虎落笛
薮蘭
虎落笛
「─幸せだね」
何でもないいつもの道で、あなたはそう言った。
「そうだね」
私はたしか、そう言ったんだと思う。
ベランダに出て、街灯りを見下ろした。
たたん、たたんと、街が起きている音が響く。
吹かした煙が、ゆらゆらと立ち上ってゆくのを
見ながら、早く終わらないかな、なんて思ってみる。
あなたはどうしているのだろう。
─そもそも、あなたとは誰なのだろう?
こんなにも想っている。それなのに、名前も、顔すら、─浮かばない。少し瞼を下ろして考えてみる。風に乾いた瞳が潤う。それでもやっぱり思い出せない。
なぜ、なぜ、なぜ…
北風に背を押されて、部屋の角に押しこめられた
ノートを取り出した。青い、キャンパスのノート。
ぼんやりふわり、思い出せそうな気がしたけれど。
─思い出さなくてもいいんじゃないか?
そう言われて振り向くと、ベランダに「私」が
立っていた。苛立ちを込めて睨みつけ、ノートに
向き直った。ひらり、頁を手繰ってみる。
鉛筆で真黒に塗り潰された頁が現れた。
次も、その次も、その次も。
─なぜ私は、このノートの在処を知っていた?
─なぜこのノートは黒塗りなんだ?
答えを知っているような気がする。
思い出さなきゃならない。
どうして、思い出す?「私」がそう言う。
どうしてもだ。
でも嫌だな。
それでも思い出さなきゃ。
嫌だよ。
でも思いだせ。
いやだ。
おもいだせ。
絵を描いていた。下手くそで、見るに堪えない。
それでも、─誰かに認められたかった。誰かの心を支えたかった。なのに、
本当に救いたい人を、傷つけた。
だからやめた。描くことを捨てた。そうして他人を傷つけた。そういう自分に慄いた。でもやめなかった。本当は何がしたかった?忘れたよそんなこと。
嘘だよ、私は覚えてる。
忘れたんだ。
私は、償いたかったんだよ。
違う。
傷つけた「私」を救ってあげたかったんだよ。
違う、黙れ。
あなたを
黙れ。
黙らないよ。もう二度と戻らないあなたと「私」のために。
黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ。
だまれ。
顔を上げた。「私」はもういなくって、
ノートには数滴の染みができていた。
たたん、たたんと音がして、迎えが来たのかな、
なんて思う。やっと、終われるのかな。
嗚呼、厭─。潤んだ視界にあなたが滲んだ。
虎落笛 薮蘭 @Wama_0Fly
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます