第6話 元に戻る足場
閉店の準備をしていると店主の関澤湊が言った。
「明日、朝イチの証明写真、あんた撮ってくれる?」
優里亜は手を止めた。
「え、私が?」
「シャッター押すだけじゃないよ。位置合わせ、光、角度、全部」
「まだ無理です」
即答だった。
「無理かどうかは、あたしが決めることよ」
逃げ道は用意されていなかった。
その夜、優里亜は眠れなかった。
失敗したらどうなる。
怒られる。
呆れられる。
見放される。
でも一番怖いのはそこじゃないと気づけた。
やっぱりダメな人間だと確定することだと・・・
布団の中で、何度も撮影手順を動画で見直した。
メモを取り、手順を書き出した。
高校のテスト勉強より集中していた。
皮肉だと思った。
翌朝、客はスーツ姿の男性だった。
「履歴書用。お願いします」
声が乾いている。緊張しているのが分かった。
(同じだ)
立場は違うのに、似ていると思った。
失敗できない顔。
湊は奥に引っ込み、出てこない。
本当に一人だった。
手が冷たい。
「少し顎を引いてください」
声が硬い。
でも震えてはいなかった。
ライトを調整する。昨日メモした通りに。
一枚目、確認。
悪くない。
三枚目で表情が自然になった。
「はい、OKです」
終わった瞬間、背中が汗で濡れているのに気づいた。
「60点」
奥から湊が言った。
見ていたらしい。
「合格ですか」
「赤点じゃないだけ」
厳しいけれど、でも、否定ではなかったのは優里亜にとって救いだった。
「理由わかる?」
「肩の影が強い」
「正解」
それだけ言って、コーヒーを置いていった。
優里亜はブラックが苦手だったけど。大人の味だと感じた。
昼休憩、湊が突然聞いた。
「このままバイトだけする気?」
「え」
「学歴。いるよ」
刺さる言い方だった。
「でも今さら高校は・・・」
「“今さら”って言う人は一生そのままなんだよなぁ・・・」
いつもながらに湊は視線が鋭いと優里亜は思った。
「通信制あるでしょ。夜間もあるじゃん」
「・・・」
「選ばなかった理由は?」
答えに詰まった。
怖いからだ。
失敗が増えるのが。
また比べられるのが。
でもそれを言うのは悔しかった。
「調べます」
「今日、帰ったら即、調べな」
命令形だった。
帰宅して調べた。
通信制。単位制。編入。
知らない仕組みがいくつも出てきた。
“終わり”だと思っていた道の先に、分岐があった。
完全な元通りではないけれど、でも、ゼロじゃない。
願書のPDFを開いたまま、しばらく動けなかった。
怖かったから。
でも今回は分かった。
怖い=やる価値がある、だと。
数日後。
開店の準備をしていると、店の前で名前を呼ばれた。
「優里亜?」
振り向くと、健人がいた。
偶然にしては出来すぎているタイミングだった。
「久しぶり」
前より少し大人びて見えた。
同時に、遠くも見えた。
「ここで働いてるんだ」
「そう」
「へえ」
評価している訳でも、同情しているのでもない。
それが逆に落ち着かなかった。
「写真?」
「証明。専門学校の」
健人はすでに前に進んでいる側の人間だった。
胸の奥がざわつく。
でも、前みたいに崩れなかった。
「撮るよ」
仕事モードで言えた。
それが自分でも意外だった。
ファインダー越しの健人は、ただの被写体にすぎない。
元カレじゃない。
判断してくる人でもない。
光と角度と表情の対象。
「少しだけ口角上げて」
元カレに指示した。
いまでは健人と自分は対等。
撮影が終わる。
「ありがとう」
「うん」
それだけで終わった。
追いかけたいとは思わなかった。
代わりに別の感情があった。
次はもっと上手く撮りたい。
対象は誰でもいい。
閉店してから、湊が言った。
「あんたさ、顔つき変わったよね」
「そうですか」
「言い訳が減った顔してるよ」
厳しいが、的確だった。
優里亜は通信制高校願書の話をした。
湊はうなずくだけ
褒めもしない代わりに否定もしなかった。
すこし前に進めたとおもえれば、それで優里亜には十分に思えた。
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