
浮かれていた。
完全に。
これは技術の問題じゃない。
歌の上手さでもない。
――自分らしさの問題だ。
俺は一度だけ息を吐いてから、言った。
「……じゃあさ」
画面を操作する。
「これならどうだ?」
彼女が、訝しげに覗き込む。
いくつか候補を流していく中で、
彼女の視線が、ひとつの曲で止まった。
「……これは……?」
「ああ、それか」
俺は肩をすくめる。
「恋愛感情、ゼロ。
深読み、不要。
歌えれば勝ち。
そして、なにより楽しい」
彼女はしばらく黙っていたが、
やがて、小さく息を吐いた。
「……これなら、楽しく歌えるかもしれません」
……ああ。
これでいい。
楽しそうなのが、正解だ。
ほんの少し、
彼女の肩の力が抜けたように見えた。
「よし。じゃあ特訓だな」
こうして俺と彼女は、
やけに真剣な顔で、
どうでもいい歌の練習に励むことになった。
——当日。
カラオケの部屋は、思った以上に盛り上がっていた。
イントロが流れた瞬間、部屋が一拍、静まった。
そして、誰かが吹き出す。
「ちょっと待って」
「なにこれ!」
そう、俺の提案した曲は――
いわゆる、田舎の人間が都会に憧れている――
……らしい昔からあるコミックソングだ。
少なくとも、俺はそう認識している。
菫子は、マイクを持ったまま固まっていた。
だが、友達は笑っていた。
手拍子と合いの手が、自然に混ざる。
「よいしょ!」
誰かがそう叫んだのを皮切りに、
部屋の空気が一気にほどけた。
誰も上手さなんて気にしていない。
終わった瞬間、拍手と笑い声。
「最高じゃん!」
「イメージ変わったよ!」
彼女は、顔を真っ赤にしていた。
でも――笑っていた。
翌日。
「……私のイメージ、壊れちゃったじゃないですか!」
廊下で、いきなり怒鳴られた。
「クラスの子たちに、すごい顔で見られたんですよ!」
「確かに候補を出したのは俺だけどさ。
最終的に選んだの、自分じゃん」
「うぐっ……」
「それに、盛り上がっただろ」
「あれは……あれは……!」
言葉に詰まる。
悔しそうで、恥ずかしそうで、
でも完全には否定できない顔。
俺は少しだけ笑って、言った。
「いいじゃんか」
「よくないです!」
「……お前の本当の姿を見せただけだろ」
彼女は、言葉を失った。
数秒、沈黙。
「……風紀委員の顔より、
山本董子の顔の方が、親しみやすいと思う」
……言ってから気づく。
我ながら、ずいぶん臭い。
「……それは……」
小さく呟いて、視線を逸らす。
頬が、じわじわ赤くなっていく。
「でも……私は、
都会に行きたいわけじゃないです!」
ゆるい水平チョップが、空を切った。
俺が一歩だけ後ろに下がって、
それを避けたからだ。
「はは。じゃあ、一緒に行かなくていいよ」
そう言い捨てて、歩き出す。
すると、背後から――
「次は……」
呼び止めるような声。
彼女は言いかけて、首を振った。
「……いえ。何でもありません」
でも、その表情は、
さっきより少しだけ柔らかかった。
そして彼女は、
今日もまだ流行りの歌を知らないままだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます